プロローグ 始まりの日
弟の見慣れた部屋に充満するのは、肉が焦げたような匂いだ。視界の隅には、見慣れない男が立っている。
男を気にする余裕もなく、私が手を伸ばし掴んだ黒い手の形をしたものは、まるで麩菓子を握り潰したような感触で、乾いた音を立てて崩れた。
私の手の中に残ったのは、大切な弟だった筈の炭。
「ぅ…あ…」
言葉を発した筈が、嗚咽に変わってしまっていることすら自覚できないまま、私はそれを握り締め胸に抱くしかできない。
生きたまま弟を焼いた男の手が私の銀の髪を鷲掴みにし、痛みと共に私の顔が無理やり正面を向かされ、男の瞳が私の蒼い瞳を映し出す。
髪を掴まれたまま無理矢理に立たされ、爪先が地面から離れるかと思ったとき、鋭い冷たさが腹部を貫いた。理解するより先に、口の中に血の味が込み上げる。同時に腹部の感覚が熱さと痛みに変わる。
男は私を床に放り出し、部屋を出ようと背を向けた。視線を腹部に向けると、私を貫いた剣が墓標のように見える。
剣を眺めていると、何かが風を切る音が部屋に響き、直後、重い塊が床に落ちる。それと同時に、巨躯が倒れ伏す音が重なった。
どうにか視線を向ければ、同じ高さで男と目が合った。
だが、私の視線を奪ったのは、その先にいる見慣れた人だ。
その人は、私の大好きな優しい声で、けれど震えながら私の名を呼んだ。
「ソフィア…」
その声に、私は酷く胸が苦しくなった。それを分かっているかのように、その人は優しく笑みを返してくれる。
私の手が空を掻くと、受け止めるように包み込む大きな手。
「貴方を…一人にしないって…約束した、のに」
私がその人にした、一方的な約束だ。その言葉を聞いて、私の手を包む手に力が入ると暖かな淡い光が私を包む。
本来なら、傷を癒すその光も、今は仄かに暖かいだけの光に成り果てている。
その人は、優しい笑みを崩さずに私を見つめて、新たな約束を口にした。
「ソフィアが約束を守れるように、俺からも約束をしよう…たとえ数百、数千の歳月が過ぎようとも必ず…見つける。そうしたら、一人ではない」
それは、私のための嘘なのだろう。
「私も、貴方も…本当…嘘つき、なんですから」
私は知っている。この人がどうしようもない程の嘘つきで、嘘ですら嘘にしてしまう人なのだと。
だからきっと、この約束も、私が貴方に返した言葉も、貴方を呪いのように縛る鎖になるのだろう。
別れよりも、それが恐ろしくて涙が溢れる。
私が最後に見た貴方の黒い瞳。
その優しい瞳には、微かに金の光が差し込んでいる。
涙が一滴、目尻から垂れた感覚を最後に、私の意識は彼方へと消えていく。
巡る事があるならば、果てしない夢の先を見られるように願う。
でも、解けていく。
私とは違う誰かが、私の果てしない夢の先を歩いてくれるだろうか。
それなら、きっと大丈夫だと思える。
だから――
『さようなら。私が愛した、世界一誠実なうそつきさん』




