第16話 2年後
早朝の教会は静寂に包まれていた。
質素、というにはいささか華美が過ぎる内装は、そのどれもが神を称えた神話や絵画、詩に関係するものである。それらは協会内に厳かな雰囲気を満たし、この教会を訪れた者を清廉な気持ちにさせる。
そんな中で、一人の男が布を手に座椅子を磨いていた。
男の名はマーティス。
この教会の司祭である彼は、朝の日課である教会内の清掃をしているところだった。
穏やかな顔つきをした初老の男。その温和な笑みと堂々とした佇まいは見る者に不思議な安心を与えさせる。彼が聖職者であるという事もその安心感に寄与しているのだろう。司祭マーティスは誰に対しても分け隔てなく接する真の聖職者である、と市井からの評判も良かった。
そんな彼が、いつものように己の務めを果たしていると、教会の扉が開き、来客が現れた。
入り口には一人、青年が立っていた。
高い背丈に、一見細く見えるががっしりとした体躯。そして美しい顔立ちを持つ美青年。着ている服は、とても質が良いものであり、そこいらの労働階級が身に着けられるものではない。
シャルル・メルティーズ。17歳となった彼の風貌はますます磨きがかかり、纏う雰囲気も以前よりも大人びたものになったように見える。
「おや……?」
「おはようございます。マーティス先生」
「おはようございます。シャルルくん。今朝は随分と早いですね」
「ご迷惑でしたか?」
シャルルは小さく会釈をした後、ばつが悪そうにそう言った。
朝が早い商人や、職人たちでさえまだほとんど起きていないというほどの時間帯。
外は朝日が昇るかという明るさ。確かに早いと言える。
まぁそれを言うのならこの時間に教会内の清掃をしているマーティスも大概なのだが。
「いいえ、とんでもありません。いつでも神を尋ねてくる者を受け入れるのが教会というものです」
その様子を見て、マーティスは微笑んでそう言った。
少し皺の刻まれ始めた面が、朗らかに笑う。
見た目が大人になっても、こういうところは昔から変わりませんね。とマーティスが言うと、シャルルは「先生の前だけですよ」と恥ずかし気に返す。
「では、いつもと同じでよいですか?」
「はい――お願いします」
二人は、教会の一画に備え付けられた個室、懺悔室に入っていった。
☆★☆
個室の中にはカーテンが掛かっており、シャルル側からはマーティスの顔を見る事は出来なかった。
本来は罪を神へ告白するための部屋。
しかし、シャルルがここを使う時は懺悔の為ではなく、誰にも話せない悩みを神父に相談する為である。
子供の時から、マーティスの好意でここの懺悔室を使わせてもらっていたのだ。
薄暗い部屋の中で、シャルルが言葉をこぼし始める。
「先生、僕は怖いのです」
「怖い、とは?」
「先日、父が倒れました」
マーティスの呼吸が一瞬止まる。
シャルルの父であるジャンとは旧知の仲であり、その凶報に衝撃を受けたからだ。
「なんと……。ジャン殿は大丈夫なのですか?」
「幸い命に別状はありませんでしたが、父は脳卒中でした。半身不随で、もう処刑台に立つ事はできません。父は田舎の別邸で療養し、僕が家業を本格的に継ぐことが決まりました」
シャルルは今年17になる。
今までも処刑に帯同することはあったが、全て父が中心となって執り行っていた。
その父が執行不能になったのだから、シャルルが引き継いで仕事を受けるしかない。
本来の予定であれば、18になった後、父の同伴の元処刑人として本格的にデビューする予定であった。
生まれた時から死に触れてきた生活だったが、自分が中心になって処刑を主導するという事はまだの筈だ。
「近頃は貴族による治世も乱れ、市民による反発も増えています。その分、メルティーズに来る仕事も増え、今私たちが休むことは許されないのです。僕は、メルティーズに生まれた人間として、いつかはやらないといけないと覚悟は出来ていたつもりでした。でも……怖いのです。命を奪う事が。正義の名を冠した剣を持ってしても、この恐怖は消えないでしょう」
カーテン越しでも、シャルルが震えているのが分かった。
彼の恐怖。それは処刑執行人という正義の最後を務める特殊なものである。聖職者であるマーティスとは正反対とも言えるし、ある意味で近いのかも知れない。しかし、その恐怖は決して処刑執行人以外には理解できるものではないし、軽々しく触れていいものでもない。少なくとも、マーティスはそう考える人間だった。そして、彼は目の前で震えている青年が、強い意志を持つ人間である事も知っていた。
「シャルル君は、今も処刑人の家に生まれたことを後悔していますか?」
「……後悔していないと言えば嘘になります。何で自分が、と思うことも未だに多いです。だけど、処刑人の仕事がここまで世間に疎まれなければならない程、低劣なものだとは思わない。罪人の最後を送る人間としての、誇り高い父の背中を見てきましたから」
「そのジャン殿の姿さえ心にとめていれば、問題はないでしょう。君は、既に答えを持っているのですから」
シャルルの雰囲気が少し柔らかくなる。
「すみません……自分でも分かっているんです、ただ弱音を吐いて甘えているだけだって」
「人は誰しもが強さと弱さを持っているものですよ。強いだけの人や弱いだけの人などいませんし、そのような人間はむしろ健やかであるとは言えません。君の持っている強さも弱さも、昔から見てきた私はよく知っています。そのどちらも、誇るべき事であって、恥じる事ではありません。弱音を吐きたくなったら、いつでも私を頼ってください」
「先生……。ありがとうございます。少し、すっきりしました」
背中を丸めて座るシャルルは、まるで小さな子供のようだった。
いや、この懺悔室の中だけが、彼にとって子供になれた唯一の場所だったのかもしれない。
「また、悩んだときはここを訪ねなさい。神は何時でも君を受け入れます」
☆★☆
屋敷に帰ったシャルルを出迎えたのは、女中の恰好をした女性だった。
すらりとした手足に、陶器のような肌。肩口で切り揃えられた銀の髪。
来ている服は、袖がまくられており、両腕で水の入った桶を抱えている。
「おかえりなさい、シャルル様」
「アン……。家事をしていてくれたのか。すまない、そんな恰好をさせてしまって。すぐに新しい女中を呼ぶよ」
「そんな。謝る必要はないのですよ。今はお父様がご隠居なさって、大変な時なんですから。できる限りの事なら私がやりますわ」
父が倒れ、仕事の引継ぎや関係各所への連絡にドタバタしていた所に、長年屋敷の家事を任せていた女中の都合による暇。現在メルティーズ家では、家を回す人間がいなかった。仕方なしに、シャルルとアンで可能な限り雑事を回していたのだ。
シャルルとて、新しい女中をすぐに手配しようとした。
メルティーズは処刑人一家として嫌われてはいるが、世間的には所謂富裕層に入り、女中にも多額の給与を払える。一般的な相場の二倍も払えば、今までならば人が雇えた。
しかし、昨今の情勢がそれを邪魔していた。
貧富の差。身分による差別。貴族階級に有利な政策や制度。
不平等な封建制度に、慢性的な財政難から度重なる増税。
もはや市民の不満は爆発しかけ、身分間では埋めようがない軋轢が生じている。
数年の間で治安もだいぶ悪くなった。しかし、貴族たちは自分に火の粉が降りかからない限り、何も対策を起こさない。
奴らは自分たちの事しか考えていない。通りを歩けばそこかしこから聞こえてくる言葉だ。
この国に住む人間は貴族以外誰もが変革を望み始めている。
父は倒れる前に、これから私たちの仕事が増えるかもしれないとよく口にしていた。
この事態を早くから予見していたのかもしれない。
「それなら、私も手伝うよ。仕事から何まで手伝ってもらって、流石に申し訳ない」
間違いなく、時世が大きく変わろうとしている。
シャルルはそれを肌で感じていた。
しかし、自分は急遽とはいえ、もうメルティーズの当主なのだ。
この家と家族を守らなければならない。
――もう、弱音は吐けない。
革命の足跡は、未だ遠く。しかし確かに、彼らに迫ってきていた。