【第98話】見てもらいたいものが
昼食は3ーAの教室で食べることになった。空が相変わらず、灰色の雲に覆われていたからだ。
弁当を持って階段を上る間も、晴明の心臓は高鳴っていた。初めて入る三年生の教室に、軽く恐れさえ抱いていた。
桜子と一緒に教室に入ると、既に先輩たちが勢ぞろいして待っていた。通い慣れた教室では味わえない空気に晴明は、背筋が伸びる思いがした。病院の診察室にも似た、かしこまった感じがある。
教室には七人の他に、学生は誰一人としていなかった。当然だ。日々受験が迫ってきているこの時期、文化祭に来る余裕なんて、自称進学校の学生にはない。
晴明たちは、机を七つ向かい合わせになるように並べて座った。先輩たちに挟まれると、晴明は合宿を思い出す。まだ一ヶ月しか経っていないのに、ずいぶん前の出来事のようだ。
机の上に並べられた昼食は、手作りの弁当が多数派だったが、コンビニエンスストアで買っていた者も少なからずいた。佐貫はおにぎりを、芽吹はパンをそれぞれ三つ買っていたし、成の幕の内弁当は具が少し前寄りに偏っている。
朝早く起きて弁当を手作りする親が、特別偉いわけでもないから、晴明は大して気にしなかった。
「何か名残惜しいね。この七人でこうやってご飯食べるのも、最後になると思うと」
しばらく歓談を続けたのちに、泊がふとこぼす。佐貫もおにぎりを食べながら、目配せをすることで同調していた。
確かに引退したら、特に佐貫は受験勉強に忙しくなり、部室には顔を出せなくなるだろう。このメンバーで活動ができるのも、残り二日しかないのだ。
「そんなこと言わないでくださいよ。受験が終わったら、また卒業式の前に、集まりましょうよ」
泊の隣に座る桜子が、とっさに発案する。おそらく二月になるだろう。晴明には、遠い遠い先のことに思われた。
芽吹が賛同したのを皮切りに、七人の意志は一つに固まり、受験後にまた集まることは決定事項になった。
「まあそれもいいけど、まずは明日の劇を何としても成功させなきゃな」と、佐貫が空気を引き締め直す。
その瞬間、泊の表情はかすかにひきつった。
「リハの開始は四時ですよね。椅子を並べて準備するのに、三〇分かかったとしても、まだ全然時間ありますよ。どうします?」
芽吹が尋ねたことは、晴明も同様に気になっていた。
西校舎の裏は、新聞部や美術部の展示教室の真下にあるので、練習を見られる恐れがあるし、そもそも天気がこのまま持ってくれるかはわからない。
部室は手狭すぎるし、会場となる教室は、大賀祭の時間中は使ってはいけない決まりだ。
コミュニティーセンターも別の団体に使われており、晴明たちは練習場所に困っていた。
「いっそのこと、一度帰ってから再集合にしますか? このままここにいても特にすることありませんし」
桜子の提案も、晴明は決定打になり得ないと感じた。雑談でも三時間も話すことができるとは思えなかったし、焦りが全員の胸の中で燻り続けるだろう。
案の定、佐貫に「その方がかえって手間だろ」と、却下されていた。
「じゃあ、部室で入れかわり立ちかわり練習するって感じですか?」
「ああ。面倒だけど、現状ではそれしかないな」
淡々と言って、佐貫は三個目のおにぎりを開けた。全員が賛同しかけた中、ふと渡が口を開く。弁当はまだ半分ほどしか減っていない。
「あの、提案なんですけど、音楽室を借りるのはどうでしょう?」
渡の発言に晴明は、箸を動かす手を止めた。それなりに合理性のある提案に思えた。
「そうか。普段は音楽室は吹部や合唱部が使ってるけど、今日は発表が終わったら練習せずに帰ってしまう。だから音楽室は自由に使えるわけか」
「しかも、音楽室は南校舎の真ん中にあるし、防音もされてるから声量にさえ気をつければ、西校舎や東校舎に聞こえる恐れはない。確かにマトの言うことも一理あるね。なんで思いつかなかったんだろ」
「じゃあ私食べ終わったらあーちゃんに声かけてみます。まだミーティング終わってないでしょうし」
「ああ、南風原。よろしく頼む」
一度突破口が開けると、とんとん拍子で話は進む。成が頷き、音楽室の借用を頼むことで話はまとまった。
まだ分からないが練習場所が決まったことに、晴明は安堵の息を吐く。胸に渦巻く心配は、見ないふりをした。
吹奏楽部、そして合唱部の顧問は、晴明たちが音楽室を使うのを許可してくれた。おかげで晴明たちは声量を落とす必要はあったが、広さを気にすることなく練習をすることができた。
リハーサル前に体力を消費しては元も子もないので、着ぐるみを着ない状態での練習がメインだったが、昨日よりは明らかに声と動きが合っていた。泊の表情からも硬さが取れ、のびのびと演技しているように晴明には見えた。
気づいたときには晴明たちは、大賀祭の一日目が終了したチャイムを聞いていた。
さっそく部室に着ぐるみを取りに行って、会場となる教室へと向かう。パイプ椅子を手早く並べ、舞台の前にはレジャーシートを敷いて桟敷席も作った。
諸々の準備が終わったのは、五時一〇分前。下校時間となる六時には、もう一時間ほどしか残されていなかった。
リハーサルは急ピッチで進められた。最初に素の状態で、音楽や照明とのタイミング、不十分な箇所を確認し、最後には着ぐるみを着ての通しての練習となった。晴明は音響卓に向かいながら、演じる三人の様子を垣間見る。
佐貫はもとより、渡も朝練の甲斐あって、芽吹とのタイミングがばっちり合うようになってきた。
だけれど、泊だけが相変わらず小さくまとまったままだった。芽吹との呼吸はなんとか合ってはいるものの、小さい動きに自信のなさと迷いが見える。
明日はもう本番だというのに、このまま終わってしまったら、間違いなく泊には後悔が残る。そんな演技だった。
リハーサルは微妙な空気のまま、六時一〇分前に終わった。部室に戻っている時間もなく、着ぐるみを教室に置いたままでの解散となった。
簡単な連絡事項を伝えられて、晴明たちは教室を後にする。
校門へと向かう途中、晴明は前を歩く泊に話しかけることができなかった。着ぐるみを脱いだときに、思いつめたような顔をしていたからだ。
だけれど、芽吹は臆せずに泊のもとへと近づいていく。二人は大事な相方同士だから、芽吹が心配するのも当然のことだろう。
「泊先輩、大丈夫ですか? もしあれだったら、俺もう少し声のトーン落として、合わせますけど」
「いや、そんなことは絶対しないで。うまく動けない私が悪いんだから。芽吹は練習通りやってくれればいいよ」
泊にもプライドはあるのだろう。しかし、絶対という言葉に反して、口調は元気がなく、晴明には少し痛々しく思えてしまう。
「そうは言っても泊先輩、正直動き硬いですよ。もっと肩の力抜いていきましょうよ。別に誰かに審査されるわけじゃないんですし」
「それはそうなんだけど、やっぱりやるからにはベストを尽くしたいじゃない? 観に来てくれた人をがっかりさせたくないでしょ? そう思うとどうしても力入っちゃうんだよね」
泊の横顔には、余裕は一かけらもなかった。急くような足取りに、自分で自分を追い詰めていることが分かる。
それは晴明には身に覚えのある感覚だった。しかし、未だ乗り越えられていない自分が何を言っても、絵空事にしかならない気がして、口をつぐんでしまう。
藍色の空から吹く風には、かすかに雨の匂いが混じっていた。
「泊先輩、まさか着ぐるみに入ったら自分は一人だなんて思ってないですよね?」
二人の会話に、後ろを歩いていた渡が割りこむ。思いがけない登場人物に、振り向いた泊は、意表を突かれたような顔をしていた。
「だって、そうでしょ。どれだけ精神論を並べ立てても、着ぐるみに入っちゃえば、暗くて狭い空間に自分一人だけ閉じ込められるんだよ? 声を出して『助けて』なんて言えないし、アテンドの人はいても、この上なく孤独だよ」
吐き出された痛切な本音に、晴明は胸が痛んだ。泊は未だトラウマを抱えたままで、着ぐるみに入っている。その恐ろしさ、心細さはきっと晴明の想像を絶するものだろう。
なのに、渡は受け流すように一つため息をついた。泊の胸中を鑑みれば、ひどく失礼な行為に晴明には思えた。
「泊先輩、本当に視野狭くなってるんですね」
慰めとは程遠い言葉が、矢となって泊に刺さるのが晴明には見えた。しゅんとしているところに、晴明は泊が追い詰められていることを察する。
代わりに芽吹が「その言い方はないだろ」と渡を諫めたが、渡は平然とした様子で言う。
「ちょっと見てもらいたいものがあるんですけど、いいですか?」
渡はブレザーのポケットから、ワイヤレスイヤフォンを取り出して泊に渡した。不思議そうに受け取る泊と同じく、晴明も渡が何をしようとしているのか、皆目見当を抱けずにいた。
渡がスマートフォンを操作している間に、晴明たちは校門から出て、きぼーる通りに突き当たる。
誰も帰ろうとせず七人は、泊を中心に立ち止まったままでいた。
「じゃあ、これから流しますね」
渡はスマートフォンの画面を、泊に向けた。横向きになったスマートフォンから、眩いほどの光が発せられる。
何が映っているかは晴明には見えないし、音も聞こえない。
それでも、強張っていた泊の表情は、あからさまに崩れていく。
「マト、これって……」
「いいから、最後まで見てください」
泊はじっと画面を見つめる。眉がかすかに動いていて、その双眸からは今にも涙がこぼれそうだった。真に迫る表情を見ても、晴明にはまだ泊が何を見せられているのかが分からない。
やがて、三分ほど経って、泊がワイヤレスイヤフォンを外した。
「どうですか? 合宿の時に流した泊先輩のお誕生日おめでとうムービーを、もう一度見てもらいましたけど」
動画の内容を知って、晴明は渡の意図をおぼろげながら察した。泊の瞳は、わずかに潤いを帯びている。
「改めてありがたいなと思ったけど、これを私に見せてどうしたいの?」
泊だって、渡の意図は分かっているはずだ。なのに、とぼけたように口にする。それは泣き出しそうな泊の、防衛本能かもしれない。そう晴明は思った。
「泊先輩。先輩が着ぐるみに入るのを怖がっていることは知っています。話を聞いただけですけど、あんなことがあったんですから、当然のことだとも思います。だけれど、どうしても怖くなったときには、この動画に出てくれたような、先輩のことを想っている人の顔を思い浮かべてほしいんです。僕たちの顔を想像してほしいんです。きっと温かい目で、先輩のことを見守っていてくれるでしょうから」
思いやりだけでできた言葉は、晴明の目頭さえ熱くさせた。涙を堪えるのに必死なのか、泊は返事ができていない。
曇りがちだった空から、とうとうぽつりぽつりと小さな雨が降りだしている。
「そうですよ。とま先輩は一人じゃないんですよ」
「昨日も言いましたけど、みんなとま先輩の味方なんですから」
「安心しろよ。どういう結果になっても、その人たちは受け入れてくれるから。もちろん成功するのが一番いいんだけどな」
口々に泊を励ます部員たち。いくつものやさしさの花が、泊へと手向けられている。
泊は一言「ありがとう」と言って、俯きがちだった顔を上げた。
その表情にはまだ少し憂いが残っていたが、それ以上にまっさらな決意に満ちていた。
「私、がんばるよ。自分のためじゃない。皆のために。私を、私たちを気にかけてくれる全ての人の想いを、良い劇をすることでちゃんと返せるように」
「とま先輩……」
「心配してくれてありがとね。私、絶対この劇を成功させるから」
そう言って、「じゃあ、また明日ね」と泊は、駅とは反対方向に歩を進め始める。
遠く離れるまで六人に手を振ってくれていて、同じく手を振り返していると、晴明は胸がすく思いがした。
明日は絶対にうまくいくという、根拠のない自信が芽生え始めていた。
「じゃあ、雨も降りだしてきたし、俺たちも帰るか」
佐貫に五人は頷いて、一団となって駅へと向かう。
ふと見上げると、細い雨が電灯に照らされて、晴明には白く見えた。
(続く)




