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94. ギフト (ぎふと)

エリセルは相変わらず表情を崩さないまま、短く速い歩幅で先を行った。

足取りの端々に棘があり、声をかけるのもためらう空気がまとわりつく。


……と、不意にエリセルが立ち止まった。


「……どうかしました?」


ライネルが慎重に尋ねると、エリセルは手にした箱を見下ろして言った。


「……物を、取り違えたみたいです」


「……え?」


ライネルが目を見開く。


「どういうことですか。中の宝石……それで合ってるじゃないですか」


エリセルは慎重に箱を開け、もう一度中を覗き込んだ。


「……違う。私が買ったのは、原石を加工しただけのものだったのに……」

「これは……中の構造が違います。加工のやり方も……私のより、ずっと精密ですね」


眉がわずかに寄る。


「……ふう。戻って取りに行くのは、無理でしょうね?」


ライネルは少し考えてから首を振った。


「はい。たぶん……侵入者だと思われてるはずです。今頃は警備も増えてますよ」

「それに内部まで把握してるなら、次は罠があるかもしれません」


「はあ……」


エリセルは苛立ちを押し殺すように息を吐いた。

その目には悔しさと、掴み損ねた何かへの焦りが滲んでいる。


それを静かに見ていたライネルが言った。


「とりあえず……これ、持ち主に返した方がいいんじゃないですか?」


エリセルはゆっくり視線を落とした。

手の中の、きちんと包まれた箱。

中身は盗まれた宝石だ。だが、彼女が買ったものではない。


「……そうですね」


エリセルは小さく頷き、低く呟いた。


「まずは……持ち主を探すのが筋ですね」


二人は自然と考えが一致したように、言葉もなく踵を返す。


街の中心を抜け、

市場の近くにある治安官署へ向かう道。


ライネルは箱の中身が引っかかるのか、一歩後ろで黙って考え込んでいた。

エリセルはその箱を抱え、目つきを固めて歩く。


「失礼します」


エリセルが慎重に扉を開ける。


書類を整理していた端正な身なりの男が顔を上げた。


「どうしました?」


男は立ち上がり、二人を迎える。


エリセルは手にした箱を、そっと差し出した。


「これ……道に落ちてたんです」

「宝石が入ってるみたいで。落とし主がいるかと思って……」


治安官は箱を受け取り、頷いた。


「なるほど……」


しばらく箱を眺めてから、顔を上げて問い返す。


「……拾われたのは、どのあたりですか?」


その言葉に、エリセルが一瞬だけ視線を逸らす。


それを見た治安官は、軽く笑って安心させるように頷いた。


「大丈夫ですよ。経路の確認だけです」


エリセルは小さく息を吸い込み、静かに口を開いた。


「実は……スリを追いかけていて」

「その途中で、地面に落ちてるのを拾いました」


「そうでしたか」


治安官は納得したように箱をもう一度確認し、重々しく頷いた。


「承知しました。落とし物としてこちらで預かります」

「確認が取れ次第、持ち主に返却しましょう」


エリセルとライネルは同時に頭を下げた。


「ありがとうございます」


しばらくして、二人は治安官署を出て、静かに市場の方へ歩き出す。


市場から少し離れた、人通りの少ない道。

まだ正午の気配が残る陽射しの下、影の少ない石畳に二つの影が並んで伸びていた。


「……ところで」


ライネルが控えめに口を開く。


「エリセルさんのあの能力……鑑定した物の気配って、どれくらい追えるんですか?」


エリセルは少し考えるように宙へ視線を置き、すぐ肩をすくめた。


「うーん……たぶん、三十分以内かな」


「気配っていうのも、私も上手く説明できないんですけど」

「鑑定のときに無意識に残る、残り香みたいな感じで」


「能力の本質は『鑑定』ですし……」

「追跡はおまけみたいなものだから、長くは持たないんですよね」


ライネルは感心したように頷く。


「なるほど……本当にすごい能力ですね」

「この街に来て……そんな話、初めて聞きました」


「知らなくても不思議じゃないですよ」


エリセルは当然のように言った。


「ギフトって……確率で言えば、人口百万人に一人くらいだって言うじゃないですか?」


少しだけ表情が和らぎ、エリセルが肩をすくめる。


「でも……あの盗賊のアジト」

「放っておいて大丈夫なんでしょうか」


ライネルの問いに、表情がまた引き締まる。


「何かと繋がってるかもしれないじゃないですか」


ライネルも足を少し緩めた。


「誰が絡んでるか分からない問題ですから……」


小さく頷き、呟く。


「上の連中が、目をつぶってた可能性もあります」


それを聞いて、エリセルは力が抜けたみたいに肩を落とした。


「……宝石は失ったけど」

「でも……無事に抜けられたし……」


そして、しょんぼりした顔で言う。


「今回は見なかったことにしましょう」

「これ以上関わったら……私たちが危ないかもしれないですし」


少しの沈黙。


そのとき、エリセルの腹が小さく「ぐぅ」と鳴った。


「……お腹すきました」


語尾に力がない。


「ご飯、食べに行きましょう……」



暖炉の前で茶をすすっていた老紳士は、読んでいた本を閉じ、静かに耳元へ魔道具を当てた。


『……うむ、分かった。カイル様へ……伝えておこう』


短い応答のあと、老紳士は魔道具をゆっくり下ろし、書斎の窓の外へ視線を投げた。


自分たちが交わした会話が、治安官署の近くに密かに配置された何者かによって盗み聞きされている――

その事実を、彼らはまだ知らない。


一方、屋敷の奥の廊下。


足音を殺して歩くネバスは、カイルの部屋の前に辿り着いた。


大きく重い扉の前で一度だけ止まり、すぐにノックする。


「坊っちゃん」


数秒待ってから、ネバスは慣れた手つきで取っ手を回し、部屋へ入った。


中には誰もいない。


だが、彼は動じない。


すぐに本棚をわずかに押し、

隠し通路へ繋がる魔力認証の口へ手を当てた。


シュッ。


機械音とともに壁が割れ、隠された階段が姿を現す。


ネバスはそのまま、静かに下へ降りていった。


どれほど降りただろう。


湿った暗い通路の先で、

血と悲鳴の気配が絡みつく空気が鼻を刺す。


「ぐっ……うあああっ……!!」


地下の部屋では、血まみれの何かが鉄製の寝台の上で身をよじっていた。


その中心に、カイルが汗に濡れた顔で立っている。


額を布で乱雑に拭い、カイルはネバスの方へ歩み寄った。


「何だ?」


ネバスは頭を下げた。


「坊っちゃん。ギフトに関わる人物を見つけた可能性があります」


「……本当か?」


カイルの瞳が鋭く光り、口元がわずかに引きつった。


そして堪えきれないように、喜びの笑みを押し隠せないまま頷く。


「分かった」


「とりあえず……今やってることを片付けてからだ」

「詳しい話は後で聞く」


「外で待ってろ」


「はい、坊っちゃん」


ネバスは丁寧に頭を下げ、踵を返した。


扉へ向かって歩き出した、そのとき。


部屋に残った鋭い悲鳴が、再び爆発する。


「ぎゃあああっ!! うああああっ!!」


ネバスは一瞬足を止めたが、

短く息を吐き、何も言わず扉を開けて外へ出た。



朝食を簡単に済ませたライネルとエリセルは、

人目を避けて今日も静かに二人だけで外へ出た。


目的地は変わらない。市場通りだ。

赤い魔力石にまつわる手掛かり――

あるいは、その背後にいる誰かを探すために。


「ふぅ……」


街の中心の露店の前で、エリセルは昨日よりもずっと真剣な眼差しで、並べられた宝石を眺めていた。


とくに赤みを帯びた原石や装飾品の前では、

視線を長く留める。


その様子を見ていたライネルが、退屈そうに小さく呟いた。


「……そのすごい能力、使えば一発で分かるんじゃないですか?」


エリセルは視線も外さず、そっけなく返す。


「一度にいろいろ使うと、集中が乱れるんです」


そしてすぐ、短く鋭い目つきでライネルをちらりと見る。


「そんなに暇なら」

「怪しい人が近づいてないか、周りを見てください」


「……はいはい」


ライネルは小さくため息をつき、周囲に視線を巡らせた。


その瞬間、

エリセルの視界に、赤い宝石が小さく嵌め込まれたイヤリングが入った。


何かを感じ取ったように、彼女は軽く息を吸い、

そのイヤリングへそっと手を伸ばす。


だが――


「……あっ」


ほぼ同時に、別の誰かの手が伸び、

エリセルの手の甲と触れ合った。


一瞬の静寂。


エリセルはその見知らぬ手を見上げ、少し驚いた顔で言った。


「……どうぞ。先に取ってください」


「いえ。先に触れたのはあなたでしょう」


くたびれた灰色のフードの下から覗く顔は、

驚くほど柔らかく穏やかな微笑みを浮かべていた。


カイル・テルビアン。


「……っ! あ、あなたは……!」


エリセルは目を見開き、固まった。


カイルは笑みを崩さず、静かに言う。


「こんなところで、また会いますね」

「それにしても……私を覚えているんですか?」


「も、もちろんです!」


エリセルは慌てて頷く。


「この街で……知らないほうが失礼で」

「知ったら忘れられない方ですから!」


焦ったように両手を忙しく振って言い足すと、

カイルは小さく笑った。


「はは……身に余る紹介ですね」


そして、そっと人差し指を唇に当てる。


「シッ。今日は静かに見物に来ただけなので」

「できるだけ普通に……品を見たいんです」


「は、はいっ! 分かりましたっ!」


エリセルはどこか浮き足立った顔で、何度も頷いた。


「やはり……お嬢さんは品を見る目がある」


陳列されたイヤリングを軽く眺めたカイルが、

ふとエリセルへ顔を向けて言った。


「え……お、お嬢さん……?」


エリセルは目を丸くして戸惑った。


「どうして……」


カイルは当然のような笑みで答える。


「勘ですよ」


「どう見ても……男の線には見えません」

「表情も、仕草も……ずいぶん繊細だ」


エリセルの頬が、目に見えて赤くなる。


「あ……はい……」

「ひ、秘密にしてたのに……」


慌てたように手を振り、小さく呟くその姿は、

いつもの強気さとはまるで違っていた。


「それで……お名前は?」


カイルに問われ、

エリセルは一瞬ためらってから静かに答える。


「エリセルって呼んでください」

「気楽に……それで」


カイルは小さく頷き、穏やかな声で言った。


「そうですか」


「可愛らしい名前だ」


「……っ」


エリセルは続く言葉に、

体が半分縮こまるみたいに頭を下げた。


ライネルが控えめに口を開く。


「僕は……ライネル・スハルタです」


「同じく、気楽にライネルと呼んでください」


「エリセルさん、そして……ライネルさん」


カイルは二人の名を一つずつ丁寧に繰り返し、

柔らかな顔で交互に見た。


「エリセルさんは……」

「なぜ、この品を選んだんです?」


エリセルは言葉に詰まった。


「……それは……」


唇を湿らせるようにしてから、視線を少し逸らし、呟く。


「気配が……あるんです」

「品から出てる……波、みたいな」


「波?」


カイルが興味を示したように、首を少し傾けた。


エリセルは誤魔化すように小さく笑う。


「はい。私にはちょっと特別というか……」

「……妙に強く感じることがあって」


話しながら、自分が何か言い過ぎたと気づいたのか、

彼女はすぐ言葉を切った。


カイルはその様子を黙って見つめ、

ゆっくり頷く。


「驚きました」


「その“勘”というのは……」


笑みは相変わらず温かい。

けれど、その奥に潜む好奇心と計算は、薄く静かに張り付いていた。


「実は私も……」

「宝石や工芸品に興味があるんです」


「ただ最近は……」

「この市場にも偽物がずいぶん出回っていると聞きましてね」


「まったく、厄介です」


そう言いながら、

カイルは自分が手にしていた赤い宝石のイヤリングを、静かにエリセルへ差し出した。


「これは……お嬢さんに見てもらった方がよさそうだ」


「……ありがとうございます」


エリセルは躊躇いながらも、そっと受け取った。


カイルはゆっくり手を下ろし、静かに続ける。


「よろしければ……お二人」


「もしお時間があるのなら」

「私の屋敷へ一度、いかがですか」


「私が集めた品も、少しお見せしたくて」


ライネルが目を丸くして聞き返した。


「……え? 僕たちを……?」


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