126.グランテール家 (ぐらんてーるけ)
「造形魔法、発動」
カミが小さく唱えた。
囁きはかすかだったが、その言葉の終わりから空気が変わり始める。
ふわっ。
小さな光の欠片が宙に結ばれた。
星屑のようにきらめく結晶たちが静かに漂いながら、ひとつの形を作り始める。
そして。
ことん。
完成した小さな白い仮面がひとつ、床にぽつんと落ちた。
光の残滓が表面を巡るように、かすかにきらめいている。
「仮面をつけて出れば、誰もお前だなんてわからないだろ?」
ライネルは仮面を見つめた。
「……でも……
服が……」
その時。
「じゃーん!」
カミがいたずらっぽく叫びながら前足を振る。
同時に、小さな光の欠片が再び宙を彩った。
しゅうううん。
光の軌跡が円を描いて巡り、
その中から真っ白な布が流れるように広がっていく。
ライネルの前に現れたのは、
ほのかな光沢を帯びた、長く劇的なマントだった。
首元から足先まで流れるように包み込み、
体の輪郭をやわらかく隠す白いシルエット。
「これでいいだろ?」
「……う、うん。まあ……
それなりには」
ライネルは仮面を手に取り、マントを羽織った。
「さあ、ライネル。
王都の夜景も見がてら……
出かけようぜ?」
「でも、お前はどうするんだ?」
ライネルが尋ねる。
カミは誇らしげに笑って言った。
「私はもちろんマントの中に隠れて、
目の穴からこっそり見物するんだよ〜」
「ぷはは……
それ、余計に怪しいんだけど?」
二人は顔を見合わせて、ふっと笑った。
そして。
「じゃあ、冒険に出ようか?」
「それじゃ、出発!」
王都冒険者学校の静かな寄宿舎。
しんと閉ざされていた窓ががたんと開き、カーテンが揺れる。
白いマントをまとい、
白い仮面をつけた正体不明の存在が、窓を越えた。
ふうううん。
その足元に青い魔力が静かに広がり、
空気を押し上げる。
月明かりの下。
その存在は、伝説の幽霊のように静かに舞い上がった。
◇
淡い灯りに照らされた執務室。
ヘレニアは机の前に座り、何かを素早く書きつけていた。
その時。
こんこん。
扉の向こうからノックの音がする。
「ペトロです」
「入れ」
静かな返答に合わせて扉が開き、
ペトロが慎重に入ってきた。
「この時間に、どうしたんだい?」
ヘレニアが顔を上げて尋ねると、
ペトロは懐から一通の手紙を取り出し、彼女へ差し出した。
「ポート・テル方面からの情報が届きました」
「そうか……?」
ヘレニアは手紙を受け取り、目を落とす。
その視線が一行一行文字を追っていき――
次第に表情が固くなっていく。
目元にはひややかな気配が宿り始め、
静かだった執務室に重苦しい緊張が満ちた。
「……!」
ペトロは慎重に彼女の反応をうかがう。
「ヘレニア様?」
ヘレニアの瞳がゆっくりと冷えていく。
手にした紙は、感情のこもった力で少しずつ皺だらけになっていた。
「そう動くつもりだというわけか?」
低く吐き出された声。
その内側には、威圧するような怒りと緊張がぎりぎりに凝縮されていた。
水面下で蠢いていた影が
とうとう表へ浮かび始めたということだった。
ヘレニアはしばらく息を整えたあと、手紙を机に置いた。
「すまない、ペトロ。少し考え込んでしまっていた」
そして、目を細める。
「それより……
エルフ側からは、まだ何の知らせもないのか?」
ペトロは頭を下げ、短く答えた。
「はい。まだ特に連絡はありません」
「そうか」
ヘレニアは机の上を指先で軽く叩いた。
しばし思案する顔。
揺るがぬ静けさ。
だがその静けさは、
何かが爆発する直前の沈黙にも似ていた。
「情報統制は徹底してくれ。
この件はまだ……
表に出す時じゃない」
「もちろんです、ヘレニア様」
ペトロは深く頭を下げ、静かに退いた。
続いて、扉の閉まる音が響く。
執務室に再びひとり残されたヘレニアは、
もう一度手紙を広げて目を通す。
「カイル・テルビアン」
小さく、だが鋭くその名を吐き出す。
「まさか……
あの厄介な男が、この件の裏にいるとは……」
ヘレニアは静かに引き出しを開けた。
黒いベルベットの上に置かれた、ひとつの赤い宝石。
血のように濃い輝きを宿しながら、かすかに魔力を放っていた。
「マグレイ……」
◇
青い魔力がほのかに舞う夜空。
その上を漂うように浮かぶ、白いマントの人影。
ライネルは空から街を見下ろし、目を輝かせた。
「カミ、上から見ると……
すごいな、これ」
「だろ? やっぱり街ってのは上から見てこそだよな」
王都の中心部は灯りに満ち、
その隙間を行き交う大勢の人々が、それぞれの夜を生きていた。
その時。
路地の一角で、何かが素早く動く気配がした。
ひとりの少年が、何かに追われるように慌てて走っている。
「……?」
ライネルの視線がそちらへ向く。
「ライネル? 何してるんだ?」
カミが驚いて尋ねるが、
ライネルはすでに下へ向かって動き始めていた。
「ちょっと……
降りてみる」
しゅっ。
ライネルが路地の入口に着地すると、
その後ろを追っていた五人の男たちが足を止めた。
「少し、待ってください」
「何だ、お前」
先頭にいた荒っぽい顔つきの男が、眉をひそめる。
「さっさとどけ。さもないと……
ひどい目に遭うぞ」
ライネルは引かなかった。
「どういう理由で、あの少年を追っているんですか?
皆さん……
ちょっと怪しく見えるんですけど」
「はっ、何言ってんだこいつ」
男はため息をつき、手を振った。
「面倒くせえな。どけ!」
「どけ!」
男たちは露骨に威圧的な構えを取る。
そのうちの一人が短剣を抜き、突っ込んできた。
ひゅっ!
ライネルは横へかわしながら手を伸ばす。
「念動波」
青い魔力が一瞬で広がり、男の体を弾き飛ばした。
二人、三人。
突っ込んでくる男たちを、ライネルは正確に魔法で制していく。
「こいつ、魔法使いか!?」
「軽々しく近づくな! 相当やるぞ!」
彼らの足元から、きらりと光る鎖が飛び出す。
瞬く間に四人の足首へ絡みつき、転ばせた。
「うわあっ!」
「くそっ、何だこの力は!?」
ライネルは素早く振り返り、少年へ駆け寄る。
「捕まる前に、行こう!」
そして。
青い魔力が立ち上り、二人は空へ舞い上がった。
「あいつ、何者だ!!」
下に取り残された一団が、叫ぶように声を上げる。
「グランテル様!」
切羽詰まった叫びが路地に響き渡った。
だが、その声はもう、
夜空の彼方へ遠ざかっていた。
「わあ……」
少年は黙ったまま街を見下ろしていた。
王都の灯りが川のように下へ流れていく。
月光を反射する窓、
通りごとに違う物語が欠片のようにきらめいていた。
高みから眺めるこの街の光景は、
星の下で目を覚ましたもうひとつの世界のようだった。
しばらく飛んだあと、
ライネルは人気のない路地の端にゆっくりと着地した。
少年をそっと降ろしながら言う。
「この辺なら……
もう追ってこられないと思う」
息苦しかった仮面を外すと、
涼しい夜風が顔を撫でた。
その瞬間。
「君、すごい人なんだな! ありがとう!」
少年が明るい顔で叫ぶ。
その話し方には堂々とした気配と、少しばかりの尊大さまで滲んでいた。
育ちのよさそうな顔立ちに、よく通る口調。
どう見ても裕福な家の坊ちゃんそのものだ。
「でも……
君を追っていた人たちは、いったい誰だったんだ?」
ライネルが慎重に尋ねると。
「うん、父上の部下たちだよ」
「……部下?」
「そう。街に遊びに来てたんだけど、
ずっとついてくるから逃げてたんだ」
「…………何だって……?」
ライネルの目が大きくなる。
てっきり、無実の子供を追い回す悪党を止めたのだと思っていたのに。
「だから本当にありがとう!
おかげで……
今度は一人でゆっくり見て回れそうだ」
少年はにこにこと笑っていた。
だがライネルの頭の中は、すでに混乱していた。
助けたつもりが、誘拐犯に間違われかねない最悪の展開。
「まずいな……」
ライネルは頭を抱え、小さく呟いた。
「それより」
少年がぱっと目を輝かせて聞いてくる。
「もう一回、空を飛べる?」
「え?」
「さっきの、すごくかっこよかったんだ!
この街の上を、もう一度空から見たい!」
ライネルは困った顔で首を振った。
「ごめん……
それは無理だよ。
魔力をかなり使うから、よっぽどの時じゃないとできないんだ」
「ちぇ……」
少年は唇を尖らせると、
疑うような目でライネルを見上げた。
「わざとだろ?」
「え?」
「君も父上が寄こした人間なんじゃないのか?」
「違うよ! 全然違う。
それに、君のお父さんが誰かも知らないし」
ライネルが手を振って否定すると、
少年はあっという間に顔を明るくし、勢いよく手を挙げた。
「僕はルカド・オリビア・グランテル!」
「…………」
「それから父上は、
グランテル家当主、エラード・オリビア・グランテルだ!」
少年は胸を張って、得意げに言った。
「名前、すごく長いだろ? ちょっとかっこよくない?」
「グランテルって……?」
ライネルは戸惑いを滲ませた顔で聞き返した。
「うん、そう!
でも君、父上の名前を聞いても全然驚かないんだな?」
「うーん……
よくわからないけど……」
ライネルは気まずそうに笑った。
グランテルという名はどこかで一度くらい聞いたことがあるような気もしたが、
記憶はひどく曖昧だった。
「まあ、いいや。
それより君、僕と一緒に街を歩こうよ!」
その時。
「あー、もう窮屈だ! 本当に限界だ!」
しゅっ。
いきなりライネルの胸元から飛び出してきたカミ。
白いマントの中から羽をばたつかせ、宙に姿を現した。
「カ、カミ!?」
ライネルが驚いて叫ぶ。
「うわっ!」
ルカドの目がまん丸になる。
「しゃべるトカゲだ!」
「な、何だとこのガキ!
この我が身はドラゴ――」
「カミ!」
ライネルが慌てて止めるより早く、
カミは勢いを弱めた。
「あ、あー……
その……
私は、この人間の使い魔ということになってるんだ……」
「使い魔って何?」
「それはね……
特別な契約で結ばれた、
一緒に戦う仲間みたいな存在のことだよ」
ライネルは慌てて取り繕いながら、笑ってごまかそうとする。
「はは……
ルカド、今日見たことは、その……
誰にも言わないでもらえると助かるんだけど」
ルカドは肩をすくめ、にっと笑った。
「わかった! 秘密の方が面白いしな!
誰にも言わないよ!」
そうして彼らは、しばらく歩きながら
王都の大小さまざまな路地をひとつひとつ見て回った。
食べ物の屋台の前では思わず唾を飲み込み、
怪しげな商人の品物には一緒に目を輝かせた。
そんな中。
「待って」
ライネルが足を止めた。
「向こう……
人の気配がする」
「ルカド様!」
路地の向こう側から、人々の叫ぶ声が聞こえてくる。
ライネルは手を差し出しながら尋ねた。
「ルカド、また逃げる?」
「いや」
ルカドは首を振った。
「ここまで来てまた逃げたら……
君が困る気がするんだ。
これくらいなら、十分遊んだってことにしてもいいし」
その言葉に、ライネルは小さく笑った。
「そっか。
僕は正体を隠してるから……
そろそろ姿を消した方がよさそうだな」
ライネルは静かに後ずさりながら手を上げ、
再び空へ飛び立つ準備をする。
その時。
「名前、何ていうの!?」
「……ライネル」
ルカドは目を輝かせながら、その名を繰り返した。
「ライネル……
そうなんだ。かっこいい名前だな」
そうして夜空を切って寄宿舎へ戻る途中。
カミが急に呆れたように呟いた。
「そういえばライネル。
お前、正体を隠すんじゃなかったのか?」
「そうだよ……
さすがに堂々と出てきたわけじゃないし……」
「でもさ」
カミが顔を上げて、じとっとライネルを睨む。
「仮面までつけて、マントまで羽織ってたくせに、
さっき何で名前を言ったんだ? それも本名で」
「…………」
ライネルは目を丸くし、口を押さえた。
「あ、あああ!!
どうしよう!! 完全にまずい!!
あいつ、高位の家の子供だったじゃないか!!」
「あとで何て言うつもりなんだ?
あの時の仮面の怪しい人、実は僕です、ってでも言うのか!?」
「うわあああっ!」
ライネルは仮面の内側で顔を覆い、うめくように叫んだ。
仮面も、マントも、何の意味もなかった。
一番危ないのは自分の口だったのだ。
そんなふうに、なし崩しのまま
ライネルとカミの最初の王都夜遊びは終わりを迎えた。




