第4話 塩と鉄と古い鍬
第1部:辺境領と教会編
第1章:森番の娘と居候
バルドの手に刺さった棘は、思ったより浅かった。
エル婆に見せるほどではない、とバルドは言い張ったが、ミナは聞かなかった。畑の端で水袋の水を少しだけ使い、薄い布で汚れを拭く。小刀の背で棘をそっと浮かせると、黒い土の粒が一緒に出てきた。
「動かないで」
「動いとらん」
「眉間が動いてる」
「眉間は手ではない」
「手も動いてる」
トマが横で笑いをこらえていた。
「村長、もう諦めた方がいいぞ。ミナ、棘にはうるさいから」
「棘にうるさいんじゃないよ。後で腫れるのが面倒なの」
小さな棘を抜き、布で押さえる。血は少しにじんだだけだった。
「大丈夫。深くない」
「だから言ったろう」
「でも、土が入ってた」
「……たいしたことではない」
「エル婆には伝えておくからね」
バルドは渋い顔をした。
その足元には、割れた鍬が転がっている。柄は斜めに裂け、刃の付け根はぐらついていた。鉄の刃は土を噛むところが薄く、端が少し歪んでいる。ずっと直しながら使ってきたものだと、見ただけで分かった。
ミナは鍬を拾い上げた。
「これ、道具置き場に持っていくね」
「捨てるんじゃないぞ」
「捨てないよ。柄だけでも使えるところがあるかもしれないし」
「刃はどうじゃ?」
「見てみないと」
「もう無理じゃないか?」
トマが鍬の刃を覗き込む。ミナは答えず、刃の付け根を指で押した。
ぎし、と鈍い音がした。
「……無理に近い」
「それ、ほぼ無理って言ってるだろ」
「ほぼ」
「ほぼは無理だろ」
「でも、無理って言ったら本当に無理になる」
トマは少しだけ黙り、それから肩をすくめた。
「そういうところ、森番っぽいよな」
「鍬だよ」
「鍬にも森番っぽさ出るのか」
「森番も畑を見ないといけないから」
バルドはふんと鼻を鳴らした。
「森番も村長も、結局は壊れたものを見る仕事じゃ」
「村長は、手も見せて」
「もう見せた」
「あとでまた見る」
「年寄り扱いするな」
「けが人扱いしてるの」
バルドは言い返せず、杖代わりにしていた古い棒をついた。
*
道具置き場は、畑から少し戻ったところにある。屋根の低い小屋で、壁は板を継ぎ足し、隙間には藁と土が詰めてあった。扉は閉まるが、閉まるたびに少し斜めになる。戸口の脇には、泥を落とすための平たい石が置かれている。
ミナはそこで一度足を止め、鍬についた土を石の角で落とした。
「中に泥を入れると、あとでエル婆に怒られる」
「エル婆は道具置き場でまで怒るのか」
「怒るよ。『土は畑に置いときな』って」
「言いそう」
バルドが重い扉を開ける。
古い鉄と乾いた木の匂いがした。
中は薄暗い。壁には鎌が三本。柄の緩い斧が一本。先の丸くなった鋤。錆びた罠の金具。縄で吊るした小さな袋。棚には、曲がった釘や折れた釘を入れた壺が並んでいる。
床には、底の薄くなった鍋が裏返しに置かれていた。
鍋なのに、道具置き場にある。鍋としてはもう頼りないが、何かを受ける皿には使えるからだ。
「……増えてる」
ミナがつぶやくと、バルドが顔をしかめた。
「壊れ物か」
「壊れかけ」
「同じじゃろう」
「同じじゃない」
割れた鍬を壁際に置き、ほかの鍬と並べる。並べると、よく分かる。
まともな鍬が少ない。
柄が割れているもの。刃が薄いもの。刃の付け根を針金で巻いてあるもの。柄だけ新しく、刃だけ古いもの。逆に、刃はましなのに柄が虫に食われているもの。
どれも、まだ働かされている顔をしていた。
トマが一本を持ち上げる。
「これ、もう買った方が早いんじゃないか」
バルドが短く笑った。
「買えるならな」
その一言で、小屋の中が少し静かになる。
トマは鍬を戻した。
「……そうだよな」
「鍬だけではない」
バルドは棚の壺をひとつ持ち上げる。中で、釘がかすかに鳴った。
「屋根には釘がいる。柵にもいる。水路の板を留めるにもいる。罠の金具は替えがない。鎌は刃こぼれが増えた。斧は柄が緩い。包丁も、エル婆が薄い薄いとぼやいておった」
「鍋も」
ミナは床の古鍋を見る。
「鍋もだ」
バルドは認めたくなさそうに言った。
ルシェラが、いつの間にか戸口に立っていた。両手は空いている。少なくとも今は、椀を持っていない。
「壊れぬものを作ればよいのではないか」
トマが振り返る。
「簡単に言うなあ」
「簡単な話だ。壊れるから困る。ならば壊れぬように作る」
「鉄がいるの」
ミナは釘の壺を棚から降ろしながら言った。
「それも、いい鉄。うちにあるのは、曲がった釘と折れた釘と、薄くなった刃ばかり」
「鉄など、山を割れば出るであろう」
「山は割らない」
「なぜだ」
「山を割ったら、畑も道も村長の眉間も割れる」
「わしの眉間はすでに割れておるわ」
「割れてないよ。深いだけ」
「なお悪いわ」
ルシェラは壺の中を覗き込み、ふむ、と言った。
「小娘、塩と鉄を見て、村の行く末を測るか。やはり――」
「測ってない。足りないから困ってるの」
ミナは壺をトマの前へ置いた。
「曲がった釘、長いのと短いのに分けて。折れたのは、先が残ってるなら別にして」
「はいはい」
「ルシェラは、そこの鍬の柄を外せるか見て。折らないで」
「わたしは折らぬ」
「昨日、薪束の縄を引きちぎった」
「あれは縄が弱かった」
「だから、折らないで」
「……むう」
ルシェラは鍬の柄を両手で持った。力を入れかけて、ミナの視線に気づき、少しだけ手をゆるめる。
ぎし、と音がして、柄の裂けたところが開いた。
「そこで止めて」
「まだ外れておらぬ」
「止めて。そこからは小刀で見る」
「面倒だな」
「割れたらもっと面倒」
ルシェラは渋々、鍬を台の上に置いた。
トマは壺から釘を出し、小さな板の上に並べ始める。
「長いの、短いの、折れたけど先があるの、ただの鉄くず……でいいか?」
「ただの鉄くずは言い方が悪いよ」
「じゃあ、何て言うんだよ」
「まだ何かに使えるかもしれないやつ」
「長い」
「うるさい」
「名前じゃないじゃん」
ミナは笑わずに、底の薄い鍋を指した。
「それに入れて」
「鍋が皿になった」
「穴が空くまでは皿」
「穴が空いたら?」
「水を通す何か」
トマは釘を持ったまま、少し遠い目をした。
「この村、物の終わりがなかなか来ないな」
「来たら困るからね」
バルドはそのやり取りを聞きながら、壁の鎌を一本外した。刃に小さな欠けがある。
「これは、エル婆の薬草畑用に回す。麦にはもう使えん」
「薬草の茎なら切れる?」
「切れる。少し引っかかるがな」
「じゃあ、柄の緩い斧は?」
トマが聞く。
「北の薪割りには使わせん。刃が飛べば怪我人が出る」
「じゃあ、直す?」
バルドは答えなかった。答えないまま、斧の柄を握り直す。
沈黙が落ちた。
判断できない沈黙ではない。どちらを選んでも、どこかが困る沈黙だった。
ミナは曲がった釘を一本取り、指でまっすぐにできるか試した。
動かない。
「屋根と水路なら、どっちが先なんだ?」
「雨が降るなら屋根。でも、水路が詰まったら畑」
「罠は?」
「南の柵に角兎が戻るなら、罠も見たい」
「全部じゃないか」
「全部だよ」
バルドが重く息を吐く。
「だから困っとる」
小屋の外から、子どもの声がした。誰かが薪を落としたらしい。乾いた枝の音に、短い笑い声が混じる。
こんな話をしていても、外では冬支度が続いている。道具が足りなくても、手は止められない。
ミナは台の上の壊れた鍬を見た。
「この鍬は、柄を外して、刃はバルドさんが見て。薄いところが割れるなら畑には使わない」
「水路の泥をかくには?」
「刃が抜けたら水の中で探すことになる」
「やめだな」
トマが遠くを見るような目で見ている。
「水路さらい用の鋤は?」
バルドは小屋の奥を見る。
そこに、細長い鋤が立てかけてある。泥をかくためのものだ。刃は細く、柄は長い。水路の底へ入れるにはちょうどいい。
ちょうどいいはずだった。
ミナが持ち上げると、柄の真ん中に細い割れ目があった。
「……これも?」
「春にはまだ使えた」
バルドが苦い顔をする。
「春から今までに水路を何回さらった?」
トマが数えかけて、やめる。
「数えると嫌になるやつだ」
「うん」
ミナは鋤を壁に戻した。
「泥を運ぶ桶は?」
トマが桶を探す。
小屋の隅に二つあった。ひとつは底の板が浮いている。もうひとつは、取っ手の縄が擦り切れかけている。
「水路さらうにも道具がいるのか」
「いるよ」
ミナは桶の底を押した。ぎゅ、と水を吸った木が鳴る。
「泥は重い。桶が割れたら、運ぶ前に戻る」
「戻るって、泥が?」
「泥が」
「最悪だな」
「最悪ではないけど、すごく嫌」
ルシェラがつまらなそうに道具を眺めて、こちらを見る。
「ならば、わたしが泥ごと水路を掬い上げればよい」
「水路を壊さないで」
「壊さぬ」
「前に小屋の前の土、足跡だけで沈んだ」
「あれは土が弱かった」
「泥はもっと弱い」
ルシェラは少し考えた。
「……それはそうだな」
「納得した」
トマが感心した声を出す。
「そこは納得するんだ」
「泥は弱い」
「急に素直」
バルドは釘の壺をもうひとつ棚から降ろした。
「水路の板を留める釘は、長いものが要る」
ミナはトマの並べた釘を見る。長いものは少ない。曲がっているものを叩けば使えるかもしれない。けれど、叩くにも鉄床がいる。鍛冶屋は村にはいない。まともに直すなら、トレオの鍛冶屋か、商人を待つしかない。
「長いの、三本」
トマが言った。
「曲がってるけど、何とかなるかもしれないのが二本」
「足りないね」
「足りないな」
バルドはしばらく釘を見ていた。
「屋根にも三本は欲しい」
「水路にも?」
「少なくとも四本」
「ないね」
「ない」
誰も笑わなかった。
ルシェラだけが、釘を不思議そうに見ている。
「小さな鉄片に、ずいぶん支配されているのだな」
「支配じゃないよ」
ミナは釘を一本拾った。先が少し潰れている。
「これがないと、板が留まらない。板が留まらないと、水が漏れる。水が漏れると、畑が乾く」
「それくらい、手で押さえておけばよい」
「誰が?」
「……人間が」
「冬まで?」
ルシェラは黙った。
トマが小さく笑う。
「さすがに無理だな」
「だから釘がいるの」
ミナは短い釘を別の皿に分けた。
「短いのは、屋根の薄い板。長いのは水路。折れた先は、罠の小さい金具に使えるかバルドさんに見てもらう。鉄くずは、まとめておく」
「鉄くずって言った」
トマがすかさず言った。
「今のは鉄くず」
「さっきと言ってることが違う」
「使い道を考えた後なら、鉄くずって言っていい」
「細かいな」
「細かくしないと足りなくなる」
バルドは、少しだけ口元をゆるめた。
「お前の父親も、釘を分ける時だけは妙に細かかった」
「普段は?」
「普段も細かかった」
「じゃあ、だけじゃない」
「そうじゃな」
バルドは壁にかかった古い斧を戻す。
「森番は、細かくなければ続かん」
ミナは返事をしなかった。そのかわり、釘をもう一本、短い方に分けた。
道具置き場を出た頃には、日が少し傾き始めていた。
ミナは割れた鍬の刃を布で包み、柄を縄でまとめた。直せるかどうかは分からない。けれど、土の上に置きっぱなしにするよりはましだ。
「次は塩か」
トマが背伸びしながらミナを見る。
「うん。保存食置き場を見たい」
「鉄の後に塩か。口が渋くなってきた」
「塩なのに?」
「うまいこと言ったつもり?」
「思ってない」
バルドは杖をつき、広場の奥へ向かった。
*
保存食置き場は、共同倉庫の隣にある小さな部屋だった。倉庫ほど大きくない。湿気を嫌うもの、虫を避けたいもの、少しでも長く保たせたいものを入れてある。
扉を開けると、酸っぱい漬物の匂いと、干しきのこの匂いが混じって出てきた。
ミナは中へ入る前に、足元の泥を落とした。
棚には、小さな塩袋が二つ。壺がひとつ。漬物樽が二つ。片方は半分ほど。もう片方は底に少し。干し肉は少ない。吊るされたものは、細く、短い。
魚の燻製は、数えるほどしかなかった。
ミナは塩袋を持ち上げた。
軽い。
今朝、自分の小屋で持った塩壺も軽かった。でも、これはそれより少し嫌な軽さだった。
ミナの家だけではない。
村の塩だ。
バルドが棚の前で腕を組む。
「各家の分を合わせれば、まったくないわけではない」
「でも、保存に回す分が少ない」
「そうじゃ」
トマが干し肉を見上げた。
「塩って、そんなに何にでもいるのか」
「肉にも魚にも、漬物にもいる。汗をかく人にも、少しはいる」
ミナは塩袋を棚に戻す。
「何より、冬まで残したいものにいる」
「干しきのこは?」
「塩はいらない。でも、それだけで冬は越せないでしょ」
「まあな」
その時、入口の方からエル婆の声がした。
「塩は薬じゃないが、ないと弱る者は増えるよ」
ミナが振り返ると、エル婆が小さな布袋を手に立っていた。
「エル婆」
「薬草を取りに来たついでだよ。ついでに塩の顔も見に来た」
「塩に顔があるのか?」
トマが言うと、エル婆は布袋を軽く振った。
「あるよ。余裕のある塩と、ない塩じゃ、顔つきが違う」
「今のは?」
「頬がこけてる」
バルドが目を閉じた。
「笑えん冗談じゃ」
「笑わせる気はないね」
エル婆は壺の蓋を少しだけ開け、中を見た。底に白い粒が薄く残っている。
「病人用には、少し残しておきな。熱が出た子に薄い粥ばかり飲ませても、力が戻らん時がある」
「保存食と病人用、どっちに回す?」
トマは聞いてから、すぐ口をつぐんだ。答えにくいと、自分で気づいたのだ。
バルドはしばらく黙った。その沈黙は、道具置き場で斧を見た時と同じだった。
どちらも要る。
だから困る。
「病人用は削れん」
「保存食は?」
「干しきのこを増やす。根菜は土に埋める。肉は……狩れた分をすぐ食う日が増える」
ルシェラがぱっと顔を上げた。
「狩ればよいのだ。肉ならわたしが獲ってくる」
「獲ってくれるのは助かるけど、塩がないと長く残せない。全部をすぐ食べると、後で困る」
「後でまた狩ればよい」
「吹雪の日は寝るんでしょ」
ルシェラは口を閉じた。
トマが思わず笑う。
「しまったって顔だぞ」
「黙れ、若造」
エル婆がくくっと笑った。
「よく食べる居候も、塩には勝てんか」
「塩ごときに勝ち負けはない」
「じゃあ負けたね」
ルシェラは不満そうに鼻を鳴らした。
ミナは漬物樽の蓋を開ける。中には、薄く塩をした根菜が沈んでいる。香りは悪くない。ただ、量が少ない。
「これ、もう少し増やしたいけど」
「塩を薄くすると傷みやすい」
エル婆が横からのぞき込む。
「分かってる」
「分かってても、やりたくなる時がある」
「うん」
「だから、やる前に見に来たんだろ」
ミナは少しだけ笑った。
「うん」
エル婆は布袋を棚の端に置いた。
「薬草の乾きが悪い分は、こっちに回す。塩は使わない。苦いが、冬に湯へ入れれば飲める」
「ありがとう」
「礼は冬を越してからでいい」
「先が長い」
「長い方がいいんだよ」
*
保存食置き場を出ると、バルドは広場の端に立ち、しばらく村を見た。
屋根を直す者。薪を運ぶ者。布を干す者。水桶を持って洗い場へ向かう者。
どこにも、余った手はない。
けれど、やるべき仕事は山ほどある。
「商人は、いつ来る」
バルドがつぶやいた。誰に聞いたのでもない。
トマが横に追いつく。
「来るなら、今月の終わりじゃないか。橋が悪くなければ……」
「そうじゃな、橋が悪いと来たくとも来れん」
「うん」
「来ても、塩と鉄をどちらも十分には買えん」
バルドの声は低かった。
「金も、出すものも足りん」
ミナは何も言わなかった。言えなかった。
森には薪も木材もある。薬草も、きのこも、獣もいる。でも、塩は森から取れない。鉄も、鍬の刃になる形では生えてこない。
「毛皮は出せるのか?」
「少しなら」
ミナは考える。
「でも、全部出したら冬の敷物が減る」
「干しきのこは?」
「売れるほどない」
「薬草は?」
「エル婆が怒る」
「怒るな」
「怒るよ」
バルドが短く息を吐いた。
「塩は買う。鉄も買う。だが、どちらも十分には買えん」
「じゃあ、少しずつ?」
「だが、もうじき冬が来る」
「冬は待ってくれないからね」
バルドはミナを見る。
「だから、順番じゃ」
「うん」
「まず、病人用の塩は残す。保存は、傷みやすいものから。鉄は、水路と屋根を先に見る。鍬は……使えるものを回す」
「割れた鍬は?」
「刃を外して見る。直せなければ、薄いところを削って、小さい道具に回せるかもしれん」
「小さい道具?」
「根を切る刃とか、罠の押さえとか。使えるなら使う」
「じゃあ、完全には捨てない」
「捨てるものなど、そうそうない」
バルドはそう言って、少しだけ遠くを見た。
「捨てられるほど、持っておらん」
広場の向こうから、走ってくる足音がした。
リオだった。
息を切らし、片手を振っている。
「ミナ姉!」
「走らないって言ったでしょ」
「走ってない!」
「走ってる」
「南の畑、水、弱いって!」
ミナの顔から、少し笑いが消えた。
トマも振り返る。バルドが杖を握り直した。
「誰から聞いた」
「ナナのお母さん。桶で水入れようとしたら、ちょろちょろだって。朝より弱いって」
「止まってる?」
リオは首を振った。
「止まってはない。でも、畑の端まで行かないって」
止まってはいない。
けれど、弱っている。
ここ数日、ミナの頭の端に残っていたものが、また少し重くなる。道具置き場の水路鋤。割れかけた桶。長い釘の不足。草と泥。畑の方へ流れる水の重さ。
全部が、ひとつの場所へ集まっていく気がした。
ルシェラが森の方ではなく、畑の方を見る。
「水が鈍いな」
「分かる?」
「分かる。だが、まだ死んではおらぬ」
「水は死なないよ」
「人間はすぐそう言う」
いつもの言い方だった。けれど、ミナは笑えなかった。
バルドがしわを深くしながら杖をつく。
「今から行くか」
ミナは南の畑の方角を見た。
空は少し暗くなり始めている。今から水路をさらうには、道具も時間も足りない。無理にやれば、途中で暗くなる。割れかけた桶を壊して、鋤の柄まで割るかもしれない。
それでも、見ないわけにはいかない。
「今日は、見るだけ。水がどこまで来てるか確かめる。さらうのは明日の朝」
「さらわないのか?」
「暗くなる前に、全部は無理。道具も足りない」
「じゃあ」
「明日の朝、まず水路」
ミナはトマにそう言って、手に持っていた割れた鍬の柄を見下ろした。
塩も足りない。鉄も足りない。道具も足りない。その上、水まで弱い。
でも、順番を間違えたら、もっと困る。
「バルドさん、長い釘は使わないで残しておいて。水路を見るまで」
「屋根は?」
「今日は縄で仮止め。雨が強くなる前に、もう一度見る」
「トマ」
バルドが言う前に、トマはうなずいた。
「南の畑、俺も行く。リオ、お前は戻って、子どもだけで水路に近づくなって言ってこい」
「俺も行ける」
「行けるのと、落ちないのは別だ」
リオは不満そうにしたが、ミナを見ると、口を閉じた。
「……分かった」
「ありがとう。走らないでね」
リオは一瞬だけ歩き出し、すぐ早足になった。
トマがため息をつく。
「走ってるな」
「早足だよ。たぶん」
「甘い」
ミナは道具置き場へ戻り、古い木札を一枚取った。水路用の目印だ。それから、割れた鍬を壁に立てかける。
今は鍬より水路。
でも、鍬も忘れない。塩袋の軽さも、釘の少なさも、壊れかけた桶も、全部そこにある。
全部は持てない。
だから、順番にする。
「行こう」
ミナが言うと、トマが縄を肩にかけ、バルドが杖をつき、ルシェラが当然のようについてきた。
「ルシェラ」
「なんだ」
「水路、踏まないでね」
「踏まぬ」
「前に水桶を一滴も揺らさず運べたでしょ。あの感じで」
「水桶と水路を同じにするな」
「どっちも水」
「雑だな」
「今は雑でもいいから、踏まないで」
ルシェラは少しだけ口元を上げた。
「よかろう。水には触れぬ」
「触ってもいいけど、壊さないで」
「注文が多い」
「大事だから」
村の広場を抜ける前に、ミナは一度だけ南の畑の方を見た。夕方の風が、干し場の縄を揺らしている。
遠くで、誰かが薪を割る音がした。
かん、と乾いた音。
その音の間に、細い水の音が混じっている気がした。弱く、頼りなく、まだ止まってはいない音だった。
ミナは木札を握り直す。
明日の朝、まず水路。




