3-5:月下の舞姫
3-5:月下の舞姫
王允が静かに手を打つ――。
その一音は、広間の空気を一瞬にして張り詰めさせる合図だった。
次の瞬間、隣室の楽師たちが、息を潜めるように奏で始める。
低く、深く、胸の奥底に染み入る旋律。
それは、私が密かに命じ、わざわざ并州の民謡を基に編ませた特別な曲だった。
初めは雪解け水のように静かで、やがて遠い荒野の風を運んでくる。
聞き慣れた都の楽とはまるで違う、骨の髄まで沁みる郷愁の音色――その一節に触れた瞬間、呂布の耳がわずかに動くのを、私は簾の向こうから見逃さなかった。
広間のざわめきが、すうっと引いていく。
笑い声も、杯を置く音も、衣擦れの音さえも止んだ。
すべての視線が、一斉に庭園へと開け放たれた大扉の方を向く。
まるで潮が引き、視線だけが一つの波となって、私へ押し寄せてくるようだった。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
薄く張られた簾の向こうに、白銀の月光が射し込んでくる。
足を踏み出すたび、衣の裾がかすかに揺れ、絹が月明かりをすくい取っては返す。
庭園に出た瞬間、夜空の下で私の姿は、まるで物語の幻のように浮かび上がった。
淡い月白色の衣は、光を吸い込み、そして吐き出す。
裾や袖が風を孕むたび、月のしずくが空中に散っているかのようだった。
誰からともなく、小さな感嘆の息が漏れる。
曲がゆるやかに変わる。
序奏が終わり、本奏――。
私は、その拍に合わせて、舞を始めた。
これは都で流行する、艶やかで男を挑発する舞ではない。
腰をくねらせ媚びる動きも、妖しげな微笑みもない。
代わりに、北国の空気を纏った舞――。
袖を翻せば、并州の大地を吹き抜ける烈風が広間を駆け抜ける。
その風は呂布の頬を撫で、かつて嗅いだ草原の匂いを運んでくる。
腕をゆるやかに伸ばせば、それはどこまでも続く地平線となる。
朝日が昇り、やがて沈みゆく夕日の茜が広がり、その中に黒い馬影が消えていく。
足を踏み込み、激しく回れば、蹄の響きが胸に迫る。
土煙を上げ、風を切り裂き、自由を求めて疾走する野生の魂――呂布の魂がかつて重ね合わせた故郷の馬たちの影がそこにあった。
そして、一瞬の静止。
天を仰ぎ、目を閉じる。
その動きは、遠征先の野営の夜、篝火の前で月を見上げる兵士たちの姿を彷彿とさせた。
胸の奥にしまい込んだ故郷への想いが、そっとほどけて広がっていく。
私は、その夜、舞姫ではなかった。
私は、呂布にとっての失われた并州そのものであった。
誰にも理解されなかった孤独も、風の匂いも、雪解け水の味も――舞という言葉で代弁する。
舞いながらも、私は呂布を観察していた。
最初は驚き――
「これは何だ?」とでも言いたげに、眉間が寄る。
次に、その瞳に懐かしさが滲む。
痛みを伴う郷愁。
巨体がかすかに震え、拳が膝の上で握り締められているのが見える。
そして――困惑は、やがて深い感銘へと変わった。
私を、美しい女としてではなく、自分と同じ魂を持つ存在として見始めていた。
……策は、成功した。
呂布の心は、すでに私の掌の中にある。
音が、やがて静かに消えていく。
私は最後の一歩を踏み、膝をつき、深く頭を垂れた。
肩で息をしながらも、決して乱れた姿を見せないように、背筋を伸ばす。
広間は、水を打ったように静まり返っていた。
ただの舞ではなかった。
それは人の魂の奥を震わせ、忘れかけた何かを呼び起こす力を持っていた。
呂布は、杯を手にしたまま呆然と私を見つめている。
その顔から、先ほどまでの傲慢さは消えていた。
そこにあったのは――迷子の子供のような、途方に暮れた表情。
自分でも理解できない感情に戸惑っている顔だった。
「……呂布将軍、いかがかな? 我が娘の舞は」
王允が沈黙を破る。
声には、計画の順調さを確信する得意の響きがあった。
だが、呂布は王允の言葉など耳に入っていない。
ふらりと立ち上がり、重い足取りで庭園へと降りてくる。
その歩みは、戦場を踏みしめる将軍のそれではなく、夢の中をさまよう者の足取りに似ていた。




