第8話 嫌がらせとカレーライス
「……ない。ないぞ! どこにもない!」
早朝の厨房に、ヴォルグ料理長の悲鳴が響き渡った。
いつものように下準備を始めようとした私たちは、異様な光景に言葉を失っていた。
食材庫が、もぬけの殻なのだ。
昨日届いたはずの新鮮な野菜も、今日使う予定だった『ギガント・ポーク』のブロック肉も、卵も、牛乳も。
棚という棚が、不自然なほど綺麗に空っぽになっていた。
「どうなってんだ! 鍵は掛かってたはずだぞ!」
「料理長、裏口の鍵が壊されています……!」
見習いの少年が青ざめた顔で報告してくる。
泥棒? いや、それにしては手際が良すぎるし、金目の銀食器などは手付かずだ。
狙われたのは「食材」だけ。
「……やりやがったな」
ヴォルグがギリと奥歯を噛み締めた。
犯人の目星など、考えるまでもない。
昨日、私が王太子の誘いを断り、恥をかかせたことへの報復。
十中八九、ミアの差し金だろう。
「くそっ、今日の昼は騎士団の連中だけじゃなく、他部署の文官たちも楽しみに待ってるんだぞ。今から発注しても間に合わねぇ!」
「あるのは、使い古しのスパイスと……地下倉庫に残っていた、芽が出かけた芋とタマネギくらいか」
料理人たちが絶望的な顔で床に座り込む。
メインディッシュになる肉がない。彩りとなる緑黄色野菜もない。
あるのは、茶色い根菜と、古びた香辛料の瓶だけ。
これでは、まともな宮廷料理など作れるはずがない――誰もがそう思った。
けれど。
「……ふふ」
静まり返った厨房で、私だけが笑みをこぼした。
「エ、エリス?」
「皆さん、諦めるのはまだ早いですよ。むしろ、好都合かもしれません」
私は棚の奥から、埃を被っていたスパイスの瓶を次々と取り出した。
黄色い粉末の『ターメリック・ルート』。
爽やかな香りの『コリアンダー・シード』。
そして、強烈な辛味を持つ赤い実『マグマ・ペッパー』。
「古くなった野菜と、たくさんのスパイス。……これだけあれば、あの『魔法の料理』が作れます」
私は眼鏡を指先で押し上げ、ニヤリと笑った。
「暑い夏にぴったりの、食欲増進・疲労回復の特効薬。……『特製スパイスカレー』を作りましょう!」
◇
「カレー? なんだそれは」
ヴォルグたちが首をかしげる中、私は調理を開始した。
まずは、大量のタマネギだ。
地下倉庫に眠っていた『古のタマネギ』は、水分が抜けている分、旨味が凝縮されている。
これを薄切りにし、大鍋にたっぷりの油を入れて炒める。
「ここで、魔法を使います!」
通常なら飴色になるまで一時間はかかる工程だが、生活魔法『脱水』と『加熱』を併用し、一気に水分を飛ばす。
十分もしないうちに、タマネギは濃厚な褐色ペーストに変わった。
これこそが、カレーのコクの正体だ。
次に、すりおろしたニンニクとショウガを投入。
香りが立ったところで、いよいよ主役の登場だ。
ザラララ……ッ!
私が調合した十種類以上のスパイスを、油の中に投入する。
ジュワァアアアッ……!!
その瞬間。
厨房の中に、爆発的な香りの竜巻が巻き起こった。
「うおっ!? なんだこの匂いは!」
「鼻がムズムズするけど……すげぇいい匂いだ!」
クミンに似た野性味あふれる香り。カルダモンの清涼感。そして唐辛子の刺激。
油と熱によって目覚めたスパイスたちが、強烈な自己主張を始める。
「ここに、乱切りにしたジャガイモとニンジンを入れます!」
肉がない? 問題ない。
私は冷蔵庫の隅に残っていた『牛脂』と、スープ用の出汁に使った後の『肉の端切れ』を細かく刻んで放り込んだ。
肉そのものがなくても、脂とエキスがあれば、カレーは十分に肉の味を纏う。
水を注ぎ、グツグツと煮込むこと三十分。
仕上げに、隠し味の『すりおろしリンゴ』と、ほんの少しの『黒しずく(醤油)』、そして『ビター・チョコ』を一片。
鍋の中は、黄金色から深い褐色へと変化し、とろりとした艶を帯びていた。
「完成です。名付けて『王宮の危機を救う、根菜とスパイスの爆弾カレー』!」
その匂いは、もはや「暴力」だった。
換気扇を通り抜け、窓の隙間から溢れ出し、風に乗って城中へと拡散されていく。
それは、誰も嗅いだことのない、しかし本能が「食べろ」と命じる、魔性の香りだった。
◇
「……くさっ! 何ですの、この刺激臭は!」
王宮の廊下で、ミアがハンカチで鼻を押さえて叫んだ。
彼女は勝ち誇った気分で、昼食の時間に向かっていたところだった。
今頃、厨房はパニックになり、泥だらけの芋を茹でて出しているはずだ。そう思っていたのに。
「くんくん……いや、ミア様。これは……」
後ろを歩いていた護衛の兵士が、うっとりとした顔で鼻をひくつかせている。
「ものすごく、腹が減る匂いです」
「はあ? 何言ってますの? ただの薬草の臭いじゃ……」
グゥゥゥゥゥ~~~~ッ。
ミア自身の腹の虫が、盛大に鳴いた。
彼女は顔を真っ赤にして腹を押さえた。
口の中に、じわりと唾液が溢れてくる。
辛そう。でも、美味しそう。脳が混乱し、胃袋が暴れ出す。
「な、なんなんですのよーっ!!」
◇
一方、厨房裏の「エリス食堂」。
そこは、阿鼻叫喚と歓喜の渦に包まれていた。
「あつつっ! からっ! うめぇえええ!!」
「水! いや、次の一口だ! スプーンが止まらねぇ!」
騎士たちが、汗だくになりながらカレーを掻き込んでいた。
彼らの目の前にあるのは、深皿に盛られた白米『パールライス』と、その半分を覆い尽くす褐色の海。
一口食べれば、マグマ・ペッパーの辛味が舌を刺す。
だが、その直後にタマネギの甘みと牛脂のコクが押し寄せ、辛さを旨味へと昇華させる。
ゴロゴロと入ったジャガイモはホクホクで、スパイシーなルーの中で優しいオアシスとなっている。
「なんだこの料理は……! 体が内側から燃えるようだ!」
「昨日の訓練の疲れが、汗と一緒に吹き飛んでいくぞ!」
全身から汗が噴き出す。
だが、それが快感だ。
暑い夏にこそ、熱くて辛いものを食べる。
この世界の人間が知らなかった「スパイス・ハイ」の状態に、彼らは完全に陶酔していた。
「エリス、水!」
「はい、どうぞ。お水ではなく『ラッシー』です」
私が差し出したのは、ムームー牛のミルクを発酵させたヨーグルトに、ハチミツとレモン汁を混ぜた特製ドリンクだ。
ゴクゴクゴク……プハァッ!
「生き返る……! 口の中の火事が一瞬で消火された!」
「そしてまたカレーが食いたくなる! 無限だ! これは罠だ!」
そんな汗臭い男たちの中心で、レオンハルト団長もまた、無言でスプーンを動かしていた。
彼は辛いものが得意ではないはずだが、額に玉のような汗を浮かべながらも、食べる手が止まらない様子だ。
「……エリス」
「はい」
「これは、危険だ」
彼は真剣な眼差しで、空になった皿を見つめた。
「毒が入っているわけでもないのに、中毒性がある。これを戦場で出されたら、敵兵も武器を捨てて並び出すだろう」
「ふふ、最高の褒め言葉ですね」
私はタオルを差し出した。
彼はそれを受け取り、乱暴に汗を拭うと、低い声で言った。
「しかし、食材が消えたというのは本当か?」
「ええ。おかげでこのカレーが生まれたのですが……明日の朝食の分もありません」
私の言葉に、レオンハルトの目が鋭く細められた。
食事中の緩んだ空気は消え、冷徹な「黒狼」の顔に戻る。
「……分かった。後のことは私に任せろ」
「レオンハルト様?」
「私の楽しみ……いや、王宮の食の安全を脅かした罪は重い。犯人が誰であろうと、必ず償わせる」
彼が立ち上がると、食事を終えた騎士たちが一斉に起立した。
その目には、カレーによって満たされた活力と、自分たちの「聖域(エリス食堂)」を荒らされた怒りが宿っていた。
「近衛騎士団、出動だ。食材泥棒のネズミ狩りを行う!」
「「「ハッ!!」」」
◇
数時間後。
王宮の裏庭にある廃棄物置き場にて。
「ひぃっ、お、お許しください!」
「まさかこんな事になるなんて……」
数名のメイドたちが、騎士たちに包囲され、ガタガタと震えていた。
彼女たちの足元には、土にまみれた高級食材――ギガント・ポークの肉や、新鮮な野菜が無惨に捨てられていた。
「もったいない……」
駆けつけた私は、泥だらけになった食材を見て胸を痛めた。
食べ物は命だ。それを、ただの嫌がらせのために捨てるなんて。
料理人として、一番許せない行為だ。
「誰の指示だ」
レオンハルトが、氷のような声で問い詰める。
メイドの一人が、泣きながら白状した。
「ミ、ミア様です……! 『エリスを困らせるために食材を隠せ』と……『どうせ下働きの料理なんて誰も食べてないからバレない』と……!」
その言葉を聞いた騎士たちが、殺気立った。
「誰も食べてない」だと?
俺たちの楽しみを、俺たちの活力を、愚弄したのか。
「証拠は固まったな」
レオンハルトは私の方を向き、少しだけ表情を緩めた。
「エリス。この食材はもう使えないが……代わりの品は、私がポケットマネーで手配させた。今夜には届くはずだ」
「えっ、そんな、悪いです!」
「気にするな。その代わり……」
彼は少し視線を逸らし、咳払いをした。
「今日の夜、その……例のカレーを、もう一杯食べさせてくれないか? 持ち帰り用もだ」
「……ふふ、喜んで」
◇
その日の夕刻。
王宮のダイニングルームでは、またしても修羅場が繰り広げられていた。
「なぜだ! なぜカレーが出ない!」
ギルバート王太子がテーブルを叩いていた。
城中に充満するスパイシーな香りに胃袋を刺激され、期待して席についた彼に出されたのは、ただの「ふかした芋」と「塩スープ」だったからだ。
「申し訳ございません殿下……。食材がなく、カレーを作るためのスパイスも、昼に全て使い切ってしまい……」
給仕が震えながら答える。
食材がない理由は、他でもない、隣に座っているミアのせいなのだが。
「くそっ、またエリスか! あいつ、俺には食わせないつもりか!」
ギルバートは勘違いして激怒していた。
違う。貴方が守るべき婚約者が、貴方の食事を台無しにしたのだ。
「ギル様ぁ、あんな臭い料理、食べなくて正解ですわよ。それより、このお芋、ダイエットにいいかも……」
「黙れ!!」
ギルバートの怒号が響く。
ミアがビクリと肩をすくめた。
「お前のドレスのせいで予算がない上に、飯まで不味い! いい加減にしろ!」
亀裂は、決定的なものになりつつあった。
そして、その亀裂にトドメを刺すように、扉が乱暴に開かれた。
「ギルバート殿下。および、ミア嬢。少々お話をよろしいか」
入ってきたのは、数名の騎士を引き連れたレオンハルト団長。
その手には、泥にまみれた食材のリストと、メイドたちの供述書が握られていた。
「……なんだ、騒々しい」
「王宮内における、横領および器物損壊の犯人が見つかりましたので。……連行してもよろしいですね?」
レオンハルトの冷徹な視線が、ミアを射抜く。
ミアの顔から、サーッと血の気が引いていった。
「え、あ、ち、違いますの! 私はただ……!」
スパイスの香りが残る城内で、断罪の時は刻一刻と迫っていた。
美味しいカレーを食べ損ねた王太子の怒りと、カレーを愛する騎士団の正義。
その両方が、愚かな令嬢へと向けられようとしていた。




