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停滞の賢者  作者: 楯川けんいち
弟子とメイドのいる日常編
27/76

5話 弟子の日々

クレア視点です。

 私が賢者様の弟子となって、一か月。

 

 数日前にようやく、地獄の釣りを晴れて卒業することができた。

 

 

 ***

 

 

 たかが釣りと、(あなど)るなかれ。

 

 ただ竿を構え、始めたときに天頂にあった陽が、いつしか落ちて夕闇になる。

 そして一度の引きもなかった竿を肩にかけ、空のバケツを手にして帰ることがどれほど心に重く響くことか……!



 最初の一週間は、本当に辛い日々だった。

 何の成果もあげられず、不安と焦燥が胸中に渦巻いていた。

 しかも、釣りでは体を動かしてそれらを発散することもできない……。

 

 

 だが、それが一週間を境に、変化が起こった。

 なんと師匠がつきっきりで、出来の悪い弟子である私を見てくださるようになったのだ。

 

 やはり師匠は優しい、と私は感じ入った。

 しかし、そんな余裕は始まるまでのことだった。


 

 私もすでに慣れたもので、手早く釣り糸を泉に投げ入れ、踏み台のような椅子に腰を下ろした。

 すると、師匠が唐突に私の頭に手を置いた。

 

「じゃあ、クレア。僕がこれから君の魔力を操作する、少しくすぐったいかもしれないが我慢するんだ。そしてその感覚をしっかりと頭で覚えて、体に刻み込むんだ。いいね?」


 そして始まったのは、今までと違う意味で地獄だった。

 

 体が内側から撫でられるような、自分でも触れられない場所を触れられているような感覚が私を襲った。

 まるで、体が自分のものではなくなったようだった。

 

 困惑と羞恥が衝撃となって私の意識を揺るがし、頭が真っ白になった。

 

 

 私はそのとき気絶したらしい。

 

 

 私の意識の上では次の瞬間、私が寝起きしている屋根裏の一室のベッドの上にいたのだった。

 そのときすでに陽は落ちていて、すぐに夕食になった。

 

 夕食の席で私は、付き合っていただいたのに今日の修行が出来なかった失態を師匠に謝った。

 しかし、師匠は「いや、今回は僕が悪かったんだ……。謝らないでくれ……」と目を合わせずに不問にしたのだった。

 

 私は師匠の期待に応えられなかったのだろうか……。

 そう落ち込んでいた。

 

 だがそのとき、ウェルティナが爆弾を落とした。

 

 

「そうよ、クレアは逆に謝ってもらうほうだわ! 手っ取り早い方法だからって女の子を気絶させるとはどういうことなの!? しかも失禁(・・)させるだなんて最低よ!!」



 ……。


 …………し、し、し、失禁?

 

 私はギシギシと油のきれた扉のように、師匠とアイラに顔を向ける。

 前者は無言で顔をそらし、後者は「おいたわしや、殿下……」とハンカチを目元に当てていた。

 

 首から耳の先まで熱くなっていくのを、私ははっきりと感じた。

 

 師匠の目の前で、失禁……。

 いまここで死んでしまいたい……!

 

 私はあまりの羞恥に、椅子から崩れ落ちた。

 そして泣きながらゴロゴロと床を転がってしまった。

 

 あーあーあー……!

 今日がなかったことに……。

 師匠の魔法で私の時間を一日巻き戻して……。

 でも師匠が付き添ってくれた記憶が……。

 それにそれだと師匠は憶えて……。

 うーうーうー……!

 

 

 その日のその後のことは、憶えていない。

 ないったらないのだ。

 

 

 ***

 

 

 それからは、ゆっくりと師匠が私の魔力を操作することに慣らしていくことになった。

 しばらくは気まずい沈黙となるときが多かったのだが。

 

 それでもあの感覚になれるのは難しかった。

 だが、始めて一週間と半分が過ぎるころにはコツをつかみ始めることができた。

 

 そこから先は私の独力でも、だんだんと魚が食いつくことも出始めた。

 

 そしてついに、あの記憶を封印した事件から二週間半後……!

 私は魚を釣り上げたのだ!!

 

 師匠は頭を撫でて褒めてくれた。

 アイラもそれを手放しで喜んでくれた。

 そしてウェルティナも、「やったわね!」と祝福してくれた。

 

 その魚は賢者様が(さば)き、アイラが調理して私の夕食のおかずとなって出てきた。

 一匹丸ごとの量は、なかなかに多かった。

 しかし、私は残すことなく平らげた。

 

 今までのどんなご飯よりも、それはおいしく感じたのだった。

 

 

 ***

 

 

 その次の日から、本格的に魔法に関する修行が始まった。

 

 座学は難しいことも多く、あまり理解が進まないこともある。

 また実践は厳しく、会得しなければならない技術は山のようにある。

 

 しかし私は今、とても充実しているのだ。

 

 知らないこと、新しいことに日々出会う。

 それは冒険と似ている。

 

 わくわくとするここの毎日は、もう私にとってかけがえのないものになった。

 

 だから、それをくれた師匠に、私はいつだって感謝の言葉を贈るのだ。


「ありがとうございます、師匠!」


 師匠は「なんのことだ?」と首を傾げるけれど、私はいつもそれには答えない。

 

 この温かな思いは、今はまだ私の中だけに仕舞っておきたいから。

 

 

 

 

これからも拙作をよろしくお願いします。

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