革命の日
薄暗く飾り気のない部屋の中央に、皇帝が静かに立っていた。
彼は正面に並べられた百にも及ぶ数のロウソクの炎をただジッと眺めている。
誰も立ち入りを許されていないはずのこの場所へ突然現れた侵入者に対しても、皇帝は何ら反応を見せはしない。
ゼルナリオはそんな彼の傍らに移動して、小さく頭を下げ話しかけた。
「陛下。御前失礼いたします」
ちらりとだけ視線を落として彼の正体を確認すると、皇帝は何かを考えるように目を閉じた。
それから、フッと息を吐きだして呟くように言う。
「……ゼルナリオか。
悪いが…………今はまだその時期ではない」
皇帝はそれだけ告げると、ゆっくりと閉じていた目を開いて再び正面の炎を見つめた。
そんな皇帝の言葉に、彼は少しだけ驚いた様な表情を見せる。
ゼルナリオがリナ以外の前でまともな姿を晒したのはこれが初めてなのだ。
いつから演技に気がつかれていたのか、知っていたのならなぜ何も言わなかったのかと、彼はその事実が意味するところを理解するために思考を巡らせた。
ただ、それ以上に彼が驚いていたのは……。
「……僕の名前を、知っていたんですか」
広大な帝国の頂点に立つ人間が実験動物や奴隷にも等しい卑しい身分の男の、それもすでに失われた名をわざわざその記憶に留めているなど、誰が考えるだろう。
だが、皇帝は彼の問いに答えはしなかった。
ゼルナリオはそれを気にした様子も見せず、淡々とした口調で次のセリフを紡ぐ。
「陛下……僕は、貴方を殺しに来たのではありません。
確かに、今まで受けて来た扱いを思えば、正直恨みが無いわけではない。
けれど、陛下。僕は貴方の真の目的を知ってしまった……」
そこまで言って、彼は皇帝の眺める炎へと目を向け口を噤んだ。
狭く窓一つ無いこの部屋に灯る唯一の光源が、時折チリチリと音を鳴らしながら揺らめいている。
種族の違い、信仰神の違い、国の違い。富める者に対する嫉妬に、弱者への蹂躙。
人は皆、様々な理由で争いを繰り返してきた。
大陸全土での年間死者数は二千万を越え、しかし、反対に出生率は下がり続ける日々。
人類は緩やかな滅亡の危機に瀕していた。
それが大きな変化を見せたのは二十年前である。
今まで頑なに沈黙を守って来た巨大帝国が突如として大陸統一を目標に掲げた事により、小国同士の諍いは急速に沈静化した。
弱い者から確実に淘汰されて行く……。
もはや、愚かな小競り合いなどを続けている場合では無かった。
そして、現皇帝であるこの男が独裁者として君臨し何千何万という人間を日夜処刑台へと送り続け、いつしか死神皇帝と呼ばれる様になってから現在。
大陸の年間死者数は三百万にまで低下していた。
人々は共通の敵である帝国から平和を勝ち取るために憎しみ合う事を止め、国を、人種を、信仰を、様々なものを越えて手を取り合ったのだ。
帝国が仕掛ける戦争の数など、大陸全土で争いが続いていた日々を考えれば微々たるものに過ぎなかったのである。
「後の世の歴史学者は皮肉な事だと笑うでしょうね」
呟いた言葉に動揺も否定もせず沈黙しているところから、ゼルナリオはそれを肯定の意味で受け取った。
さらに、答えが返って来ない事を承知で問いかける。
「それは、贖罪の炎でしょうか」
しかし、彼の予想と裏腹に皇帝は不愉快そうに小さく眉を顰め口を開いた。
「贖罪などと……それでは、死者も浮かばれまい」
「陛下……」
ゼルナリオは返って来た答えに自らの推測が正しかった事を確信する。
だから、もう迷わなかった。
全ての運命が決定付けられたのは、おそらくこの時だったのだろうと、後の彼は密かに思う。
「……始めから死ぬつもりだったんですね、陛下。
人類救済という偉業を成しながら、その目的のために全ての罪を背負って」
皇帝は何も答えない。
ゼルナリオは、そんな皇帝の横で恭しく膝をつき頭を垂れた。
「皇帝陛下。稀代の悪と誹られし、けして報われぬ英雄……。
今しばらくは貴方の狗であり続けましょう」
自らの真の目的を胸の内に隠したまま、彼は独裁者へと忠誠を誓う。
全てが嘘では無く、また全てが真実では無い。
そんな心を見抜けぬほど愚鈍な皇帝ではなかったが、敢えて彼がそれを口に出す事は無かった。
~~~~~~~~~~
止めどなく流れる川のように、運命の日は否応なく訪れる。
反帝国組織はその長き活動の末、ついに皇帝を討つべく皇城へと足を踏み入れていた。
本来、帝国の最期の砦であるはずのそこは内部の反乱分子の多さも相まって、あまりにも容易く蹂躙されて行く。
どこか遠くから聞こえてくる破滅の音を耳に捉えながら、ゼルナリオは呟いた。
「リナは無事に反帝国組織に保護されただろうか……」
彼は今、皇帝の控える執務室に続く広間に一人佇んでいた。
言葉通り、すでにリナは彼の手によって一般的な町娘の姿で城から逃がされている。
物思いにふけっていると、ほどなくして廊下から大勢の足音が響いてきた。
扉の開く直前、ゼルナリオは瞳を閉じ大きく息を吸い込んだ。
勢い良く乗り込んで来た反帝国組織の面々。
そして、彼らの先頭には当然のごとく聖女がいた。
彼女は視線の先にゼルナリオを捉えると、その顔を歪めて殺気を漲らせる。
「っ狂戦士。
噂には聞いていたが……まさか、本当に生きていたとはな」
「きひひひひっ! あの程度でボクちんが死んじゃうとでも思ってたのぉー?
甘いなぁー、さすがはせーじょさまってねー! ひゃははは!」
「チッ。
コイツの相手は私がする! みんなは早く皇帝の元へ!」
仲間に指示を出すと同時に聖女はゼルナリオに向かい突進した。
他に目をやる隙を与えないように、彼女は絶え間なく攻撃を繰り出して行く。
全員が無事に広間を通り抜けたのを見届けると、聖女は彼から少し距離を取って皆が消えた扉を背にして構えた。
その時である。
突如、壁や地面が分厚い鋼鉄の板で幾重にも被われ、同時に天井から見覚えのある機械がせり出して来た。
それは、殺戮を目的として作られた彼ら負の遺産を後の世に残すまいとした皇帝の最期の罠。
狂戦士に対抗できるのは聖女のみ。それを逆手に取り、二人が衝突するであろうこの部屋に彼は件の対バイオコマンド用の最終兵器を設置していたのである。
しかも、そのサイズは反帝国組織が作り上げたソレよりも遥かに大きく、また自動照準発射機能が付随されていた。
「そんなっ! どうしてこの兵器が帝国に……っ!?」
目の前の男から意識を外し、驚きを隠せない様子で聖女は叫ぶ。
その答えは実にシンプルだった。
兵器の情報を組織へ流したのは帝国だったのだ。
そうであれば当然、開発元の帝国が彼ら以上の完成度を持った兵器を作れない訳も無い。
皇帝は自らのシナリオ通りに歴史を動かすため、裏から幾度となく反帝国組織を導いて来たのだった。
チキリと射出口が二人を捉えた瞬間、ゼルナリオは無意識に彼女の名を呼び地面を蹴った。
「ルゥナリア!」
~~~~~~~~~~
静寂を取り戻した広間に怒声が響く。
「なぜだ、狂戦士! どうして私を庇った! 答えろ!」
足元に転がった肩から上だけが残った状態のゼルナリオへ、聖女は必死に問いかける。
彼女の精神は、未だかつて無い程の混乱に見舞われていた。
と、その時。いつの間にか元の姿を取り戻していた部屋の扉から、侍女服の少女が飛び込む様に入って来た。
そして、真っ青な顔で聖女の脇を通り抜けて、小さくなってしまった彼の傍らに膝をつく。
「ゼルナリオ様ッ!!」
「……ゼ……ル……?」
リナが口にした名に、聖女は眉間に皺を寄せピタリと動きを止める。
己を呼ぶ存在を霞む視界に捕えたゼルナリオは、小さく目を見開いた。
「リ……ナ……?
どうして……君は城から出ていったはずじゃ……」
「嫌です! 死んでしまっては嫌です、ゼルナリオ様!
あなた無しに、リナはこれからどうやって生きて行けばいいのですか!
ゼルナリオ様! ゼルナリオ様ぁっ!」
彼の問いかけが聞こえていないのか、血の気の引いた顔をして懸命にゼルナリオを呼び続けるリナ。
その聞き覚えのありすぎる名に、聖女はガタガタと震えながら口を開く。
「……ゼル……ナリ……?
まさか……ゼル……お兄……ちゃん?
っうそ。だって、お兄ちゃんは……お兄、ちゃん……は……っ」
茫然と呟くその声が聞こえたのか、ゼルナリオはリナから視線を外して聖女を見上げた。
「僕もツメが甘い……な。最後の最後で……こんな……ヘマ……」
「……っ!」
フワリと困り気味に微笑んだ彼のソレは、彼女がずっと求めていた彼の人の笑顔そのもので……。
その衝撃は聖女から思考を奪い取るに充分だった。
もはや失われた視界。その先の愛しい妹の悲壮な表情に気付くことも無く、ゼルナリオはただ最期の言葉を紡ぐ。
「ルゥナ……ごめん……ね。約束……守れなく……て……。
僕が不甲斐ないせいで……結局、君に辛い選択をさせる羽目になってしまった……。
でも、ルゥナ。もう殺さなくていい……普通の女の子に戻っていいんだよ。
今日で全てが終わる。
だから、どうか……平和な世界で……幸せ……に……ルゥ……ナ……」
かつて彼らが兄妹だった頃のように優しく語りかけながら、ゼルナリオはゆっくりと瞳を閉じた。
目の前で起こっている事が受け止めきれないのか、聖女は石のように固まってしまっている。
リナは、咄嗟に彼のその小さな身体に縋りついてボロボロと涙を零した。
「いやっ! いかないで、ゼルナリオ様! 私を一人にしないで!
いやだっ、いやっ! いやぁっ、ゼルナリオ様っ!
ゼルナリオ様! ゼルナリオ様ぁぁぁあああああぁぁああ!!」
そんなリナの様子すら目に入らないまま聖女は愕然とした表情でストンと膝をつき、それから小さく首を横に振った。
「……ウソ。ウソだ。
だって、それじゃあ……私……一体何のためにここまで……」
まるで救いを求めるかのように空中に震える腕を伸ばして、しかし、すぐに掌を強く握り込みグシャリと顔を歪めて瞳を滲ませる。
彼の言葉によって、聖女はすでに捨て去ったはずのルゥナリアとしての自分が否応なく呼び起こされるのを感じていた。
閉じ込めていた感情が、兄に対する積もり積もった思慕の念が、彼女の中でついに爆発する。
「おに……い……ちゃん。ど……して……?
……お兄ちゃん。っお兄ちゃん! ゼルお兄ちゃん!
っゼル、お兄ちゃ……っぁ……ああぁ……ぁあっ……っうあああああぁあああああああ!!」
皇帝を討ち取ったぞ!
我々の勝利だ!
狼煙を上げろ! 早くみんなに知らせるんだ!
長く苦しい戦いの日々は終わった!
死に怯える事の無い、誰もが平等で平和な世界がやって来たんだ!
自らの生きる意味であった存在を永遠に失った女二人の慟哭は、無情にも周囲の歓声にかき消されていく。
いつの間にか地に転がり落ちていた首飾りが、激しく城内を行き交う人々の靴に蹴とばされ水路に流れた。
~~~~~~~~~~
喜びに沸く人々は広間の隅に座り込む彼女らを視界に入れることなく通り去った。
扉が閉まり、部屋に静寂が落ちる。
枯れぬ涙で顔をボロボロにしたルゥナリアは、悲しみの癒えぬままそっと兄へと手を伸ばした。
だが、その手は彼に触れる前にピシャリとはねられてしまう。
リナだった。
彼女もまた未だに涙で頬を濡らしながら、酷く憎しみのこもった瞳でルゥナリアを睨みつけていた。
目の前の少女になぜそんな風に見られなければならないのか、その意味が分からず彼女は困惑する。
そして、小さくボソリと呟かれたリナの一言にルゥナリアは己の耳を疑った。
「アンタのせいよ」
「えっ」
「アンタなんかがいたせいでっ、ゼルナリオ様は死んだんだ!」
「…………え?」
一瞬、言葉の意味がルゥナリアには理解出来なった。
いや、したくなかったというのが正しいのかもしれない。
思考回路が停止し呆然とするルゥナリアの様子などお構いなしに、リナはさらに辛らつに彼女を責め立てる。
「せっかく、記憶が戻ったのに! 逃げることだって出来たのに!
アンタが聖女なんて呼ばれて調子に乗ってるせいで……!
っ私にはゼルナリオ様だけだったのに! 他には何もいらなかったのに!」
「どういう事だ……私が聖女だったからとは、どういう事だ! 言え!」
ルゥナリアは無意識にリナの腕を掴み、険しい顔で説明を求めた。
リナはそれを汚らわしいとでも言いたげな表情で払いのけながらも、彼女の求める答えを口にする。
「彼は言っていたわ。
狂戦士がいなくなれば、聖女はその力を恐れる者の手によってきっと殺されてしまうだろうって。
人間は弱い生き物だから、自分たちの脅威となる可能性のある存在を許容できないのだって。
……それでも、戦争さえ終わってしまえば偶然を装って兵器を向ける事も出来なくなるし、それ以外でバイオコマンドを殺す手段は無いわ。
唯一あるとすれば、それはでっち上げでも何でも良いから適当に罪を被せ公に処刑する事。
だから、ゼルナリオ様は本当の意味でアンタを聖女にして、民衆を味方につけ簡単に手を出せない存在にしようと考えた。
全ての人間の脅威である狂戦士を聖女に討たせることで、その名を確かなものにしようとした。
そのために彼は城に残り、やりたくもない殺戮を繰り返し、狂戦士であり続けた。
聖女を……妹を殺させないために……何もかもから守るために……たったそれだけのためにっ」
ルゥナリアの心の中はもうグチャグチャだった。
痛めつけられた精神は肉体を蝕み、眩暈や吐き気、呼吸困難などの症状を引き起こす。
それを正気に戻したのは、憎々しげな声で放たれたリナの言葉だった。
「私にはゼルナリオ様だけだったのに、あの人にとって私はアンタの代わりでしかなかった。
たったその程度の、いてもいなくても良い存在だった……」
彼女の顔は怒っているようにも、憎んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。
それだけ告げるとリナはゼルナリオの死体をサッと抱き上げてルゥナリアから距離を取り、長いスカートの中からとある物を取り出した。
その物の正体を確認してリナの怖ろしい目的を察したルゥナリアは、一瞬後の未来を幻視し喉を引き攣らせ身を震わせる。
「待っ……!」
「アンタなんかにゼルナリオ様は渡さない! 彼は私のモノだ!」
制止も虚しく、彼女は叫びながら手の中の発火装置を最大威力で発動させた。
一瞬にして、腕の中のゼルナリオともどもリナの身は業火に包まれる。
「ははは、あはははははははははははは!」
燃え盛る火炎の中からリナの甲高い笑い声が響いてくる。
だがそれも長くは続かず、炎の中に揺らぐ彼女の影は見る間に小さくなっていった。
幼き日に一度。庇われて二度。そして、現在……。
三度兄を失ったルゥナリアは、ただ色の見えぬ虚無な瞳でそれを眺めていた。
かくして、圧政に苦しんだ人々はついに帝国の支配から解放されるに至った。
共に多くの壁を乗り越え苦境の道を歩んできた彼らは、互いに手に手を取って長き平和の日々を紡いで行く。
しかし、革命の一番の功労者である聖女マリアは、皇帝亡き後、忽然とどこかへ消え去ってしまったという。
多くの者の幸福の裏に、取るに足りぬ小さな悲劇が演じられていた事を知る者は、もう誰もいない。