第1話 姉弟喧嘩〜誓約勝負の提案
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またか——。
高天原じゅうが半分あきれ、半分あせって空を見上げる中、伊邪那岐家の次男である素戔嗚尊がまたやらかしているらしく、雷鳴が轟いては白雲の宮殿を揺らしていた。
「だから俺は母上に会いに行くって言ってんだろ!!」
今日の荒神は、いつにも増して面倒くさかった。
「落ち着け、スサノオ!」
「落ち着いてねぇのは親父だろ!」
高天原の中央神殿——雲海の上に築かれた巨大な宮殿の一角では、今日も盛大な親子げんかが繰り広げられていた。正確に言えば父が怒鳴り、息子がさらに怒鳴り返しているのを、周囲の神々は「また始まった……」という顔で遠巻きに見守っている。
いや、見守るというより、巻き込まれないよう距離を取っているだけだ。
前回は泣きながら暴風を起こして田畑担当の神々が三日ほど寝込み、前々回は海を荒らしすぎて漁担当の神々が本気で抗議に来た。それなのに今回は雷まで鳴っているのだから、いくら何でも更新頻度が高すぎる。
「母上に会いたいだけだろうが!」
銀髪混じりの黒髪を振り乱しながら叫ぶスサノオは、鋭い目つきにやたら整った顔立ちをしていた。だがそれ以上に感情が顔に出すぎていて、怒っているのか泣きそうなのか本人にも分かっていないような表情だった。
「黄泉の国へ行くなど認めん!」
額を押さえた父イザナギの顔は、天地創世級の神であることを一瞬忘れるくらい「疲れている父親」そのものである。
「なんでだよ!」
「死者の国だぞ!?」
「母上いるじゃねぇか!」
「いるからダメなんだ!!」
一瞬で場が静まり返る。誰も触れたくない話題に神々が目をそらす中、その重苦しい空気を破ったのは深いため息だった。
「……またやってるの?」
入口からよく通る声が響くと、神々が一斉に振り向いてそっと道を開けた。
現れたのはひとりの女神——金にも見える長い髪に白く輝く衣を纏い、立っているだけでその場の空気が少し明るくなる。高天原の統治者にして太陽神、そしてスサノオの姉である天照大御神だった。
「姉上!」
勢いよく振り返ったスサノオは、すっかり怒られている弟の顔で助けを求めている。アマテラスはその顔を見て(ああ……今日も面倒な日ね)と一瞬だけ目を閉じたが、姉歴が長いと顔を見るだけでだいたい事情が分かってしまう。
「今度は何を言い出したの?」
「母上に会いに行く!」
「黄泉へ行くと言い出した!」
父と弟の声が見事に重なった。アマテラスは数秒黙ってから、もう一度深く息を吐いた。
「……まだ言ってたの、それ」
「まだってなんだよ!」
「百年以上言ってるでしょう」
「百年くらい誤差だろ!」
神の時間感覚はとにかく雑で、周囲の神々からすると百年程度は「また始まった」の範疇にすっぽり収まる。
「スサノオ」
アマテラスが静かに諭す。
「母上は、もう黄泉の神よ」
「知ってる」
「会いに行って、どうするの?」
「……会う」
「だから、会って何をするの?」
言葉に詰まったスサノオが黙り込む。
怒鳴る勢いだけなら誰にも負けないが、感情を言葉にするのは昔から苦手だった。少し俯きながら、ぼそりと呟く。
「……ちゃんと、別れ言ってねぇし」
その瞬間、空気がわずかに変わった。怒鳴り合いを眺めていた神々がなんとなく目をそらす中、父イザナギの眉がぴくりと動いた。
昔、母イザナミは黄泉へ堕ち、父は母を連れ戻せないまま帰ってきた。
——それ以来なのだ、スサノオが時々おかしくなるのは。
制御できないほど泣き、泣いたかと思えば怒り、怒ったかと思えば暴れる。嵐が荒れ、海が荒れ、高天原が荒れ、たいてい全部が荒れてしまう。
だから皆、彼を「荒神」「問題児」「面倒くさい神」と呼ぶのだが。
「……母上に会いたい」
小さく呟いたその声だけは、ほんの少し幼かった。
アマテラスは額を押さえた。気持ちは分かる、分かるのだ。
ただし。
「だからって黄泉はダメ」
現実問題としてダメだった。
「なんでだよ!」
「死ぬから」
「神だぞ!?」
「神でも危ない場所は危ないの!」
「納得いかねぇ!」
高天原がまた揺れ、天井の雲が渦を巻いて遠くで雷が鳴り響く。危険を察知した周囲の神々が、すっと数歩下がった。
「ほら始まった……」「今日は何壊れるかな」「前回、私の社殿が飛んだんですが」
神々の避難は早く、そして手慣れていた。
「スサノオ」
アマテラスが少し低い声で言った。
「暴れる前に話を聞きなさい」
「暴れてねぇ!」
「今、高天原が揺れてる」
「自然現象だ!」
「お前が自然そのものなのよ」
ぐっ、とスサノオが詰まる。実際その通りだから言い返せない。
嵐に海、暴風、雷——スサノオが感情的になるたび世界が迷惑を受け、しかもその規模はやたらとでかい。
「とにかく!」
スサノオが指を突きつけた。
「俺は黄泉に行く!」
「ダメ」
「行く!」
「ダメ」
「絶対行く!」
「絶対ダメ」
姉弟げんかの語彙が急速に幼くなっていくのを、高天原の神々が遠い目で見ていた。世界創世級の神々とは、とても思えないやり取りである。
「親父も姉上も、俺のこと信用してねぇだろ!」
「信用の問題じゃないの」
アマテラスは即答した。
「実績の問題」
「……」
「お前、この前なんで海を荒らしたの?」
「ムカついたから」
「その前は?」
「ムカついたから」
「田畑を壊した理由は?」
「泣いてた」
「なんで?」
「覚えてねぇ」
周囲の神々が静かにうなずく。そうなのだ、スサノオは感情で、しかも全力で動く。それなのに本人は数日後には理由を忘れてしまうのだから、余計に厄介だった。
「……ほら見なさい」
アマテラスが再び額を押さえる。
「黄泉に行って何かあったら、絶対もっと面倒なことになる」
「ならねぇよ!」
「なる」
「ならねぇ!」
「なる!」
またしても幼くなった会話に、父イザナギが遠い目をしている。なぜ自分の子はこうなったのか、心当たりが少しあるだけに余計につらかった。
その時、スサノオがふいに真顔になった。
「じゃあ証明してやる」
場が静まり、神々の間に「嫌な予感しかしない」という表情が一致する。スサノオが真顔になる時は、決まってろくなことがない。
「俺、ちゃんとやれるって証明する」
「……どうやって?」
アマテラスが警戒気味に聞くと、スサノオはどこか得意げに胸を張った。
「姉上と勝負する。俺が危険な神じゃねぇって証明してやる」
一拍の沈黙の後、高天原中に嫌な空気が流れる。アマテラスがゆっくりと問いかけた。
「……ちなみに、どういう勝負?」
スサノオはにやりと笑った。その笑顔だけは妙に自信満々である。
「俺の剣と、姉上の勾玉で——誓約だ」
神々がざわつく。始まった、また妙な理屈をこじつけ始めた。
「待ちなさい」
アマテラスが片手を上げる。
「その『証明』と黄泉行きに、どういう関係があるの?」
「俺が危険な神じゃねぇって分かれば、行かせてもらえるだろ」
「……理屈が飛んでる」
「飛んでねぇ!」
「飛んでる」
「飛んでない!」
「かなり飛んでる」
周囲の神々が静かにうなずく。だいぶ飛んでいたが、スサノオ本人の中では筋が通っているらしい。いつものことだった。
「いいか、姉上」
スサノオが真面目な顔になり、さらに嫌な予感が増していく。
「誓約で『清き心』が証明されたら、俺は善良」
「うん」
「善良なら危険じゃない」
「うん」
「危険じゃないなら黄泉に行っても問題ない」
「うん?」
「だから行く」
「最後だけ強引すぎる」
アマテラスの即答に、理屈の橋が途中で落ちていると神々も全力でうなずいた。
だが、スサノオは本気だった。
アマテラスは、じっと弟を見る。
怒りっぽくてすぐ暴れ、泣くし面倒くさくて空気を読まないが、嘘だけはあまりつかない。そして一度言い出すと止まらない。
放っておけば本当に黄泉へ向かい、その前に高天原が壊れる可能性も高い。止める方が、よほど骨が折れる。
「……分かった」
アマテラスがため息をつくと、本当にやるのかと神々がざわついた。
「ただし」
太陽神の目が細くなる。
「ちゃんと私の宮へ来なさい」
「おう!」
「武装は最低限」
「分かった!」
返事が怪しいほど早かったが、アマテラスは軽い胸騒ぎを覚えるだけに留めた。
弟の言う「最低限」が、そう易々とは信用できない代物だということを——彼女はまだ、知らなかった。




