2-10:次の段階へ
2-10:次の段階へ
嵐のように熱気と喧噪が渦巻いていた宴が終わり、呂布とその部下たちが屋敷を去った後、場は一転して嘘のような静けさを取り戻していた。
だがその静けさは、決して安堵の余韻ではなかった。
むしろ、厚い雲が低く垂れ込める前の空のように、張り詰めた空気が屋敷全体を包み込んでいた。廊下を歩くと、板張りの床が小さく軋む音さえ、やけに耳につく。
その緊張を予感していたかのように、間もなく使いの者が私のもとへ来た。
「司徒様がお呼びです」
短い言葉だったが、その背後に潜む感情を読み取るのは難しくなかった。王允――私の義父であり、計略の主導者――が私を呼ぶとき、これまでにない複雑な心境を抱いているのだ。
案内されて足を踏み入れたのは、彼の書斎だった。
昼間の華やかさや酒の匂いなど、ここには一切ない。蝋燭の炎が一本だけ、細く長く揺れている。厚い帳が閉じられ、夜気さえ遮断された空間は、まるで外界と切り離された小さな牢獄のようだ。
木製の机には書簡の山が積まれ、香炉から立ち上る煙が天井近くでゆらゆらと漂っている。その匂いが、どこか重々しい会話の始まりを予告していた。
「……貂蝉よ」
その声は、これまで私が知っていた王允の声とは微妙に違っていた。
いつもの確信に満ちた響きが影を潜め、代わりに探るような、そしてほんの少しの戸惑いが混じっている。
私は静かに膝をつき、視線を落としたまま答えた。
「はい、お父様」
「今日の呂布の様子、お前も見ていたな」
「はい」
「……見事だ。実に見事としか、言いようがない」
彼は背もたれに深く身を預け、重く息を吐いた。その吐息は、酒の匂いを微かに含んでいる。
「お前の言う通り、人心は動いた。都の民は、今や董卓よりも……いや、儂や朝廷の誰よりも、お前を信奉しておる。そして、あの呂布までもが、完全にお前に興味を示した」
彼の声に、微かな皮肉と驚きが同居していた。
「奴のあの目は、欲しくてたまらない玩具を見つけた子供の目だ。……あるいは、本当に天がお前を遣わしたのかもしれんな」
王允は、しばし遠い目をした。
それは、政治家としての計算を超え、運命の糸を感じ取っているかのようだった。
「お前は、儂の想像を遥かに超える『力』を持っているようだ。その力を、儂は……侮っていた」
それは、彼なりの最大限の賛辞なのだろう。
だが私には、その賛辞の奥に潜む感情も見えていた。
――警戒。
彼は私の力を認めたと同時に、その力がいつか自分に牙を剥く可能性を察し、恐れ始めている。
私は、心の中で小さく笑った。
権力者が一番恐れるものは、手中にあると思っていた駒が、自分の制御を離れていく瞬間だ。
そして今まさに、私はその瞬間を迎えようとしている。
「……いよいよ、次の段階に進む時かもしれん」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に熱い波が広がった。
それこそ、私が待ち望んでいた合図。
連環の計――呂布と董卓を互いに争わせる、危険で壮大な作戦。その本格的な幕開けである。
ええ、お父様。
けれど、その「次の段階」は、必ずしもあなたの筋書き通りには進まない。
あなたは、私を呂布と董卓の間に放り込むただの石ころだと思っている。
だが、その石は波紋を広げ、やがて大波となって――あなたさえも呑み込むかもしれない。
私の名は、すでに呂布の心に刻まれ、そして天下にも響き始めている。
この優位を、最大限に利用しない理由はない。
私は表情に一切の感情を出さず、静かに言葉を紡いだ。
「お父様のお心のままに。この身、いつでも漢室のために捧げる覚悟はできております」
深く頭を垂れると、蝋燭の炎が一瞬揺れた。
その姿は、忠実で従順な娘そのものであっただろう。
だがその内側では、別の私が微笑んでいた。
――さあ、鬼神を本格的に手懐ける準備を始めましょう。
外では、夜風が屋敷の壁を撫で、庭の竹をざわめかせている。
この静けさの下で、嵐は着実に形を成しつつあった。




