143 幼女、救出する
穂乃香は急にスローになった世界に戸惑いながらも、茉莉の中から黒い靄が勢いよく飛び出し、自分へと殺到してくるのを見た。
ゆっくりと倒れだした茉莉を支えるように、そして手にしたカッターナイフを弾くように、穂乃香はステッキを振って魔法を放つ。
世界の動きが遅くなっているせいで、魔法の発動までが長く、穂乃香をやきもきとさせる嫌な時間が続いた。
体感にしてかなりの時間が経過したところで、穂乃香の放った魔法は効果を発揮し、茉莉の体を浴室の床へと軟着陸させ、カッターナイフをタプタプと満ち満ちた浴槽の中に落とす。
その結果を見た穂乃香の心が安堵した直後、その視界は黒一色に塗りつぶされた。
『主殿……主殿!』
徐々に大きくなるユラの呼びかけに、穂乃香は意識を取り戻す。
そこでようやく、自分が気を失っていたのだと気付いた穂乃香は、ゆっくりと目を開けた。
煌々と輝く白い電球に照らし出された見覚えのない天井に、自分の状況をうまく思い出せない穂乃香は頭を振りながら上半身を起こす。
最初に目に飛び込んできたのは、心配そうな視線を向けてくるユラと、いつの間にか幼女の姿になっていた青葉、蜜黄、黒華だった。
次いで、シャワーの音が耳に飛び込んできて、穂乃香は自然と音のする方に視線を向ければ、そこにはシャワーに打たれたまま、浴室の床に転がる茉莉の姿がある。
「あっ!」
そこでようやく自分の状況を鮮明に思い出した穂乃香は、反動をつけて素早く飛び起きると、浴室に駆け込んだ。
「茉莉お姉ちゃん!」
声をかけて茉莉の体を揺すりながら、穂乃香は自らが濡れるのを気にも留めずに、蛇口をひねってシャワーを止める。
シャワーを長時間浴びていたせいで、茉莉の体は冷え切っていて、唇が青くなってしまっていた。
穂乃香は自分が濡れるのを厭わず、自らの熱で温める様に抱き付きながら茉莉の体を支えて、浴室の壁に寄りかからせる。
「もう少し、我慢して」
反応がないどころか、体の反射まで鈍い茉莉の様子に、表情を曇らせながら、穂乃香は手にした魔法のステッキを振るった。
直後、穂乃香の意図した通りに、濡れた二人の体を暖かい空気が包み込み、徐々に湿気が飛んでいく。
それに合わせて、穂乃香は茉莉を抱きしめる力を強めると、触れたところから徐々に冷え切った茉莉の体に熱が移って染み込んでいった。
穂乃香はそんな茉莉の様子に気を配りながら、服が乾いたのを確かめると、今度は暖かい空気を周囲に充満させ始める。
すると、熱を取り戻した茉莉が「ん……」と声を漏らしてゆっくりと目を開けはじめた。
「……サイ、ネリア?」
覚醒しきっていない頭で、茉莉は目にした穂乃香の姿にそう声を漏らす。
穂乃香は耳にした茉莉の声に、安堵の表情を浮かべながら話しかけた。
「茉莉お姉ちゃん、大丈夫、どこか痛いところはない?」
「え……おねえ……あれ、穂乃香ちゃん?」
徐々に覚醒していく頭で、茉莉は自分を強く抱きしめてくれている幼女に驚きの顔を見せる。
「あ、あれ、ここ、私の家、あれ、うわ、冷たっ!」
驚きのあまりプチパニックを起こした茉莉は、穂乃香から離れて立ち上がろうと浴槽の縁に手をついて、際まで満たされた水に触れ、小さく悲鳴を上げた。
「え、えーと、茉莉お姉ちゃん、落ち着いて」
顔を引きつらせつつ、パニック状態の茉莉に穂乃香は懸命に声を掛ける。
だが、茉莉の慌てようは収まる気配を見せなかった。
「え、だって、私の家で、何でお風呂!? 穂乃香ちゃんはサイネリアで、何でうちにいるの!?」
動揺のあまりしゃべるスピードは速まり、ボリュームも上がり始めた茉莉に、穂乃香は小さく覚悟を決めて抱き付く。
「ふぇっ!?」
急に抱き付かれたことで、茉莉はぴたりと動きを止めた。
次いで、体に触れる穂乃香の温もりに、ほぼ反射的にその小さな体を抱きしめ返す。
「大丈夫、茉莉お姉ちゃん?」
心配そうに自分を見上げながら尋ねてくる穂乃香に、茉莉はようやく落ち着きを取り戻し始めた。
「え、えーと……大丈夫……かも?」
疑問符をつけて答えを返しながらも、茉莉はなぜか気持ちが晴れやかなことに気が付く。
「いや……うんうん、すごく、気持ちが穏やか……かな」
柔らかく微笑む茉莉に、穂乃香は体を離しながら、満面の笑顔で頷いた。
「よかった。茉莉お姉ちゃんが無事で」
穂乃香の笑みに、茉莉はわずかに頬を染めながら深く息を吐く。
「これかぁ……千穂が言うのも少しわかるかも」
茉莉はそう言いながら、浴室から洗面所に移動した。
「あの、茉莉、お姉ちゃん?」
「それで、穂乃香ちゃんは、どんな魔法を使って、ここに来たの?」
「え、な、え、え~~~」
ずばりと聞かれて完全に動揺してしまった穂乃香に、茉莉は吹き出す。
「だって、穂乃香ちゃんは、魔女さんなんでしょ?」
コテンと小首を傾げた茉莉は、穂乃香の実家ならマンションの管理に係わっていて部屋の鍵を開けられるかもしれないと思いつつ、身に纏う衣装を揶揄してそう言ったのだが、まさか返ってくる言葉が、そんな想像の遥か上から落ちてくるとは、この時は想像だにしていなかった。




