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高級マンションのドアが派手な音をたてて開いた。
中からずんずん歩いてきた少女は、何があっても立ち止まるもんかという勢いだったが、いきなりくるりと部屋の中を振り返った。
きらきら光る大きな目を精一杯怒らせ、親指を垂直に立てて腕を突き出す。
「いーい、今度こそ、『おしまい』だからね。何があっても帰ってやらない。追っかけてきたら、これ、だぞ」
少女は腕を捻って、立てた指を下に降ろした。
「えー、だって、困るなあ。ぼく、食事、どうするの?」
部屋の中から頼りない声が聞こえた。
「鹿子が作った食事しか、食べられないのに……」
ぎらっと少女の目が火を噴いた。
「飢え死にしなさい!」
「えー……でもぉ…」
「それが嫌なら…」
少女は大きく息を吸い込み、ドアを叩きつけるように閉めながら叫んだ。
「ベッドの上の裸の女に頼みなさいよっ!」
秋谷鹿子は怒り狂いながら夜道を歩いていた。
付き合いだけなら十一年間。
十六年の人生の半分以上を一緒に暮らした恋人、楢すすむの悪い癖は、ひっきりなしの浮気だ。
それもたいした罪悪感なしに、ほいほい女を引っ掛けてくるのだから、性質が悪い。
すすむに言わせれば、立っているだけで女が寄って来るのだそうだ。自惚れだけでなく、本当に『そう』なのだから、二重に性質が悪い。
鹿子に飽きているのなら、さっさと別れてしまえばいいものを、なぜかすすむは鹿子の作る食事しか受け付けず、三日と離れた試しがない。頼ってこられて作ってしまう鹿子も鹿子だが、両親が多忙で、高級マンションに一人暮らしているすすむは、鹿子に浮気がばれて喧嘩になる度、飲まず食わずで部屋に閉じこもり、彼からのSOSの電話が入る頃には、病院行き一歩手前なんてこともざらだ。
「ったく……惚れてるなら、ふらふらすんな、ってのよ! 他の女は連れ込めて、どうして、あたしにキスの一つもできないんだ、っての」
ぶつぶつ言いながら角を曲がり、鹿子はふと立ち止まった。
視界の端を影が過ったような気がする。
勇気を出して振り返ったが、ぽつんぽつんと立つ街頭の光には、何も照らされていない。
「気のせい……じゃ……ないな……」
ゆっくりと歩き出しながら、鹿子は耳を澄ませた。
自分の足音に僅かにずれて、小さな足音が追って来る。
頭の中で駅への距離とすすむのマンションへの距離を考えたが、マンションにはあの女がいる。黒いレースの下着を思い出したとたん、鹿子は駅へと走り出していた。
慌てたように足音が速度を上げる。緊張と疾走で轟き始めた心臓に、鹿子は苛立たしく舌打ちをした。
(みんな、すすむが悪い! 死んだら化けてやる!)
鹿子が幽霊になっても、すすむは食事を作ってくれと言うんだろうか、と奇妙な空想が浮かぶのに、勢いよく首を振った。
(冗談じゃない、チカンか何か知らないけど、絶対最後まで抵抗してやる!)
遠くの方に、駅とそれにまとわりつくような商店街の明かりが見えた。が、そこへ辿り着くまでに切れた街灯が二つ、闇が道に溢れている。
鹿子がその暗闇を走り抜けようとした矢先、背後から近づいて来た足音がみるみる背後に追い迫った。
「きゃ…」
さっきの勇ましい決意もどこへやら、立ちすくんで体を固め、目一杯悲鳴を上げかけた、その時、
「動かないでねっ!」
きつい女の声が響いた。
驚きに目を見張った鹿子の周囲に、空気を裂く音が満ちて何かが光りながら流れた。光の先は地面へ、カッカッカッと硬い音をたてて、アスファルトに食い込んでいく。
ちょうど、体の回りをそれらに囲まれた形になった鹿子は、瞬きすることもできず、目を見開いたまま、光が飛んで来た源を振り返ろうとしたが。
「そのまま!」
再び鋭い女の声が命じて、すぐ側に突然人が飛び込んできた。
肩に触れるか触れない程度の短い髪、それを額でかきあげた下にあるのは、くっきりとした眉と黒い瞳、鼻筋が通って桜色の唇がふっくらと笑う。白いブラウス、黒いスラックス、足下は軽そうなスニーカー。
「ごめんね」
相手は鹿子を見つめてにっこり笑った。
まぎれも無く、女性の華やかな微笑、なのに、少年のような仕草で振り返り、厳しい声を出した。
「巻き込むつもりはなかったんだけど、『瞳』がこの辺りで消えたから」
「『瞳』?」
「そう、わたしの………主」
相手は甘やかに応じたが、すぐにシッと唇に指を当てて、鹿子を黙らせた。目線で注意を向けさせる。
恐る恐る回りを見た鹿子は、喉からくぐもった悲鳴を上げた。