第5話 甘い香りと急接近
厨房の裏口にある休憩所は、今や「エリス食堂」として、王宮の裏社会(使用人や騎士たち)で伝説になりつつあった。
けれど、今日の客層はいつもと少し違っていた。
「ああ……なんていい香りなんだ」
「天国……これは天国の匂いですわ」
集まっているのは、目の下にクマを作った文官たちや、激務に疲れたメイドたちだ。
彼らを惹きつけたのは、肉やスパイスの匂いではない。
脳髄を直接溶かすような、甘く芳醇な香りだった。
私が調理台で向き合っているのは、昨日レオンハルト様から頂いた『聖樹のバニラビーンズ』だ。
黒い鞘をナイフで裂き、中の種をしごき出す。
それを、濃厚な脂肪分を含む『ムームー牛』のミルクと、砂糖の結晶『スノーシュガー』を混ぜた鍋に入れる。
フツフツフツ……。
鍋を火にかけると、バニラ特有の甘い香りが爆発的に広がった。
優しくて、どこか懐かしく、幸せな記憶を呼び覚ます香り。
「よし、卵液の準備は完了ね」
私は『金鶏』の卵黄だけをたっぷりと使い、温めたミルクと合わせる。
それを一度濾して滑らかにし、あらかじめ底に『焦がし蜜』を敷いておいた耐熱容器に注ぐ。
あとは、蒸すだけ。
蒸し器の中で、卵液がゆっくりと固まっていく。
液体でも固体でもない、その中間の「ぷるぷる」とした奇跡の物質へと変化していくのだ。
「まだですか、エリス様……!」
「もう我慢の限界です……!」
カウンターの向こうで、文官の一人が涙目で訴えてくる。
彼はここ数日、予算削減のあおりを受けて徹夜続きらしい。糖分は彼らにとって生命線だ。
「もうすぐですよ。粗熱が取れるまで待ってくださいね」
私は氷魔法で冷やしておいた特製プリンを、型から皿の上にひっくり返した。
プッチン。
プルルンッ。
皿の上に現れたのは、黄金色の山。
その頂上には、艶やかな琥珀色のカラメルソースがとろりと掛かっている。
揺らすと、まるで生き物のようにフルフルと震えた。
『特濃・王道カスタードプリン』の完成だ。
「さあ、どうぞ」
「「「いただきます!!!」」」
文官たちとメイドたちが、一斉にスプーンを突き立てた。
スプーンが吸い込まれるような抵抗感。
すくい上げると、断面はどこまでも滑らかだ。
パクッ。
静寂が訪れた。
次の瞬間、全員がとろけた顔でテーブルに突っ伏した。
「んんん~~~~っ!」
「あま……いや、ほろ苦い!?」
「卵の味が濃い! でも口の中で一瞬で消える! なんだこれ!?」
金鶏の卵黄による濃厚なコク。
ムームー乳のミルキーな風味。
そして、聖樹のバニラが醸し出す高貴な香り。
それらを、ギリギリまで焦がしたビターなカラメルソースが引き締める。
甘いだけではない、大人のための極上スイーツだ。
「生き返る……死にかけてた脳みそが生き返るぞぉ」
「こんな美味しいお菓子、王族のパーティーでしか出ませんわ!」
皆が幸せそうに頬を緩ませるのを見て、私も嬉しくなる。
前世でもそうだった。
甘いものは、人を無条件で笑顔にする魔法だ。
と、その時。
「……何をしている」
休憩所の入り口温度が、急激に下がった気がした。
賑やかだった空気が一瞬で凍りつく。
入り口に立っていたのは、不機嫌オーラを全開にしたレオンハルト様だった。
腕を組み、鋭い金色の瞳で文官たちを睨みつけている。
「ひっ、黒狼騎士団長!?」
「し、失礼しましたーっ!」
文官たちは脱兎のごとく、残りのプリンを口に詰め込んで逃げ出した。
メイドたちも「ごちそうさまでした!」と慌てて退散する。
あっという間に、休憩所には私とレオンハルト様の二人だけが残された。
「……レオンハルト様、そんなに睨まないでください。彼らも疲れていたんですよ」
「……分かっている」
レオンハルト様はバツが悪そうに視線を逸らした。
彼はドカッといつもの指定席(カウンターの端)に座ると、拗ねた子供のように呟いた。
「約束の時間に来たはずだが……ずいぶんと他の男たちと親しげだったな」
「ただのお客様ですよ?」
「君の料理を食べてあんなだらしない顔をするのは、私と騎士団の連中だけで十分だ」
(えっ?)
それはつまり、独占したいということだろうか。
無自覚なのか、彼は不満げに頬杖をついている。
その様子が、ご主人様にかまってもらえなかった大型犬みたいで、私は思わず噴き出しそうになった。
「ふふ。……拗ねないでください。レオンハルト様には、特別なものを用意してありますから」
「……特別?」
ピクリ、と彼の狼耳(幻覚)が動いた気がした。
私は冷蔵庫の奥から、とっておきの器を取り出した。
他のみんなに出したものより一回り大きく、バニラビーンズも倍量使った『特製・極プリン』だ。
さらに、横にはホイップした生クリームと、真っ赤な『宝石イチゴ』を添えてある。
「これは、貴方がくださったバニラで作ったお礼の品です。一番美味しくできた部分を、貴方のために取っておいたんですよ」
「……私のために」
レオンハルト様の表情が、一瞬で緩んだ。
単純だ。いや、素直な人だ。
私はプリンと一緒に、カップを差し出した。
中身は、黒い液体。
南方の国から取り寄せた『カッファ豆』を深煎りし、ドリップしたコーヒーだ。
「甘いプリンには、苦いカッファがよく合います。一緒にどうぞ」
「……いただく」
彼はスプーンを手に取り、慎重にプリンをすくった。
黄金色の塊が、口の中へと消える。
彼は目を閉じた。
舌の上で、プリンが体温でほどけていく。
バニラの優雅な香りが鼻腔をくすぐり、濃厚な卵の甘みが味蕾の一つ一つを歓喜させる。
甘さが口いっぱいに広がったところで、カッファを一口。
キリッとした苦味と酸味が、甘さを洗い流し、また次の一口を誘う。
「……美味い」
彼は深く息を吐いた。
その顔は、戦場の鬼神とは程遠い、蕩けるような笑顔だった。
「城の菓子は砂糖を固めたように甘いだけだが……これは違う。甘いのに、飽きない。いくらでも食べられそうだ」
「気に入っていただけて良かったです」
「ああ。……毎日でも食いたい」
彼はスプーンを動かしながら、ポツリと言った。
そして、無意識なのだろう。
皿についたクリームを名残惜しそうに舐め取りながら、私を見て呟いた。
「君のような女性が家にいて、毎日こんな美味いものが食えたら……どんなに幸せだろうな」
「えっ」
時が止まった。
皿を洗っていた私の手が止まり、水音が消える。
レオンハルト様は、自分の発言の意味に気づいていないようだったが、数秒後。
私の顔が真っ赤になっているのを見て、ハッとした。
「あっ……いや、今のは、その! 料理人として雇いたいとか、そういう意味で……! 決して、妻になってほしいとか、そういう下心で言ったわけでは……いや、君が嫌でなければ、その可能性も……ぶつぶつ」
彼は顔を真っ赤にして、しどろもどろになり始めた。
あの冷徹な「黒狼」が、耳まで赤くして狼狽えている。
「……ふふっ」
私はおかしくなって、笑ってしまった。
「光栄です、騎士団長様。もし『エリス食堂』を開店したら、一番に招待しますね」
「……うむ。絶対だぞ」
彼は咳払いをし、残りのコーヒーを一気に飲み干した。
その横顔は、まだ少し赤かったけれど、とても男らしくて。
(……胃袋を掴むつもりが、私のほうが心臓を掴まれている気がする)
私は胸の高鳴りを誤魔化すように、新しいコーヒーを淹れ直した。
厨房には、バニラとコーヒーの香ばしい香りが、甘く優しく漂っていた。
◇
一方、王宮の執務室。
窓の外を眺めていたギルバート王太子は、苛立ちを隠せずにいた。
「……最近、城内の空気がおかしい」
廊下ですれ違う文官たちが、妙に生き生きとしている。
死んだような目をしていた近衛騎士たちが、なぜか肌ツヤ良く笑っている。
そして何より、どこからともなく漂ってくる「美味しそうな匂い」が、彼の神経を逆撫でしていた。
「ギル様ぁ、お菓子が食べたいですぅ」
ソファで寝そべっていたミアが、不満そうに声を上げた。
「厨房に言っても、『予算がないので砂糖が買えません』とか『小麦粉の在庫がありません』とか言って、乾パンしか出してくれないんですのよ? ひどくないですか?」
「……ああ、そうだな」
ギルバートは生返事をした。
予算がないのは、お前がドレスを買ったからだ――という言葉を飲み込む。
以前のエリスなら、どうしていただろう。
彼女なら、「あら、砂糖がないなら果物を煮詰めて甘味を出しましょうか」とか、「小麦粉の代わりに芋を使いましょう」とか、知恵を絞ってなんとかしていたはずだ。
(……なぜ、俺はあいつを追い出したんだったか?)
地味だから。可愛げがないから。
そう思っていた。
だが、今のこの空腹感と、満たされない焦燥感は何だ。
ノックの音が響く。
入ってきたのは、側近の男だった。
「殿下、ご報告があります」
「なんだ」
「例の……城内で噂になっている『謎の美食』の出処が判明いたしました」
ギルバートは弾かれたように顔を上げた。
「どこだ!?」
「はっ。……北側の、厨房裏口にある休憩所とのことです。なんでも、夜な夜な絶品の料理が振る舞われているとか」
厨房の裏口。
そこは、エリスが配属された場所だ。
「……まさか」
ギルバートの背筋に、冷たいものが走った。
まさか、あいつが?
いや、ありえない。あいつはただの地味な女だ。料理など作れるはずがない。
だが、あの文官たちの幸せそうな顔。騎士たちの異常な士気の高さ。
そして、今も微かに鼻をくすぐる、甘いバニラの香り。
「……行くぞ」
ギルバートは立ち上がった。
「えっ、どこへですの、ギル様?」
「確かめるんだ。その『美食』の正体を」
王太子が動き出す。
それは、私とレオンハルト様の穏やかな時間を壊す、嵐の予兆だった。
だが、今の私には最強の騎士団長がついている。
そして何より、厨房の味方たち(ヴォルグや料理人たち)も結束していた。
「エリス嬢を守れ!」
厨房全体が、一つの要塞のように私を守ろうとしてくれていることを、王太子はまだ知らない。




