【第93話】一番の思い出って何ですか?
「ちょっと場所を変えましょうか」
二人は由香里の後を追って、コンコースに出た。ぽつりぽつりと人通りはあるが、スタンドより人は少ない。
由香里は入場口とは、反対の方向に歩いていく。そして、ひときわ人気のないところを選んで立ち止まった。
しかし、晴明の期待とは裏腹に、スマートフォンを取り出そうとはしていない。
「ごめんなさい。嘘つきました。本当は、莉菜は今、電話で話せる状態じゃないんです」
応援歌にかき消されそうなほど小さな声で言った後、由香里は深く頭を下げた。
自分たちが謝らせているようで、晴明は若干慌てる。このままではかえって目立ってしまう。
晴明と桜子に言われて顔を上げた由香里の目には、うってかわって、寂しげな色が浮かんでいる。
「もしかして、そんなに体調悪いんですか? インフルエンザ、そこまで重いんですか?」
「いえ、体調の方は問題ありません。ただ、調子が悪いのはメンタルの方で……」
「莉菜さん、何かあったんですか?」
晴明が尋ねると、由香里は表情を曇らせた。
「あの、もし言いたくなければ、言わなくても結構です」
「いえ、大丈夫です」
そう言って由香里は視線を上げた。まるで誰かに話すことで、心を軽くしようとしているようだった。
「実は莉菜、学校にあまり馴染めてないんです。友達を家に連れてきたこともないし、自由な校風があまり肌に合わないみたいで。念のため言っておきますけど、いじめられているとかではないんですよ。……たぶん。ただ、入学してからずっと募っていた居心地の悪さが、キャパシティーを超えてしまったみたいで。今週から学校の方は休ませてもらっているんです。今はあまり外出する気力もないみたいで、正直再来週のホームゲームも来れるかどうか微妙なんです」
由香里は最後まで、声を潜めていた。応援歌が鳴り終わり、スタジアムは少し静かになる。
事態の重さに、晴明も桜子もすぐに返事ができずにいた。打ち明けてもらった嬉しさは晴明にはなく、むしろどうしようもないもどかしさだけがあった。
莉菜を励まそうと思っても、ライリスに入っていることが明かせない以上、晴明にできることはほとんどない。
「そうなんですか……。いや、話してくれてありがとうございます。そんな大変なことになっているなんて、全く知らなくて私たちの方こそすいませんでした」
「いえ、文月さんが謝ることないですよ。言ってないから知らなかったのは当然ですし」
「私たちに、何かできることってありますかね……?」
「お気持ちは嬉しいんですけど、今はそっとしておいてほしいんです。莉菜、ずっと部屋にいるような状態なので。できるだけプレッシャーをかけたくないんです」
自分たちの声がプレッシャーになると言われて、晴明はショックだったが、それでも莉菜の身になって考えれば、家族でもない人間の言葉は、確かに負荷になりかねない。
だけれど、ただ指をくわえて見ていることしかできないのか。度が過ぎた善意は、鋭い刃にすらなりうる。
それでも、晴明には言葉を喉に押しとどめておくことができなかった。
「あの、もしよかったら、莉菜さんにも伝えてもらえませんか」
由香里の顔には疑問符が浮かぶ。しかし、一度口を開いてしまったからには、最後まで言い切るしかない。
「僕たちの高校では、来週末文化祭があるんですけど、そこで僕たち劇をやるんです。二七日の一四時から。僕たちも観ていて楽しい劇にするので、よかったらお二人で観に来てくれませんか? もちろん、無理にとは言いません。気が向いたらで結構ですので」
伝え終わった晴明を、桜子がすぐ「ちょっと、ハル」とたしなめる。
無理もない。劇を観にきたならば、晴明たちが着ぐるみに入っていることは、否応なしに知られてしまう。もしかしたら、ライリスたちとの触れ合いを、純粋に楽しめなくなるかもしれない。
だけれど、晴明にはそんなことより、どうにかして莉菜を元気づけたいという思いの方が強かった。
由香里が遠慮深そうに、「はい。伝えておきます」と返事をする。
二人が来るかどうかはまだ分からない。
それでも晴明は、楽しんでもらえるような劇にしなければと、より気を引き締めた。
由香里が言った通り、この日は最後までスタジアムに莉菜が来ることはなかった。
選手入場の時も、ハーフタイムの時も晴明はメインスタンドを覗き見たが、莉菜の席は空席になっていて、そこだけスタジアムの空気から。置いていかれているようだった。
入場者数はむしろ、先週よりも多かったが、それでも晴明の心は落ち着かない。休憩中に桜子や成と話しているときも、どこか上の空でいた。
試合は一対一の引き分けに終わった。ハニファンド千葉が、終盤に同点弾を決めて追いついた形だ。
晴明はライリスに入って、ピオニンやカァイブと一緒に、選手とともにスタンドに挨拶に行く。
無条件で一部リーグに昇格できる二位との勝ち点差は縮まらなかったが、それでもプレーオフに参加できる六位以内に食い込む可能性は、まだ十分に残っている。
どのスタンドも暖かな拍手で選手の健闘を称えていて、晴明は嬉しくなった。
ゴール裏から聞こえる応援歌は、試合前よりは声量が小さかったが、それでも晴れ間が覗いてきた空に響いて、清々しい雰囲気を作っていた。
会議室に戻って着ぐるみを脱ぐ。消臭などのメンテナンスをして、晴明たちのこの日の活動は終了した。
「お疲れ」と和やかな表情で迎えてくれた佐貫と泊に、晴明は二人の校外での活動は、これが最後だったなと再認識する。
晴明たちがスタジアムに出ている間、二人はどんな会話を交わしていたのだろう。
九人は蘇我駅で解散して、改札をくぐった。疲労を考慮して、今日は劇の練習はない。
晴明としては、まっすぐ家に帰って、倒れこむように夕食まで眠るだけだ。
ホームに降りると、千葉駅行きの電車はまだ来ていなかった。五十鈴と植田は別の車両に乗るようで、寄り道せずに気をつけて家に帰るように言うと、七人のもとを離れていった。
次の電車は京葉線で、三分後に着くらしい。
スマートフォンを取り出すのも、晴明にはなんだか憚られて、思わず前に立つ佐貫に声をかけていた。
「佐貫先輩、今日はお疲れ様でした」
「ああ、ありがとな。でも、お前の方が登場時間長かったんだから疲れてるだろ。こちらこそお疲れ様だよ」
振り向いた佐貫は、満足げな表情を見せていた。今日も全員が大きなトラブルなく終えられたことに、安堵しているのだろう。
解放感からか頬が緩んでいて、晴明も疲れを忘れて、表情を緩めてしまう。
「俺も、最後スタジアムに出たかったなぁ。引き分けたっていうのに、めちゃくちゃ良い雰囲気だったじゃんか。俺も最後は盛大な拍手で、送られたかったなぁ」
ハーフタイム、佐貫が人KENすすむくんに入って、ライリスたちとスタジアムを一周していたとき、スマートフォンやカメラは向けられたものの、リードされている状態もあって、拍手は一つも鳴らなかった。
それだけに佐貫が、試合終了後に大きな拍手を受けていたライリスたちを羨むのも無理からぬことだろう。
なんと言葉をかけていいのか晴明は迷い、結果的に「すみません」という言葉が口をつく。
「いいよ、謝んなくて。むしろ、お前たちがしっかりとキャラクターを演じるのを見て、安心したぐらいだよ。俺たちが引退して、いなくなっても大丈夫そうだなって」
感慨深げに言う佐貫の言葉に、嘘はないのだろう。
だけれど、晴明は二人の引退まであと一週間ほどしかないという事実を突きつけられて、にわかに気が重くなった。
駅のアナウンスが、まもなく電車が入線してくることを告げる。佐貫は電車がやってくる方向に顔を向けた。
その横顔は凛々しかったけれど、晴明にはどことなく影を伴って見えてしまう。
気がつけば、浮かんだ言葉をそのまま吐き出していた。
「そんなこと言わないでくださいよ。まだ大賀祭が残ってるじゃないですか。全員の力で劇を何としても成功させて、盛大な拍手をもらいましょうよ。佐貫先輩たちを快く送り出せるように」
「似鳥、お前言うようになったな。本当にその通りだよ。残り一週間、俺もがんばるから、お前もがんばれよな。良い音響、期待してるから」
「期待してる」の言葉が嬉しくて、晴明の返事も思わず大きくなってしまう。前に立つ泊や渡に、振り向かれたほどだ。
会話は聞こえていただろうけれど、晴明と佐貫は笑ってごまかした。泊にも同じように「期待してる」と言われて、晴明はこそばゆい感じがした。
電車が入線してきて、七人は空いている車内に向かい合うようにして座った。男女に分かれて、晴明の隣には渡がいて、正面には成がいる形だ。
座るやいなや、話しはじめたのは桜子だった。周囲に配慮した抑えめの声で。
「とま先輩、佐貫先輩、改めてお疲れ様でした。これで校外での活動は終わって、後は大賀祭を残すのみですね」
「うん、そうだね。長いようで短かった部活の時間ももうすぐ終わるかと思うと、ちょっと感慨深いものがあるよ」
泊が頷きながら、返事をする。部員は誰もスマートフォンを取り出したり、イヤフォンをつけたりしていない。
千葉駅に着くまでの七分あまり、全員が会話に励もうとしていた。
「とま先輩的には、部活の一番の思い出って何ですか?」
「やっぱ今のところは先月の合宿かな。このみんなで同じ日々を過ごすっていうのは憧れだったし、誕生日も祝ってもらったしね。ただ、現時点ではの話だけどね。大賀祭がそれを超える最高の経験になればいいなって、心の底から思うよ。佐貫はどう?」
「俺は、最初に入ったときかな。想像以上に暑くて、もう大変だった」
「そういえば聞いてなかったですけど、佐貫先輩のデビューってどんな感じだったんですか?」
桜子は軽く身を乗り出している。その目は興味津々といった様子だ。
佐貫は辺りを見回した。電車はまだ次の駅に着いておらず、スタジアムからの客もほとんどいない。
それでも、佐貫は身を屈めて、若干声のボリュームを落とした。誰が聞いているか分からないのだから、一応警戒しておく必要があった。
「昨日みたいに千葉駅前での出番だったよ。ゴールデンウィークを前にして、県内の市町村が一堂に会して、観光キャンペーンを行ったんだ。確かキャラクターも一〇体以上はいたかな。とにかく人手が足りなくて、そのとき三年だった先輩とともに、俺も駆り出されたってわけ」
「佐貫先輩は誰に入ったんですか?」
桜子も七人だけに聞こえるよう、声を潜めていた。二年生たちは、佐貫の話にそこまで興味を抱いていないように晴明には見えた。きっとすでに聞いたことがあるのだろう。
「そこまではここでは言えないな。ほら、人目があるから」
佐貫がそうたしなめると、桜子は素直に「すいません」と謝った。晴明は今度、朝練が終わったときにでも詳しく聞こうと思う。
「で、どうでしたか? 楽しかったですか?」
「今ならちょっとは楽しく感じられるだけの余裕はあるけど、そのときは全くそんなこと考えられなかったな。暑いのも暗いのも今まで体験したことがないほどだったし、何しろはじめてだから動きづらいことこの上なかった。たぶん、外からでも明らかにぎこちなく見えたんじゃねぇかな。それもあって人も全然寄りつかなかったし、スーアクってこんなに大変な仕事なんだなって、痛いほど思い知ったよ」
佐貫の目はどこか遠いところを見ているように、晴明には感じられた。苦かった経験も、今ではいい思い出と言うように。
だけれど、晴明の胸には疑問が浮かんでいた。頭上から、間もなく次の本千葉駅に到着するというアナウンスが降ってくる。ここで降りる者はいないが、晴明は若干慌てて、口を開いていた。
「佐貫先輩、ちょっといいですか?」
「ん? なんだ?」
全員の視線が晴明に集まり、少し喋り辛いとさえ感じてしまう。
「あの、初めて着ぐるみに入ったときはとても大変だったんですよね。それなのに、どうして今日までアクター部を続けてこれたんですか?」
「どうしてって?」
「アクター部をやめたいと思ったことはなかったんですか?」
電車が止まり、ドアが開く。何人かの乗客が降りて、それ以上の乗客が電車に乗り込んでくる。
ドアが閉まるまで、佐貫は答えることはなかった。
一分にも満たないはずの時間が、晴明には何倍にも感じられてしまう。
「何? 似鳥、お前アクター部やめたいの?」
電車が動き出して、佐貫も口を開いた。
やめたいなんて、今まで考えたこともなかったので、晴明は必死に否定した。二年になれば、親に強制的にやめさせられるなんて、口が裂けても言えなかった。
「まあ正直、やめたいと思ったことはあるよ。だってこっちはしんどい思いしてんのに、誰にも気にされないこともしょっちゅうあったし。やってらんねぇよって思ったことは、何回もあったな」
「じゃあ、それなのにどうしてアクター部をやめなかったんですか?」
慎重に晴明は尋ねた。佐貫は息を一つ吐くと、口を結び、考え出してしまう。
その間、誰も行動を起こさなかった。
「俺さ、中学の頃はサッカー部だったんだよな」
佐貫がゆっくりと口を開く。
「でも、俺ボールコントロールも下手だったし、今もだけど小柄だろ。だから、三年間ずっと補欠だったんだよな。でも、アクター部じゃ全員がメンバーだったから、たとえ見られてなくても、常に出番があるのが嬉しかったっていうのはあるかもな」
「それに」と言って、佐貫は晴明から泊に一度視線を向けた。
いきなり目が合ったのにもかかわらず、泊は微笑んでいた。
それを確認すると、佐貫は晴明にもう一度視線を戻す。その表情は泊の笑顔が伝播したかのように、緩んでいた。
「やっぱり泊がいたのは大きかったかな。よく話を聞いてもらってたし、その度に励ましてくれてたし。泊がいたことで楽できた部分もかなりあったし、一人だったらもうとっくにやめてて、アクター部もなくなってたかもな」
佐貫が臆面もなく言ってのけるから、かえって晴明の方が恥ずかしくなってしまう。自分も先輩たちや桜子の存在が、大きな心の支えになっているのは事実だったからだ。
車内では、もうすぐ千葉駅に到着するというアナウンスが流れだす。
「さてと」と言って、佐貫は立ち上がって、すぐ横のドアに向かいだす。後を追うように。部員たちも次々と立ち上がる。
だけれど、成だけがまだ座ったままでいた。頭が下がっていて、よほど疲れているのだろう。
成には成のタイミングがあるのだから、晴明は無理に声をかけなかった。
電車が止まって、ドアが開く。晴明たちは重たい荷物とともに、ホームに降り立った。
(続く)




