6-1:暴君の焦り
6-1:暴君の焦り
洛陽の夜は、濃い闇に沈んでいた。
遠くで鳴る鐘の音が、都の広がりをゆっくりと揺らし、冷えた風が相国府の高い塀をなでていく。
その奥深く、贅を極めた一室には、黄金と絹と血の匂いが入り混じっていた。
床には西域から運ばせた厚手の絨毯が敷き詰められ、壁には戦で奪った戦旗が飾られている。
中央の寝台に、山のような巨体を横たえるのは、この都を暴力と恐怖で握り潰してきた男――董卓だった。
だが、その顔には支配者特有の余裕はなく、不機嫌と焦燥が深く刻まれていた。
寝台の脇に置かれた燭台の炎が、その険しい皺を赤く照らす。
「……して、李儒よ」
低く唸るような声が、重く沈んだ空気を裂く。
「近頃、奉先の奴の様子が、どうにもおかしいとは思わんか」
董卓の声は、苛立ちと疑念を混ぜた濁流のようだ。
「以前ならば、手柄を立てればすぐに褒美を寄越せと騒ぎ立てたものだ。
だが最近は、俺が呼び出しても、理由をつけて応じぬことがある。……まるで、俺から距離を取ろうとしているかのようだ」
重い吐息とともに、憎悪が滲む言葉が吐き出される。
「それに、あの貂蝉とかいう小娘……すっかり骨抜きにされおって」
その声音には、最強の駒である呂布が自分の掌から滑り落ちかけていることへの、露骨な焦りが滲んでいた。
董卓の傍らに立つ痩身の男――軍師・李儒は、薄い唇をわずかに動かす。
感情を一切見せぬ瞳が、燭光を吸い込み、底知れぬ暗さを湛えていた。
「お察しの通りにございます、相国様」
その声は水面のように静かで、冷たい。
「呂布将軍は、確かに変わりつつあります。そして、その背後には、間違いなく、あの貂蝉という女がおります」
李儒は袖から数枚の木簡を取り出すと、恭しく董卓の前に差し出した。
そこには密偵が命がけで集めた呂布軍の内部情報が、細かい筆致で刻まれていた。
「ご覧ください。呂布軍はもはや単なる武勇集団ではございません」
李儒の指先が木簡をなぞる。
「貂蝉の入れ知恵により、軍営の衛生は飛躍的に改善され、病で倒れる兵は激減。兵同士の結束も、恐怖ではなく奇妙な信頼感で結ばれつつあります」
董卓の目が細められ、炎がその瞳に赤い線を引く。
李儒は淡々と続けた。
「武勇、結束、そして大義名分。この三つが揃えば……」
「……我が軍の、脅威となる、か」
董卓の呟きは、獣が低く喉を鳴らす音に似ていた。
「まったくのご明察」
李儒はわずかに口角を上げた。
「しかも、その全ての中心には、あの女がいます。奉先を誑かし、我らの懐刀を……主の喉元に突きつけるように」
董卓は鼻を鳴らし、厚い唇の端を吊り上げた。
「あの小娘……ただの飾り物かと思えば、とんだ食わせ物よ」
室内の空気が、じわりと熱を帯びる。
その熱は怒りからくるもので、燭台の炎すら巻き込むようだった。
「では、どうする」
董卓の声が一段低くなる。
「いっそ、始末するか」
その瞬間、董卓の目にぎらりと光る残忍さが宿った。
血を流すことなど何より容易く、ためらいという言葉は彼の辞書にない。
だが、李儒は首を横に振った。
「なりませぬ」
短く、しかし鋭い否定だった。
「今やあの女は民にとっての『聖女』。下手に手を出せば、民の反感を買いましょう。それは反乱の火種となり、我らの立場を危うくするばかりか、呂布将軍も黙ってはおりますまい」
董卓は低く唸る。
巨体が寝台の上でわずかに揺れ、金糸の刺繍が波を打つ。
「ならば、どうしろと申すのだ!」
怒声とともに、手元の銀杯が床に叩きつけられた。
ガシャン、と高い音が響き、葡萄酒が真紅の血のように絨毯を染める。
侍女たちは一斉に肩を震わせ、誰も息を潜めて動かない。
李儒は、その光景の中で微動だにせず、冷徹な声を落とした。
「……呂布軍を、内側から切り崩すのです」
その言葉は氷の刃のように鋭く、確実に董卓の耳に届いた。
燭台の炎が揺れ、李儒の影が壁一面に伸び、不気味に笑う。
その笑みは、すでに呂布軍を崩壊させるための策が、闇の中で形を成しつつあることを告げていた。
洛陽の夜は、さらに濃く、冷たくなっていく。
その暗闇の底から、破滅の足音が、確実に近づいていた。




