第9話 断罪、あるいは公開告白
「嫌! 離して! 私は悪くないわ!」
「往生際が悪いぞ、ミア嬢!」
王宮の回廊に、甲高い悲鳴が木霊した。
騎士たちに両脇を抱えられ、引きずられていくミア。
彼女は最後まで「食材を捨てたのは妖精の仕業ですわ!」などと喚いていたが、数人のメイドたちの証言と、ポケットから出てきた「エリスへの嫌がらせ計画メモ」が決定的証拠となり、地下牢への収監が決まったのだ。
その様子を、ギルバート王太子は呆然と見送っていた。
「……馬鹿な女だ」
彼は呟いた。
怒りはあった。だが、それ以上に彼を支配していたのは、どうしようもない「空腹」と「焦燥」だった。
ミアがいなくなった。これで横領は止まるだろう。
だが、失われた料理の質はすぐには戻らない。
今夜の夕食も、明日も、明後日も、あの味気ないスープと硬いパンを食べなければならないのか?
「嫌だ……」
ギルバートは頭を振った。
一度思い出してしまった「本物の味」への渇望が、彼を突き動かす。
エリスだ。エリスさえ戻ってくれば、全て解決する。
そうだ、俺は王太子だ。命令すれば、あいつは断れないはずだ。
「迎えに行ってやる。感謝しろよ、エリス」
彼の瞳には、現実を直視できない狂気じみた光が宿っていた。
彼は近衛兵を連れることも忘れ、単身、においの元――厨房へと足を踏み出した。
◇
一方、厨房。
そこは嵐の前の静けさ……ではなく、トマトの甘酸っぱい香りに包まれていた。
「いい? トマトソースは煮詰めすぎないことがポイントよ」
私は鍋をかき混ぜながら、若手料理人たちに指導していた。
今日作っているのは、レオンハルト様がポケットマネーで差し入れてくれた『サンライズ・トマト』と『コカトリス』の卵を使った料理だ。
真っ赤に熟れたサンライズ・トマトを湯剥きし、ザク切りにして鍋へ。
そこに炒めたタマネギと、少量の砂糖、酢、そして数種類のスパイスを加えて煮込む。
自家製ケチャップの完成だ。
次に、コカトリスの鶏肉を一口大に切り、バターで炒める。
そこにパールライス(白米)を投入し、先ほどのケチャップをたっぷりと絡める。
赤く染まった『チキンライス』。これだけでも十分に美味しいが、今日は主役が待っている。
「卵、割ります!」
ボウルにコカトリスの卵を三個。
牛乳と塩を少々加え、よく溶きほぐす。
熱したフライパンにバターを溶かし、卵液を一気に流し込む。
ジュワァアア……ッ!
菜箸で手早くかき混ぜる。
火が通るか通らないかのギリギリを見極め、フライパンの縁を使ってトントンと形を整える。
ラグビーボールのような形をした、表面ツヤツヤのオムレツ。
これを、皿に盛ったチキンライスの上に、そっと乗せる。
「さあ、ここからがショータイムよ」
私がナイフを手に取った、その時だった。
バンッ!!!
厨房の扉が、蝶番が壊れそうな勢いで蹴り開けられた。
「見つけたぞ、エリス!」
入ってきたのは、髪を振り乱し、目の下に濃い隈を作ったギルバート王太子だった。
彼の目は血走り、私をロックオンしている。
「で、殿下!?」
「ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ!」
ヴォルグ料理長が前に出ようとするが、ギルバートはそれを手で制し、ツカツカと私の方へ歩み寄ってきた。
「エリス。迎えに来てやったぞ」
彼は荒い息を吐きながら言った。
「ミアは廃嫡が決まった。あんな愚かな女だとは思わなかったよ。……やはり、俺の隣にふさわしいのはお前だったんだ」
厨房の空気が凍りつく。
誰もが「何を今さら」という顔をしているが、本人は気づいていない。
「許してやろう、エリス。俺に黙って料理をしていたことも、昨晩の無礼な態度も、すべて水に流してやる」
彼はニタリと笑い、手を差し出した。
「さあ、この手を取れ。婚約破棄は撤回してやる。ただし、正妃はまだ早いから、まずは側室からだ。毎日俺のために料理を作れば、いずれ正妃に戻してやってもいいぞ」
私は持っていたナイフを置き、ため息をついた。
眼鏡を外し、エプロンで拭く。
「……お断りします」
「な、なに?」
「聞こえませんでしたか? お断りします、と言ったのです」
私は冷ややかな視線で彼を見据えた。
「殿下。貴方は何も分かっていませんね。私は『料理を作らされていた』のではありません。『料理が好きだから』作っていたのです。そして、それを食べてくれる人の笑顔が好きだから、心を込めていたのです」
「だから、俺が食べてやると言っているだろう!」
「貴方は笑わないではありませんか」
私の言葉に、ギルバートが言葉を詰まらせた。
「貴方は料理の味など見ていませんでした。見ていたのは『公爵令嬢としてのブランド』と『自分の体調』だけ。私がどんな思いで食材を選び、調理していたか……一度でも想像したことがありましたか?」
「そ、それは……」
「ここにある、チキンライス一粒にも、農家の方の苦労と、料理人たちの手間が詰まっています。今の貴方には、それを味わう資格はありません」
私の拒絶は、彼のプライドを完全に粉砕したようだった。
顔が赤から青へ、そしてドス黒い色へと変わっていく。
「……下働き風情が、つけあがるなよ」
ギルバートが低く唸った。
「俺は王太子だ! 国の未来そのものだ! その俺が命令しているんだぞ! 貴様の意思など関係ない、首に縄をつけてでも連れ戻す!」
彼は理性を失い、私に向かって手を伸ばしてきた。
その指が私の腕を掴もうとした、その瞬間。
ガンッ!!
金属音が響き、ギルバートの手が弾かれた。
「……痛っ!?」
彼の手を叩いたのは、巨大なお玉だった。
そのお玉を握っていたのは、ヴォルグ料理長だ。
彼は鬼のような形相で、私の前に立ちはだかっていた。
「ヴォ、ヴォルグ!? 貴様、王太子に何をする!」
「俺たちの師匠に、気安く触るんじゃねぇ」
ヴォルグの声は低く、凄味があった。
それを合図に、厨房のあちこちから怒号が上がった。
「エリス姉さんを守れ!」
「これ以上、俺たちの料理を馬鹿にするな!」
フライパンを構えた副料理長。
麺棒を握りしめたパティシエ。
包丁(はさすがに危ないので峰の方を向けて)を持った下っ端たち。
数十人の料理人が一斉に動き、ギルバートを取り囲んだのだ。
「な、なんだお前たちは!? 反逆する気か!?」
「反逆? いいえ、これは『衛生管理』です」
ヴォルグがニヤリと笑った。
「不潔な害獣が厨房に入り込んだら、駆除するのが料理人の務めですからな」
「き、貴様ら……全員、処刑してやる! 近衛兵! 近衛兵はいないか!?」
ギルバートが叫ぶ。
その声に応えるように、入り口から重い足音が響いた。
「呼びましたか、殿下」
現れたのは、黒い鎧を纏った一団。
近衛騎士団だ。
ギルバートの顔がパッと明るくなった。
「おお、来たか! レオンハルト! こいつらだ! この無礼な料理人どもを捕らえろ! そしてエリスを俺の部屋へ引きずっていけ!」
ギルバートは勝ち誇ったように叫んだ。
だが。
レオンハルト団長は、ゆっくりと首を横に振った。
「……お断りします」
「は?」
「我々近衛騎士団の任務は、王族を守ること。しかし、それは『暴走した王族の私利私欲』に加担することではありません」
レオンハルトは、料理人たちの包囲網を静かに割り、私の隣に立った。
そして、私を背に隠すようにして、王太子と対峙した。
「それに、エリス嬢を連れていくなど、言語道断」
「な、なぜだ! あいつは俺の元婚約者だぞ!」
「『元』でしょう。現在は他人だ」
レオンハルトは鋭い金色の瞳を細め、広間に響き渡る声で宣言した。
「彼女は、私の婚約者になる予定の女性だ。指一本触れさせるわけにはいかない」
「――は?」
時が止まった。
ギルバートも、ヴォルグたちも、そして背後にいた私自身も、口をポカンと開けて固まった。
「こ、婚約者だと……?」
「ああ。私が彼女に惚れている。胃袋だけでなく、その心ごとな」
レオンハルト様は、一切の迷いなく言い切った。
耳は真っ赤だったけれど、その背中は今まで見たどの騎士よりも頼もしく、大きかった。
「な、ふざけるな! 俺のものだぞ!」
「見苦しいですよ、殿下。貴方は彼女を捨てた。そして彼女の価値に気づかず、踏みにじった。……宝石を石ころ扱いして捨てた者が、今さら所有権を主張するなど、笑止千万だ」
レオンハルトの一喝。
それは正論すぎて、ぐうの音も出ないほど鋭利な刃となってギルバートを貫いた。
「く、うう……」
ギルバートは膝から崩れ落ちた。
権力も、愛も、食も。
全てを失ったことを、ようやく悟ったのだ。
「連れて行け」
レオンハルトが短く命じると、部下の騎士たちがギルバートを(優しく、かつ強制的に)抱え上げた。
彼は抵抗する気力もなく、魂が抜けたように運ばれていった。
◇
厨房に、再び静寂が戻った。
「……やっちまったな」
ヴォルグが頭をかきながら呟いたが、その顔は晴れやかだった。
料理人たちが「やったー!」「ざまぁみろ!」と歓声を上げ始める。
そんな中、レオンハルト様が恐る恐る私の方を振り返った。
「……すまない、エリス。その、勢いで……勝手なことを言った」
彼は顔を真っ赤にして、視線を泳がせていた。
「迷惑だっただろうか? 『婚約者』などと……」
「……」
私は彼を見上げた。
心臓がうるさいくらいに鳴っている。
迷惑なわけがない。あんな風に守られて、あんな風に言われて、嬉しくないわけがない。
私は調理台の上の皿を手に取った。
作りかけだった、あの料理だ。
「レオンハルト様」
「はい」
「仕上げ、見ていてください」
私はナイフを入れた。
チキンライスの上に乗った、ぷるぷるのオムレツ。
その中央に、スッと切れ目を入れる。
パカン。
トロォォォ……。
半熟の卵が左右に広がり、赤いライスを黄金色のドレスのように覆い尽くした。
湯気と共に立ち上る、バターと卵の甘い香り。
『タンポポ・オムライス』の完成だ。
「……すごい」
「これ、貴方のために作っていたんです」
私は仕上げに、ケチャップでオムライスの上にハートマーク……は恥ずかしいので、小さなスマイルマークを描いた。
「召し上がっていただけますか? ……私の、『未来の旦那様』として」
私の言葉に、レオンハルト様は目を見開き、そして破顔した。
それは、どんな戦勝報告を聞いた時よりも幸せそうな、最高の笑顔だった。
「ああ……。一生、食べさせてほしい」
厨房の仲間たちが、ヒューヒューと冷やかす。
私たちは照れ笑いを浮かべながら、二人で一つのスプーンを手に取った。
口の中に広がる、卵の優しさと、ケチャップライスの甘酸っぱさ。
それは、苦い婚約破棄から始まった私の物語が、最高に甘いハッピーエンドへと変わった瞬間だった。
(さあ、あとはエピローグね)
王太子とミアの没落。
そして、私とレオンハルト様、そして愉快な厨房の仲間たちの新しい生活。
美味しい匂いは、まだまだ続きそうだ。




