解答編
この日の夜もよく晴れていて、空にはレモンのような形に欠けた月が浮かんでいた。そして、確かに街灯のないこの道は、月光がよく降り注ぎ、暗闇の為に歩きにくいと言うことはなかった。
居酒屋を後にした僕たち三人は、三日前に安藤の彼女が襲われた狭い通りを、緋村を先頭に三角形を作るようにして、歩いていた。
「それにしても──何やったんや、さっきの質問は。どうしてあんな言葉が出て来たんか、まだちゃんと理解できてへんのやけど」
上着のポケットに手を突んだまま、安藤が言う。答えたのは、咥え煙草で先頭を行く緋村だった。
「別に、何も難しいことじゃないさ。ただ単純に、あれが答えってだけだよ」
「そう言われてもなぁ……。──若庭だって、よくわかっとらんやろ?」
話を振られ、僕は頷く。
「ほらな。頼むから、俺らにもわかるように説明してくれ」
「言われなくても、そのつもりだよ。だから、こうしてこの道を歩いてんじゃねえか。──と、着いた。ここだな」
立ち止まった緋村は、左手を向いた。彼が顎で示した先には、何の変哲もない雑居ビルの壁があるだけだ。テナントの裏口のドアと、黒く汚れた室外機あり、地面には空き瓶入れや、ゴミ箱が置かれている。
「ここはさっき俺たちがいた居酒屋の裏だ。見てのとおり、あれが裏口のドア」
「そんなことは言われんでもわかる。──で? 結局それがどう、さっきの質問に繋がるんや? なんで、お前は店員さんにあんなことを訊いた?」
緋村が先ほどの女性店員に放った問い。それは──
「すみません、教えてほしいことがあるんですけど──あなたが犯人ですね?」
予想だにしなかった発言に、僕は我が耳を疑った。当然ながら安藤も同じような反応であり、緋村の顔をまじまじと見つめていた。
そして、唐突に糾弾された当人──高野と言う名前の女性店員は、一瞬何が起こったのかわからないような表情で凍り付いた。
──そうかと思うと、奇妙なことに、彼女の顔は見る間に青褪めて行った。
「そ──そんなこと、私知りません!」
ヒステリックな声で答えた高野は、まさしく逃げるように僕たちの席を離れて行った。その反応だけで、彼女が犯人だと言うことは確かなように思われた──少なくとも、緋村の質問は彼女を激しく動揺させる類いの物だったようだ。
が、しかし、安藤も言っていたように、何故彼女が犯人と言うことになるのかが、サッパリわからない。いったい緋村はどのような道を辿り、そこに至ったのか。
──そもそも、「呟き」によれば、犯人は中肉中背の男ではなかったのか?
そう尋ねると、緋村はいとも簡単に、
「アレは嘘さ」
「「嘘?」」僕と安藤の声がハモる。
「そう。本当はユカさんはハッキリと犯人の姿を見ていたはずなんだ。けど、ある理由から嘘を吐いた──と言うか、虚実織り交ぜたツイートをした」
あのツイートに嘘が混ざっていたのか。
いや、確かに犯人が高野であるなら、男ではないのだから、当然その部分が「偽」なのだが。
「それは……なんだってまた、ユカはそんなことを? そもそも、犯人の姿を見てたっつう根拠はなんなんや?」
「月明かりだよ」上空を指差して、緋村は答える。「街灯がないぶん月の光がよく届くだろ? しかも、三日前の二十四日はちょうど満月だ。今日よりも明るくて歩きやすかっただろう。──加えて、犯人は振り返ったユカさんの目の前にいた。これで犯人の姿がよく見えなかったなんて、どう考えてもおかしいじゃねえか」
「言われてみれば……。──けど、じゃあどうしてユカは嘘を吐いたんや?」
「それはだな、あくまで俺の想像でしかないが、おそらく呟きたかったからだろう」
呟きたかったから──つまり、ツイートする為に犯人の特徴を偽ったと言うことなのか?
「さっきの話にも繋がることだけど、ユカさんはハッキリと犯人を目撃した。と、同時に、自分が殴打された原因が、かつての自身のツイートにあると悟ったんだ。つまり、ツイッターで悪口を呟いたことによって、犯人の恨みを買っちまったってな。
そこまでわかってるなら、これ以上被害に遭わないよう、事件のことは呟かない──と言う選択肢もあっただろう。しかし、彼女はどうしても呟きたかった。それが大切な『日課』であり、ストレス発散の方法だったからな。──そこで、彼女は一部事実を偽ることにした。すなわち、犯人を女から男に変え、さらに誰にやられたのかわからないことにしたんだ」
「なるほど」と、僕は思わず声を漏らす。駅員の態度や学食の混み具合にさえ苦言を呈すのだ。傷害事件とあっては話題のインパクトからして世間に発信せずにはいられなかったのだろう。
「たぶん、犯人の特徴はワザと安藤に寄せたんだろうな。誤魔化すついでに、自分をフろうとしている男に仕返ししたわけだ」
「何が仕返しや。ただの冤罪やろ。──だいたい、俺に罪を着せて何の得があるんや? 下手しい──いや、確実に、余計嫌われるだけやないか」
「けど、バレなければ、事件のことを理由に、ユカさんの方からお前をフることができる。実際言われたんだろ? 『こっちから願い下げだ』って。──確か、フるのとフられるのとでは、全く話が変わって来るんだったよな?」
その言葉に、安藤は決まりが悪そうに黙り込む。彼自身も同じようなことを考えていたのだから、納得せざるを得なかったのだろう。
──しかし、まだよくわからないことだらけだ。緋村は何故高野に疑いを抱いたのか。そして、どうして他の容疑者たちは犯人ではないと断じることができるのか。
そもそも、動機がツイッターでの悪口に対する報復だなんて、何を根拠に言っているんだ?
「確か、安藤の話にあっただろ。『店員がつきだしを持って来えへん』ってツイートが。──あれは、あの居酒屋での出来事だったんだよ」
「えっ、そうなの?」
僕は安藤に確かめる。
「ああ。あそこにはユカもちょくちょく行っとったからな。もちろん、俺と一緒の時もあったし。──あ、もしかして『つき出し』か? 同じミスをやらかしとったから、ピンと来たんやろ?」
彼の言葉に、緋村は煙を吐きながら頷く。
「えっと、それはつまり……どう言うことだ? そもそも、『つき出し』って何?」
「わからんか? 『つき出し』言うたら、関西ではお通しのことやないか」
「ああ……」
許してくれ。関西人じゃないし、居酒屋にも滅多に行かないんだ。
「そのとおり。お通しはツマミなわけだから、普通はドリンクと一緒に運ばれて来るもんだ。が、あの人は酒しか持って来なかった。だから、もしかして同じ店員なんじゃねえかって考えたんだ。ちょうど被害者のバイト先とも近いし、来たことがあってもおかしくはないだろうってな」
「それは──推理って言うよりは勘なんじゃ」
「違うね。──直感さ」
同じやないかい──と、関西人ではないけど関西弁でツッコミたくなる。と言うか、普通それだけの情報でわかるわけがない。
「ともかく、彼女には報復と言う動機があり、尚且つ犯行が可能だった。そこの裏口のドアから外に出られたわけだし、凶器も手近にあったからな」
「凶器? そう言えば、彼女は何を使ったんだ?」
「ほら、あそこにあんだろ? ビールの空き瓶だよ」
確かに、「棍棒のような鈍器」には違いない。人を殴るには最適だし、犯行時も今みたいにドアの側に置かれていたのだろう。
しかし、僕はすぐには納得しかねた。
「でも、ビール瓶なんかで殴ったら、割れて痕跡が残るんじゃないのか?」
「いや、案外そうでもないねん」と、何故か安藤が答える。「テレビや映画で人の頭ぶん殴って瓶が割れるシーンなんかがあるけど、あれは撮影用の小道具やから割れるんや。飴細工でできとってな、うちの映研でも、扱ったことがある」
映研の彼が言うのだから、そうなのだろう。それにしても、今夜は知らなかったことをいろいろ教えられる日だ。
「と言うわけだ。凶器がビール瓶ってことには取り敢えず異論はないな? ──なら、話を進めるが……おそらく、事件当時、高野って店員はゴミを捨てる為に裏口から外に出ていた。そこへ偶然ユカさんが通りがかったんだろう。そして、そのまま彼女が通り過ぎかけたところを、高野は後ろからビール瓶で殴打した」
「けど、せやったら、なんでユカは気付かんかったんや? 月明かりがあるから、わかったはずなんやないのか?」
「相手が居酒屋の店員だったからじゃねえかな。つまり、居酒屋の裏にいても別におかしくない存在だったから、気にしなかったんだ。──加えて、ユカさんはその時携帯を弄ってたらしいから、余計道端にいる他人のことなんて、気にかけてなかったんだろう」
十分にあり得る話だった。
と、同時に、そもそも、事件の引き金となったのも、その行為だったのではないか──と、僕は想像を巡らせる。自分を貶める「呟き」をした相手が、懲りずにスマートフォンを触りながら歩いて来た。そして、ちょうど自分の足元には手頃な凶器が──
満月が見下ろす中、彼女の殺意は、爆発的に膨れ上がった。
「ところで、もう犯人は彼女しかおらんような感じになっとるけど、本当に他の可能性はないんか? ユカのツイートに嘘があるって言うんやったら、虻川や峰尾だって犯人に当て嵌まることになるやろ」
「いや、二人は違う──と、俺は思う。
まず、虻川に関してだが、ユカさんのツイートを見るに、歩き方が特徴的らしい。そして『キショい』って言うくらいなんだから、もし虻川が後ろから歩いて来たんなら、彼女はすぐに気付いたはずだ。──つまり、事件は起きない」
「そりゃあ、そうやろうなぁ……けど、待ち伏せしとった可能性は? そんでもって、さっきの話みたいに、ユカが気付かんと通り過ぎたとか」
「それは考え辛いな。顔見知り程度の店員と、職場の嫌な上司じゃ話が違いすぎるだろ。それに、どのみちコロンの匂いでバレちまう」
虻川が上がったのはユカさんの直前──確か二十二時前頃だそうだ。そして、三日前もコロンを付けていたのだから、当然犯行時にも匂いがした──すなわち、待ち伏せしても気付かれるから、やはり事件は起きないだろう。際どいロジックではあるが、一応諾える。
「じゃあ、峰尾はどうなんや? 二十二時ちようどに電話した時、すでにファミレスを出とったんやったら、急げば通話を終えた後でも犯行は可能やろ?」
「いや、無理だ。峰尾にはアリバイがある。証人だって、ちゃんといるんだぜ?」
「証人──それって」
例の、「謎の男」か。
「そうだ。そして、今から彼に会いに行こうと思う」
「えっ? どこの誰なのかわかったのか?」
「一応な。──つうわけで、安藤。案内を頼む」
「俺が? でも、どこに案内すればええんや? 知らんで、そんな奴の居場所なんて」
「わかってるさ。だから、取り敢えず峰尾の家の方まで連れてってくれよ。後は自ずとわかるはずだ」
意味深げなことを言いながら、緋村は短くなった煙草を携帯灰皿に捨てた。そして、すかさず新しい一本を取り出し、口に咥える。チェーンスモークはいつものことだが、一杯しか呑んでいないカシスオレンジが効いてるのか、普段よりも若干テンションが高かった。
※
それから、僕たちは二十分ほど月夜を歩いた。ちょうど安藤の彼女のバイト先──ファミレスの前を横切りながら、僕はあることを思い付き、口にする。
「ところで、水を差すようだけど──そもそも、事件があったことその物が狂言って可能性はないのかな? つまり、自分からフる為に、架空の事件を持ち出して、安藤が犯人だと騒いだとか」
「確かに、その可能性も否定できない」と、緋村りアッサリ頷いた。「が、事件自体は本当にあったんじゃねえかな。だって、ユカさんはストレス発散の為に呟いてるようなモンなんだろ? ちょっとでも嫌なことがあったらツイートする──と言うことは、実際に何か『嫌なこと』が起こったと考えられる」
「でも、むしろ『安藤にフラれそう』と言うこと自体が、大きなストレスとも言えるじゃ」
「それはそうだろう──が、だからって、自分からフる為だけに、事件をでっち上げるとは思えない。だって、彼女の本来の望みは安藤と別れないことであって、自分からフるって言うのはあくまでも苦肉の策なわけだからな」
なるほど。妙に納得してしまう。
言いくるめられた感じは否めないが──とにかく、僕はそれ以上の反論はしなかった。
──ほどなく、僕たちは峰尾の下宿先付近に到着した。正確には、その手前にあるスーパーの外だ。
「あったあった。やっぱり間違いなさそうだな。──安藤が電話した時、峰尾はここにいたんだ」
それが本当なら、二、三分電話で話した後、大急ぎで現場に向かったとしても、二十二時八分の犯行時刻には間に合うはずがない。辛くもアリバイ成立である──のだが、緋村はいったい何を根拠に言っているのか。見たところ何の変哲もないスーパーである。すでに閉店時間を迎えており──時刻は二十三時になろうと言うところだ──、駐車場の入り口は貧弱なロープで封鎖されていた。無人となった暗い店舗の前では、三台の自動販売機だけが稼働し続けている。
どこにも変わった点がなければ、「証人」とやらがいるようにも思えないが……。
そんな風に考えていると、何を思ったか緋村はロープを跨ぎ、躊躇うことなく駐車場に足を踏み入れたではないか。
「おい、何する気だ?」
「いいから、お前らも来い。こいつらの中のどれかが、謎の男の正体なんだ」
そう言って彼が親指で示したのは──なんと、三台の自動販売機ではないか。
「はあ⁉︎ どう言う意味や? まさか、機械が峰尾のアリバイを知っとるとでも?」
「そう、まさしくそのとおり。こいつらが彼のアリバイの証人だ。何故なら、お前が電話した時、峰尾はこの中のどれかでコーヒーを買っていたからさ」
「なっ──ホンマか⁉︎」
安藤が再び頓狂な声を上げる。時間が時間なだけに近所迷惑になり兼ねないボリュームだが──そんなことを気にしている余裕など、僕らにはなかった。
「なんでそんなことわかるんだ? しかも、コーヒーを買ったって、どうしてそこまで」
「だって、電話で言ってたそうじゃねえか。『カフェイン摂って頑張る』って。たとえスーパー自体が閉まっていても、機械の店員には関係ねえからな。俺みたいに無断で駐車場に入っちまえばいいし」
「じ、じゃあ、例の男の声って言うのは──」
ここまで来れば、さすがに僕にも答えはわかっていた。
緋村は返事を寄越す代わりに、揚々と自動販売機に近付き、千円札を投入する。
すると──
『まいど!』
自動販売機から、流暢な関西弁が発せられた。
ここに設置されているのは、謂わゆる「喋る自動販売機」だったのだ。
「安藤、お前が聞いたのは、今の声じゃなかったか?」
その問いに、彼はあっけに取られながらも頷いた。
「あ、ああ、言われてみればそんな気がする。──けど、セリフがちゃうぞ。俺が聞いたんは、何かを『忘れんといて』って奴で」
「それは、コレのことだろうな」
緋村はボタンを押して、缶コーヒーを買い求める。
『おおきに!』機会は律儀に礼を言い、そして、『──釣り銭、忘れんといてや!』
まるで馴染みの店の主人のようなフランクな口調は、呟き声などとはほど遠かった。もちろん、「月夜の呟き」などと言うのは、僕の勝手な想像だったのだが。
意外な結末に言葉を失っていた僕たちを他所に、緋村だけが相変わらず話し続ける。
「下宿先の近くにはスーパーがある。でもって、スーパーの駐車場には、十中八九自販機がある。ここは現場とは片道二十分ほどの距離──走ればもっと短い時間で行けるだろうが、二十二時ちょうどの通話を終えてからスタートするってなると、どのみち間に合いそうにない。──辛くもアリバイ成立だ」
語りながら、咥え煙草のまま缶コーヒーを開けた。
そして、最後にポツリと、
「やっぱり、煙草には酒よりコーヒーだな」
まるでこの事件に「オチ」を付けるかのように、ヘヴィースモーカーは呟いた。