第15話 新婚?生活と猪被害
出雲の朝は早い。
山々の向こうから柔らかな光が差し込み、澄んだ風が新しく建てられた宮の隙間を静かに通り抜けていく。
遠くでは鳥が鳴き、川のせせらぎが穏やかに響いていた。
平和だった。
実に平和である。
少なくとも、数日前まで八つの頭を持つ怪物を酒で酔わせてぶった斬った荒神の人生とは思えないほどには。
そんな穏やかな朝、広めに作られた宮の一室の隅で、高天原を追放された問題児の神・スサノオは、なぜか壁際で妙に姿勢よく座ったまま朝を迎えていた。
理由は簡単、落ち着かなかったのだ。
何がとは言わないが、正確には分かっている。
分かっているが、認めたくないだけだ。
視線だけをそっと横に向けると、少し離れた場所の朝光の中で、穏やかな寝息を立てて眠る少女——クシナダヒメがいた。
つい数日前まで生贄として死ぬ未来しかなかった彼女と、なぜか現在は同じ家に住んでいる。
意味が分からない。
「……なんでこうなった」
ぼそりと漏らした独り言は誰にも届かない。
届かなくてよかったし、届いたら精神的に死ぬ。
だいたい村神たちの距離感がおかしいのだ。
『英雄様と姫様の宮です!』
『もちろん一緒に住みますよね!?』
『部屋? 一緒でいいですよね!?』
よくなかった、まったくよくなかった。
結果として、スサノオは外で寝ようとしてクシナダヒメに少し寂しそうな顔をされ、
『……私といるの、嫌ですか?』
と言われて敗北した。完全敗北である。
オロチには勝ったし、高天原の神々相手でも暴れられるが、この少女だけは無理だった。
その時、すぅと布が擦れる小さな音がして、クシナダヒメがゆっくりと目を開いた。
少し眠そうな顔のままスサノオを見つけると、ふわりと安心したように笑う。
「……あ」
「お、おはようございます」
まだ少し寝ぼけた声、そして、
「ちゃんと、いてくれたんですね」
その一言でスサノオの思考は完全に止まった。
胸の奥が妙にざわつく。
なんだその確認は、どれだけいなくなると思われているんだ。
いや、違う。
この少女は『いなくなられること』に慣れすぎているのだ。
生贄になるまでずっと諦めながら生きてきた彼女は、誰かが自分のために残るなんてきっと思えなかったのだろう。
そこまで考えた瞬間、スサノオは無意識にぶっきらぼうな声を返していた。
「……いるわ」
短く、けれど思ったよりずっと強い声だった。
クシナダヒメの瞳が少しだけ丸くなり、それからほっと息をつくように微笑む。
「……よかった」
この娘、たまにオロチより強い。
その時、すうっと香ばしい匂いが漂ってきて、クシナダヒメが嬉しそうに立ち上がった。
「朝餉、作ってあります」
「……飯?」
「はい。あの……頑張ったので、お口に合うと嬉しいです」
上目遣いで、数秒の沈黙。はい終了、荒神は朝から致命傷である。
(だめだ、死ぬ。オロチの毒霧より効く)
そして、この平和な朝が静かに終わるはずもなかった。
次の瞬間、宮の窓の外から元気すぎる村神の声が響き渡る。
「英雄様ーー!! 朝から甘いですねぇーー!!」「ごちそうさまでーーす!!」
「今日は荷物運搬手伝ってくださーーい!!」
沈黙の後、スサノオのこめかみに青筋が浮かんだ。
「…………見るな」
ドゴォォォォン!!
宮の周囲を巨大な結界が包み込み、巻き込まれた案山子が空高く吹き飛んだ。
「規模がおかしいーー!!」「力加減ーー!!」
「ス、スサノオ様!? ご近所迷惑です……!」
慌てるクシナダヒメをよそに、スサノオは吠えた。
「静かに飯食わせろ!!!」
高天原を追放された最凶の荒神は、今日も平和な出雲で人生最大の敵と向き合っていた。
怪物でも神でもない、好意に弱すぎる自分自身という敵に。
◇
須我の宮に夜風が吹いていた。
昼間はあれほど賑やかだったというのに、今はもう静かなもので、村神たちの笑い声も遠く、虫の音だけがさらさらと耳に届く。
「だから広すぎるって言ったんだよ俺は……」
縁側に腰掛けながらスサノオがぼそりと呟くと、隣に座るクシナダヒメが小さく笑った。
「皆さま、とても張り切っていましたから」
「張り切りすぎだろ、何だあの部屋数」
「ふふ。未来のため、だそうですよ?」
一瞬、スサノオの動きが止まる。
未来、つまり村神たちが勝手に盛り上がっている『子ども』だの『家族』だのというあれのことだ。
「……進みすぎなんだよ、あいつら」
ぶっきらぼうに視線を逸らすスサノオだったが、その耳はほんの少しだけ赤かった。
クシナダヒメは何も言わず、ただ少し楽しそうに微笑む。
生贄になる未来しかなかった頃には見られなかった、安心しきったその顔を見るたびに、スサノオは何とも言えない変な気持ちになった。
胸の奥が少し落ち着かなくて、でも嫌ではないのだが、かなり困る。
その日の夕方、村神たちが何やら大荷物を抱えて須我宮へやって来た。
「英雄様ーー!!」「姫様ーー!!」
嫌な予感しかしないスサノオは早くも半目になる。
「……何だよ」
するとアシナヅチが、ものすごく良い笑顔で酒壺を掲げた。
「祝い酒です! 新しい宮の完成祝いですよ!」
「あと実質婚儀祝い!」
「まだ言うかお前ら!!」
即座に飛んできたツッコミに村神たちがどっと笑う。
横ではクシナダヒメも少し顔を赤くしていたが否定はしないので、恋愛耐性Eの荒神には刺激が強すぎて余計に困るのだった。
村神たちは次々と荷物を広げ始めた。
川魚、山菜、干し肉、木の実、そして少しばかりの米。
どれも高価なものではないが、それぞれが大事に取っておいたのだろうことは分かった。
「姫様、少しですけどね」
「皆んなで持ち寄ったんですよ、美味しいもの食べてもらいたくて」
「そんな……ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げるクシナダヒメに、村神たちはどこか嬉しそうだ。
最近の村では密かに『姫様を幸せにし隊』みたいな空気ができつつあり、スサノオは何となく納得がいかなかった。
「……なんでお前ら、俺じゃなくてこいつ中心なんだ」
「英雄様、放っておくと無茶しますから」
「姫様が止めないと」
「実質、須我の守り神ですよ」
「うるせぇ!!」
だが反論できず、少しだけ悔しい。
やがて村神の一柱が、持ってきた酒壺を見ながら少し困った顔をした。
「本当ならもっと盛大にやりたかったんだけどなぁ。最近、実りが悪くてよ」
スサノオが眉をひそめる。
「実り?」
「ええ、今年、村が少し荒らされてて。猪ですよ、猪!」
「鹿まで降りてくるし、川魚も減った気がするんだ」
別の男が大げさに肩を落とすと、猟師の男がぽつりと口を挟んだ。
「山も妙でなぁ、この前、鹿が死んでた。山の奥にも入りづらくなってきた、獣が妙に荒ぶってんだよ」
誰かが明るく笑ったことで空気は戻ったが、クシナダヒメだけは少し心配そうな顔をして、困ったように酒壺を見つめていた。
スサノオはその横顔をちらりと見る。
「……何だ」
「え?」
「気になってんだろ」
クシナダヒメは少し迷うように視線を落とし、それから小さく頷いた。
「もし、山の恵みがもっと減ってしまったら、お酒も作れなくなるのかなって……」
村神たちも少し苦笑いを浮かべる。
「まぁ、食う方優先だからなぁ」
「酒まで回らなくなるかもな」
「それは寂しい」
ぽつりと誰かが言ったその時、スサノオの眉がぴくりと動いた。
「……酒、なくなるのか?」
村神たちが一斉に頷く。再びの沈黙。
スサノオはゆっくりと酒壺を見つめ、それから隣のクシナダヒメの少し残念そうな顔を見た。
——あかんやつだった。
荒神の中で、何かが静かに決定される。
「——分かった」
ぼそりと立ち上がるスサノオに、村神たちが首を傾げた。
「英雄様?」
スサノオは剣を肩に担ぎ、少し不機嫌そうな顔で言った。
「その猪、どこだ」
クシナダヒメは、少しだけ嫌な予感を覚えるのだった。




