涙の跡
「別に。タバコの煙が目に入っただけよ。」
独り言を呟く様に。
透けてしまいそうな、今にも壊れてしまいそうな白い肌。
その細く白い腕で、撫でるように彼女は拭った。
藍色に染まり切った雫を、誤魔化す様に。
「君はよく泣くから……。」
見つめる先には齢二十歳を過ぎた、いたいけな少女。
心配に、勢い任せに出た、心の声。
「澄香、僕は」
「あなたには関係ないの。」
彼女は言葉を遮る。
澄香と呼ばれたその人物は、
暗い夜風に浮かぶ雲を綺想させた。
澄んだ香り。両親から貰ったその名前には、
そぐわない、曇った表情をしているが。
しかし、彼は続ける。自分事だと言わんばかりに。
「心配なんだ。何処にも往かないでくれ。」
「君にまた何かあったら……。」
言葉を詰まらせながら、苦しそうな表情で涙を浮かべる。
懇願する彼を澄香は見下ろす。
「私のことを心配するくらいなら、あなたが私を捨てたら良いじゃない。」
「定めなの。また繰り返すなんて解りきってる。」
立て続けに言葉を並べる。
「……こんな姿になった自分なんて。」
「破壊するほど見たくないわ。」
「そこにある鏡をね。」
あまりの麗しさと、言葉と云う名の弓矢が放たれた事実に、彼は四肢が崩れ落ちそうになる。
「帰って頂戴。」
冷酷な、鋭い声でトドメを指す。
彼女の顔は、白銀の月明かりに照らされて輝いていた。
「嫌だと言ったら?」
「皆、そう言うのよ。」
「僕は違う。」
「証明できるのかしら?」
「出来るさ。僕は君のことを心から愛しているから。」
イタチごっこにしか成る成らない、子供の口論にしか聞こえない会話。
「この私を誰が責任を持ってくれるわけ?」
「あなたには出来ないわ。」
零時を周る頃だった。
彼女はそれだけ吐き捨てて、くるりと扉の方角へ向かった。
「双くん。」
「待って!!!」
二人きりの部屋に鳴り響いた声も、虚しく。
「またいつかの来世でね。」
可憐な声で囁き、足音ひとつ立てず、
哀しい笑顔ではにかんだ。
強い風が、銀色の髪を靡かせて。
そのまま消えてしまいそうで恐かった。
「澄香!!」
無意識に手を掴んだ。
「何。」
可憐とは遠い、悍ましい低い声で。
精一杯に振り絞った彼の想い。
「……なないで。」
「はぁ……?聞こえないわよ。」
たった一秒の沈黙が、この世で一番長く感じた。
「死なないでくれ!!!!」
一生懸命に、涙と汗が滴り落ちる。
「もう君が死ぬのは見たくない!!」
「側に……。せめて側に居させてくれ。」
「君が堕ちていくのを、あの時の僕は止められなかった。」
「言い訳だと思われても構わない。だから……。」
彼は、彼女に必死に縋る。
……いや、縋る他無かった。
「三途の川を渡らないでくれよ。いっそ、渡ったなら僕もついて行くから……。」
真っ赤に泣き腫らし、顔はもうぐしゃぐしゃで。
「こんなこと、やめにしよう……。失ったら、二度と君はあの世の人だ。」
息を切らし、ヒュー、ヒュー、と喉が鳴る。
人生の終りを悟った。彼自身の、彼女自身の。
「……わかったわ。」
嘘の様にすんなりと。
水面が凪いでいるかの如く、彼女はそう言った。
「タバコが切れたわ。」
「双くん、買ってきて。」
「あ……。うん。」
拍子抜けしてしまうのも無理もない。
誰が見たって、希死念慮の欠片が吸い寄せられる瞬間としか表現しようが無い。
午前一時が近い。コンビニへ向かう体力こそ有れど、摩耗した心は易々と戻らない。
「忘れてた。」
机に置かれた、数十粒の錠剤を慣れた手付きでゴクリと飲み干す。
「まだ行かないの?178番と、B-9番。覚えてるでしょう。」
ツカツカと急かす彼女の表情は、静けさに落ち着いていた。
「……寒い。」
彼の手足は凍える。
薄手のジャンパーを手に取って、残り僅かの財布を仕舞い、178番とB-9番の文字を頭に埋め込む。
「お願いね。あ、あと32番も一緒に。」
追加のお使いを頼み、そのまま澄香はキッチンへ向かった。




