第46話 りんごを食って倒れるだけの難しさ
お待たせして申し訳ありませんでした。
何とか1日前倒しできました。
「「おはよう」なのです」
翌朝、理香とキイナが酒挽の家へと立ち寄る。ここ最近、当たり前のように繰り広げられる登校シーンだ。
「……何だか、ずいぶん疲れているみたいだけど?」
憔悴した表情を浮かべているキイナに、酒挽が声をかける。
「理香の激しさに翻弄されっぱなしなのですよ……」
「一体何をした!?」
間髪いれずに酒挽の突っ込みが入る。
「世の理について説明しただけだが?」
理香は涼しい顔で答える。
「事実ではあるのですが、あまりの衝撃具合に、心の平穏が保てないのですよ」
キイナがそう零す理由は、櫛の一件だ。
第一審の裁判記録を確認したところ、理香の推察どおり、櫛は弁護側が証拠として採用するよう申請した結果、検察側が小人の家で押収したものだと判明した。
だが、裁判所に証拠として提出されているその櫛が偽物だ、と理香は言った。しかもそれを検察側が知っている可能性がある、とも。
昨晩そこまで言及しながら、今朝出会い頭に言い放たれたのが「証拠は何もないが」だった。
これでで心中穏やかで過ごせ、というのは、なかなかに酷というものである。
「さて、期せずして次の審理まで時間が空いた」
前回審理で、酒挽は3つの証拠を要求した。検察側はその収集のため時間を要するという。
「いつもテールさんに『まだですか?』と言われてたのを、言い返す素晴らしい機会を得たのです」
テールからは3日間の猶予を求められたらしい。キイナの見立てが2日だったので、少し長い。
「順番からすると、次は毒りんごの下りか」
酒挽は呟く。
白雪姫でも有名なシーンの一つ。ここから王子のキスへと話が続いていく。
「りんご食って倒れるだけのシーンだが?」
身も蓋もない論評を下す理香に、
「それが一番難しいんだよ」
と酒挽が言い返す。
確かにそのシーンだけを切り取れば、理香の言い分は幾分か正しいのだろう。
しかし、意外と馬鹿にならないものだ。
いかに美しく、奇麗に、儚げに倒れるか。
その一方で役者として怪我なく音なく自然に崩れ落ちなければならない。
手に持ったりんごにも注意を払う。
安易に落としてしまうと、舞台上から転がり落ちてしまう可能性もある。割れて舞台面が濡れたり、糖分でベダベタして、その後の演技に支障が出ることもあり得る。それ以外に、倒れた時に踏んだり、体の下敷きになったりして痛い思いをすることも。
本物のリンゴではなく、作りものだった場合は、齧った跡が客に見えないよう処理する必要があるし、持ったまま倒れてしまうと、次のシーンで小人に揺り起こされる時に、邪魔になる。
落としたときの重量感にも気を付けなければならない。パサリという音がしようものなら、空っぽな作りものだとバレてしまう。
一つの中で色々な処理を役者は求められるのだ。
「当利をもってそう言わしめるか。これは稽古のしがいがあるというものだ」
理香はどうやら放課後は、りんごのシーンをひたすらやるつもりらしい。
たかがリンゴを食べるだけ。
だが、役者として『毒りんごを食べさせられる』と知っていても、演じるのは『何の変哲もないりんごを躊躇なく食べる』役なのだ。食べたことで初めて毒を食べさせられたと知って、倒れ落ちる。
これで吐血して絶命、というのなら非常に分かりやすく苦悶を表現できるのだが、王子に見染められるためには、最終的に穏やかな眠るような表情を見せて倒れなければならない。
これだけ複雑な処理を役者に求めるというのに、書かれたト書はあっさりとしたものだ。
『姫は、眠るように倒れ落ちる』
表現者と言うのは、どこまでも言葉の行間と隙間を読み取り続けなければならない立場なのである。
「……なぜにトーリが姫の難しさを知っているのですか?」
首を傾げながら、キイナが尋ねてくる。
答えは簡単だった。中学の時、酒挽は白雪姫を演じたのだから。
当時、酒挽も理香も、他の追従許さない演技力を誇っていた。
だが、酒挽は理香より背が低かった。
見栄えを重視して、酒挽が白雪姫を、理香が王子を演じた。
そして、酒挽のファーストキスは奪われた。衆人監視の只中で。
その件については当人同士一応は解決済みだったのだが、白雪姫が童話裁判で極刑の判決を受けてしまった。
結果、理香はその思い出を、奪われた。
だから、酒挽は答えを一瞬躊躇した。
理香は答える。
「当利とボクは、かつて白雪姫を演じた。その時は、ボクが王子で当利が姫だった――だろう? 当利」
少し悪戯っ子のような笑みを顔に貼り付け、いつものように、酒挽をからかう口調のままで。
「そうだな」
だから酒挽も、さらりと応じた。
理香の心情がわからない以上、彼女に合わせるのが最善だと信じて。
「あ……わ、あわ……」
一番狼狽えているのはキイナだった。
自分が地雷を踏み抜いたと、二人の会話を聞いて思い至ったのが、丸わかりだった。
「ごモガッ」
キイナの口を理香が手で塞いでいた。腕を首に回し、彼女の体ごと自分の方へ引き寄せ、耳元で囁く。
「せっかく当利と久方ぶりにいい雰囲気を作り出したのだ。無粋な発言をするつもりなら、この往来のど真ん中でその唇、塞ぐぞ?」
キイナは物凄い小刻みに頭を上下に動かす。
その顔が真っ赤だったのは、呼吸が苦しかったからなのか、理香の言葉でそのシーンを想像したからなのか。言葉をきちんと聞き取れなかった酒挽に、判断のしようがなかった。




