3-4:運命の夜
3-4:運命の夜
その夜は、昼の喧騒とはまるで違う息遣いを、屋敷全体に染み込ませていた。
廊下を行き交う使用人たちの足音は、どこか急き立てられるように速く、しかし音を立てぬよう必死に抑えられている。厨房からは、焼き上げた肉の香ばしい匂いと、湯気の立ちこめる香辛料の香りが交じり合い、微かな熱気となって漂ってくる。
家臣たちは武装こそしていないが、皆、鎧をまとったかのような張り詰めた表情をしていた。
まるで屋敷全体が一つの戦場となり、今まさに主役の登場を待ち構えているかのようだった。
その中心にいるはずの私は、自室の静寂の中にいた。
扉の外のざわめきが、遠い海鳴りのようにぼんやりと響く。
胸の奥では心臓が一定のリズムを刻みながらも、血の一滴一滴が熱を帯びて指先まで流れ込むような感覚があった。
小蘭が静かに入ってきた。
両腕には、今宵のために仕立てられた衣。
「お嬢様、お支度を」
その声は、震えてはいなかったが、私にはわかる。小蘭もまた、緊張している。
私は深く息を吸い、衣の袖をくぐった。
絹は指先に吸い付くように柔らかく、わずかに体温を吸い上げていく。
今夜、私が選んだのは、男を惑わせる赤や黒の艶やかな衣ではない。
淡く輝く月白色――夜空の月が雲間から現れた瞬間のような、静謐で神聖な色。
その布地は光を柔らかく反射し、動くたびに波紋のようにゆらめいた。身体の線はあえて隠されている。それでも、動きに合わせて優雅な輪郭が浮かび上がる。
狙うのは、妖艶な毒婦ではない。
俗世の汚れを知らぬ、触れることすらためらわせる――聖域そのもの。
呂布が、無意識に膝を折りたくなるような存在感。
髪は高く結わず、自然に流れる黒髪の中に、小さな真珠を数粒だけ。
それは、夜空に散る星のように控えめで、それゆえに強く印象に残る。
化粧も最小限。頬には薄く紅を、唇には血色をほんのり差す程度。
飾り立てるほど、その神聖さは損なわれる。だからこそ、削ぎ落とす。
支度を終え、私は鏡の前に立った。
そこにいたのは――儚く、清らかで、けれど瞳の奥に何者も踏み込ませぬ覚悟を宿した少女。
この姿を見た者は、きっと「守らねば」と思うだろう。
そして同時に、その奥に潜むものに気づき、抗いがたい吸引力に呑まれる。
「さあ……始めましょう」
鏡に向かって、ほとんど囁くように告げる。
これは国を救う舞ではない。鬼神の心を縛り、私の剣とするための――最初の儀式。
廊下を抜け、私は宴の場へと向かった。
広間に足を踏み入れる前から、空気の密度が変わるのを感じた。
そこは、まばゆい光と色彩の海だった。
磨き抜かれた床には厚い絨毯が敷き詰められ、壁際には幾十もの灯火が金色の揺らめきを放っている。
香の匂いが微かに漂い、豪奢な食器と料理が並ぶその光景は、王允の財力と権威をこれでもかと誇示していた。
上座には――呂布。
彼は昼間とは違う、黒漆塗りの豪奢な鎧をまとい、武人らしい堂々たる姿で座している。
その目は、戦場で百戦をくぐり抜けた獣の目。
洗練などとは無縁だが、放たれる存在感は圧倒的で、この場の主が王允ではなく彼であることを誰の目にも思い知らせていた。
王允はその隣で、笑みを崩さず酒を注いでいた。
その笑みは、漢の重臣としての誇りを飲み下し、己の目的のためだけに作り上げられた仮面だ。
だが私には、その目の奥の苦味が見えた。
私は隣室に設けられた控えの席で、薄い簾越しにその光景を見つめた。
呂布は獲物を探す猛禽のように、何度も広間を見回している。
「呂布将軍、先日は炊き出しの場にて、私の娘が大変失礼をいたしました」
王允の声が広間に響く。
「なに、失礼などと。あれは実に面白い娘御であった。なあ、司徒殿。今日は、その仙女様はどこにおられるのかな?」
……焦らしなさい。
渇望が深ければ深いほど、与えられた瞬間の衝撃は鋭く、深く刺さる。
私は息を潜め、時を待った。
そして――月が中庭を最も美しく照らす刻、王允が軽く手を打った。
それは、獲物を射抜くための合図だった。




