6-4:鬼神の激怒
6-4:鬼神の激怒
陳宮の口から吐き出された言葉は、まるで刃のように鋭く、私の胸を切り裂いた。
衝撃――しかし、その衝撃は予測の範囲内でもあった。
董卓、そして李儒。この二人が、ここまで急速に変貌を遂げつつある呂布軍を、黙って見過ごすはずがない。
外から攻めても崩せない壁は、内側から腐らせる――それは古来よりの常套手段。
私が最も警戒していたのは、まさにこの「内側からの侵食」だった。
「……李粛殿が、ですか」
唇からこぼれた声は、自分でも驚くほど低く、硬かった。
李粛――その名は、私の知る歴史の書にも、裏切り者として刻まれている。
彼はかつて、呂布を唆し、恩ある丁原を裏切らせた男。
根っからの変節漢。
主君が誰であろうと、自らの欲を満たすためならば、平然と刃を向ける――そういう人間だ。
「はい。物証も、挙がっております」
陳宮は静かに懐から木簡を取り出した。
手渡されたそれは冷たく重く、私の指先にまで不吉な予感を染み込ませた。
開けば、そこには詳細な筆致で記された報告書。
李粛の言動、接触した人物の名、密会の時刻や場所、そして昨夜の林の奥で交わされた金と軍略のやり取り――一字一句が、李粛の裏切りを焼き付ける刻印のようだった。
言い逃れの余地など、爪の先ほどもない。
目を走らせながら、私は改めて陳宮という男の恐るべき用意周到さを思い知った。
彼の配下が集めた証拠は、ただの密告ではない。
周到な観察、張り巡らされた情報網、そして危険を冒してでも掴み取った決定的な瞬間。
――この男を味方に引き入れたことは、間違いなく私の最大の功績の一つだ。
報告書を閉じ、顔を上げた私は、低く問う。
「このことは、もう、呂布将軍には?」
陳宮は、わずかに目を伏せて首を横に振った。
「……いえ、まだです。
主君のお性格は、貴女様もご存じのはず。この事実を知れば、血の雨が降りましょう。
李粛一人ならまだしも、彼に同調した者たちまで一掃されれば、軍の結束は根底から崩れます。
まずは貴女様のご意見を伺いたく……」
その判断は正しい。
そして、彼が呂布ではなく私を先に頼ったという事実――それは、私がすでにこの軍の中で「将軍の寵愛を受ける女」を超え、もう一つの頭脳として認められ始めている証でもあった。
「お気持ち、よく分かります。……では、将軍には私から話しましょう」
「しかし……」
「よいのです。これは、私が蒔いた種。刈り取るのも、私の役目です」
私の改革は、古参兵たちの反発を生み、その隙を董卓に突かれた。
ならば、この責任は私が取らねばならない。
陳宮は深く頭を下げ、その背が沈黙の中で決意を語っていた。
その夜、私は呂布の天幕を訪れた。
彼は珍しく上機嫌で、笑みを湛えて私を迎えた。
昼間の演習で、兵が思い通りに動き、戦果を予感させる成果を得たのだろう。
「おお、貂蝉か! どうした、こんな夜更けに。俺に会いたくなったか?」
無邪気な笑顔――それがかえって胸を締めつけた。
これから告げるのは、彼を激しく傷つける事実。
彼の信頼を裏切った者の存在を。
私は彼の正面に座り、静かに口を開く。
「将軍。……申し上げにくいのですが、一大事にございます」
私の声の硬さに、呂布の笑みがすっと消えた。
私は報告書を差し出し、無言で促した。
彼は目を走らせる――その表情が、読み進めるごとに変わっていく。
最初は驚き、次に怒り、そして狂気に近い激情。
拳が白く浮き立つほど握りしめられ、呼吸は荒くなる。
やがて木簡を握り潰さんばかりに掴み、低い唸り声が喉の奥から漏れた。
「……李粛め……丁原殿だけでなく、この俺まで裏切るか……恩知らずの犬めがぁッ!」
その瞬間、彼の全身から爆発するような覇気が放たれた。
天幕の帆布がわずかに揺れ、外に立つ衛兵たちがざわめく。
殺気――いや、それ以上だ。鬼神が目覚めたのだ。
「許さん! 断じて許さんぞ!」
彼は壁に立てかけられた方天画戟を乱暴に引き寄せ、床板を軋ませながら立ち上がった。
その殺気を察して、張遼が駆け込んでくる。
「将軍、お待ちください! ……ですが、裏切りは武人として許されざる行為。見せしめとして斬首が妥当かと存じます!」
時代の常識では、彼の言葉が正しい。
裏切り者は殺す――それが規律を保つ最短で最も分かりやすい方法だ。
だが、私はその流れを断ち切った。
「お待ちください、将軍」
方天画戟を握る呂布の前に、私は一歩進み、道を塞ぐ。
「どけ、貂蝉!」
怒声が轟き、殺気が頬を切るように刺す。
「俺は裏切り者を許すほど甘くはない!」
「将軍のお怒り、ごもっともです。ですが……お尋ねします」
私は彼の目を真っ直ぐに見据えた。
「李粛一人を斬って、それで何が解決するのですか?」
その問いに、呂布の瞳が一瞬揺れた。
激情の奥で、理性が微かに顔を出す――その刹那を、私は逃さなかった。




