第7話 王子の後悔、そして再会
晩餐会の会場は、かつてない熱気に包まれていた。
「素晴らしい! これこそが真の美食だ!」
ガレリア帝国の鉄血宰相、ベルンハルト卿は、私の手をとって感極まったように言った。
その様子を見て、周りの貴族たちも、そして国王陛下さえもが、私に対して敬意のこもった眼差しを向けている。
ほんの数時間前まで「下働き」として見下されていた私が、今や国の危機を救った英雄扱いだ。
「エリス嬢、と言ったか。君の料理には魔法がかかっているようだ。技術だけではない、食べる者への深い愛情を感じる」
「勿体ないお言葉です、閣下。私はただ、素材の声を聞き、彼らが一番輝く手伝いをしたに過ぎません」
私が謙虚に答えると、宰相は満足げに頷いた。
「素材の声、か……。我が国の宮廷料理人たちにも聞かせてやりたい言葉だ。どうだね、我が帝国に来る気はないか? 君なら料理長として迎えよう」
その言葉に、会場がざわめいた。
引き抜きだ。しかも、大陸最強の帝国からの。
「お、お待ちください閣下!」
慌てて声を上げたのは、国王陛下だった。
彼は脂汗を拭いながら、媚びるような笑みを私に向けた。
「エリスは我が国の大事な……そう、元公爵令嬢だ。此度の働きに免じて、すぐに身分を戻し、王宮料理長としての地位を与えようと思う!」
調子のいい話だ。
婚約破棄を承認し、私を厨房へ追いやったのは陛下ご自身だというのに。
私は静かに首を横に振った。
「ありがたいお申し出ですが、お断りいたします」
「な、なに? 不満か?」
「いいえ。私は今の『下働き』の立場が気に入っておりますので」
私は真っ直ぐに国王を見つめた。
「厨房で鍋を磨き、仲間たちと野菜を刻み、美味しいまかないを作って笑い合う。……今の私にとって、それ以上に幸せな時間はございません。堅苦しい役職や、身分など不要です」
会場が静まり返る。
名誉欲のない私の態度に、皆が呆気にとられていた。
その沈黙を破ったのは、私の隣に控えていたレオンハルト様だった。
「陛下。彼女の意思を尊重していただきたい。彼女は、厨房という現場でこそ輝く花なのです」
彼は私の肩を抱くようにして、一歩前に出た。
その頼もしい横顔を見上げて、私は胸が温かくなるのを感じた。
ああ、この人は分かってくれている。
そんな私たちを、真っ赤な顔で睨みつけている男が一人。
ギルバート王太子だった。
◇
晩餐会がお開きになった後。
私は厨房へ戻るため、夜の回廊を歩いていた。
レオンハルト様は国王に呼ばれて残っているため、今は一人だ。
「おい、待て! エリス!」
背後から、荒い足音が近づいてきた。
振り返るまでもない。元婚約者のギルバート殿下だ。
「……何か御用でしょうか、殿下。私はまだ後片付けが残っているのですが」
「下働きごときが、王太子に向かってその態度はなんだ!」
ギルバートは私の前に回り込み、行く手を阻んだ。
その顔は怒りに歪んでいるが、目はどこか焦っているように見えた。
「今の料理……あれは本当に貴様が作ったのか?」
「ええ、そうですけれど」
「信じられん。貴様は昔から、刺繍も楽器もできず、ただ書類仕事ばかりしている地味な女だったはずだ。いつの間にあんな……」
「いつの間に、ではありません」
私は彼の言葉を遮った。
「殿下はご存じなかったのですか? 貴方が夜遅くまで執務をしている時、差し入れていたサンドイッチやスープ。あれは全て、私が厨房で作っていたものです」
「な……?」
「貴方が風邪を引いた時に作った『滋養粥』も、二日酔いの朝に出した『果実水』も。料理長にお願いして、私が直接作っていたのですよ」
ギルバートは口を半開きにして固まった。
「そ、そんな馬鹿な。あれは料理人が……」
「料理長は『殿下が食べたがらないだろうから』と気を使って名前を伏せてくれていたのです。……もっとも、貴方は『味が薄い』だの『肉が足りない』だのと文句ばかりで、一度も美味しいと言ってくれませんでしたが」
私は淡々と事実を告げた。
当時の私は、それでも彼に健康でいてほしくて、必死に栄養バランスを計算し、食べやすい味付けを研究していた。
それが、まさかこんな形で否定されていたとは。
「……嘘だ」
ギルバートがよろめくように後ずさった。
「あ、あの味が……お前だったのか? 俺の胃袋を支えていたのは……」
彼の脳裏に、記憶が走馬灯のように駆け巡っているようだった。
深夜の執務室で食べた、温かいポタージュ。
疲れた体に染み渡った、優しい味。
あれがなくなってからだ。彼の体調が優れず、常にイライラし始めたのは。
「エリス」
ギルバートが顔を上げた。
その表情は、先ほどの怒りから一転、ねっとりとした甘いものに変わっていた。
「分かった。許してやろう」
「……はい?」
「俺に黙って料理をしていたことは水に流してやる。それに、今日の料理は見事だった。あれだけの腕があれば、王太子の婚約者として恥ずかしくない」
彼は一歩近づき、私の手を取ろうとした。
「戻ってこい、エリス。下働きなどというふざけた真似はやめて、俺の側で毎日あの料理を作れ。ミアには側室として我慢してもらうから――」
パシッ。
私は彼の手を払い除けた。
「……は?」
「お断りします」
私は冷ややかな声で告げた。
怒りすら湧いてこない。ただ、呆れるばかりだ。
「殿下、勘違いなさらないでください。私はもう、貴方の婚約者ではありません。ただの料理人です」
「なっ、身分を戻してやると言っているんだぞ!?」
「身分など要りません。それに……」
私は眼鏡の位置を直し、はっきりと言い放った。
「私の料理を食べて『美味しい』と笑ってくれる人は、他にいますから」
その瞬間、ギルバートの顔色が土気色に変わった。
「他にいる」という言葉が、彼のプライドを粉々に砕いたのだ。
「誰だ……? まさか、レオンハルトか?」
「さあ、ご想像にお任せします。それでは失礼いたします」
私は優雅にカーテシーをし、踵を返した。
背後で「待て! 俺は王太子だぞ!」という叫び声が聞こえたが、私は一度も振り返らなかった。
◇
翌朝。
王宮の空気は一変していた。
昨夜の晩餐会の噂は瞬く間に広まり、私の働く厨房には、朝から多くの視線が集まっていた。
「おはよう、エリス! 昨日はすごかったらしいな!」
「エリスお姉ちゃん、今日の朝ごはんは何!?」
厨房に入ると、ヴォルグ料理長をはじめとする仲間たちが、キラキラした目で私を迎えてくれた。
彼らはもう、私を「公爵令嬢」としてではなく、「凄腕の料理仲間」として見てくれている。それが何より嬉しかった。
「おはようございます。今日は祝勝会も兼ねて、少し特別な朝食にしましょうか」
私が取り出したのは、昨日準備しておいた『三日月パン(クロワッサン)』の生地だ。
たっぷりのバターを折り込み、何層にも重ねた生地。
これをかまどに入れる。
しばらくすると、厨房中にバターの芳醇な香りが充満した。
「焼けたわよ!」
取り出したパンは、サクサクの層が美しい黄金色に輝いている。
それを半分に切り、中には朝採れの『サン・レタス』と、カリカリに焼いた『スモーク・ベーコン』、そしてとろけるチーズを挟む。
合わせるのは、黄色い宝石のような『太陽のトウモロコシ(サン・コーン)』をすり潰して作った、濃厚なコーンポタージュだ。
牛乳と生クリームをたっぷり使い、砂糖など入れなくてもトウモロコシ自身の甘さだけで驚くほど甘い。
「『サクサク・クロワッサンサンド』と『朝の光のポタージュ』、完成!」
「「「うおおおおおっ!!」」」
厨房の裏口には、いつものように近衛騎士団の面々が並んでいた。
その先頭には、もちろんレオンハルト様の姿がある。
「エリス……この香りだけで、昨日の疲れが吹き飛ぶようだ」
「レオンハルト様、お疲れ様です。さあ、熱いうちにどうぞ」
私が手渡したサンドイッチを、彼は大きな口で頬張った。
サクッ、パリッ。
軽快な音が響く。
バターの香りとベーコンの塩気、そして野菜のみずみずしさが口の中で踊る。
続いて、ポタージュを一口。
優しい甘さが、寝起きの体にじんわりと染み渡っていく。
「……美味い。幸せだ」
レオンハルト様が、とろけるような笑顔を見せた。
その笑顔を見るだけで、私も幸せな気持ちになる。
「団長、ズルいです! 俺らにも!」
「並べ! 順番だ!」
賑やかで、温かい朝の食卓。
ここには、身分の壁も、政治的な駆け引きもない。
ただ「美味しい」という純粋な喜びだけがある。
◇
一方、その頃。
王宮のダイニングルーム。
ギルバート王太子は、目の前に置かれた皿を呆然と見つめていた。
今日のメニューは、『オートミールのような何か』と、具のない薄いスープ。
ミアが「ドレスにお金がかかってしまって……今月は節約月間ですの!」と宣言した結果の朝食だった。
「……」
ギルバートはスプーンを動かす気力もなかった。
窓の外からは、風に乗って、焦がしバターの香りと、甘いトウモロコシの匂いが流れてくる。
そして、遠くから聞こえる楽しげな笑い声。
そこには、かつて自分が捨てた女がいる。
地味でつまらないと思っていた女が、今は国中の誰よりも輝き、多くの人々に囲まれている。
そして、自分の隣には。
「ギル様、これ味がしませんわ。お砂糖とお菓子を持ってきてくださらない?」
文句ばかり言い、何も生み出さない可愛らしいだけの婚約者。
(俺は……なんて馬鹿なことをしたんだ)
ギルバートの中に、後悔という名の黒い感情が渦巻き始めた。
失ったものの大きさに、ようやく気づいたのだ。
だが、王族特有の傲慢さは、まだ彼に「反省」ではなく「奪還」という歪んだ決意を抱かせていた。
「……エリスは俺のものだ」
彼は冷え切ったスープを飲み干し、ギリと奥歯を噛み締めた。
「レオンハルトなんかに渡さない。あいつを厨房から引きずり出し、俺専用の料理人に戻してやる」
王太子の瞳に、狂気じみた執着の光が宿る。
それは、私とレオンハルト様の平穏な日常を脅かす、最後の波乱の幕開けだった。
しかし彼は知らない。
食の恨みと、愛の力がどれほど強いかを。
そして、彼が敵に回そうとしているのが、国最強の騎士団長と、胃袋を掴まれた全王宮職員であることを。




