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【第90話】実は急なんだけど



 部屋に入るやいなや、制服も脱がずに、晴明はベッドに仰向けに倒れ込んだ。柔軟剤の匂いが鼻腔に入りこむ。


 晴明は目を瞑った。一週間の練習が終わって、身体よりも頭が疲労していたし、心はもっと疲れ果てていた。


 着ぐるみを着ての練習は、ようやく全体の半分を越したところだ。このままのペースでは、火曜日の試験に間に合うか、かなり怪しい。


 泊は冷静に言っていたものの、焦りの色は隠しきれてなかった。そして、焦燥は部員たちに伝播し、熱意が成果にいまいち繋がらなかった。


 日曜日はもとよりコミュニティセンターは満杯だったし、月曜日は最初から休みだから、試験前の練習は明日しかない。


 晴明は張りつめた空気を思うと、今から少しだけ気が滅入った。寝返りを打って、枕に顔をうずめる。低反発の枕は何も言わずに、晴明を心配ごと受け入れていた。


 勉強をする気はおろか、着替える気にもなれずに、晴明は奈津美から夕食が出来たと声がかかるまで、このままベッドの上にいようと決めた。


 しばらくそのままでいると、スクールバッグの中でスマートフォンが振動した。重たい頭を何とか起こして、スマートフォンを取り出す。


 画面に表示された通知は、泊からのラインを表していた。


〝みんな、今週も一週間お疲れ様。少しずつ劇も仕上がってきて、私は手ごたえを感じています。これもみんなが真剣に取り組んでくれている結果です。まだ言うのは早いけど、言わせてもらうね。みんな、ありがとう〟


 もちろん礼を言われるのは悪い気はしないが、突然のことなので困惑が、先に晴明には来てしまう。何か悪いニュースを伝える前ぶりのようにも思われて、すぐに返事ができない。既読はすでに六人分ついている。



 成が〝どうしたんですか、いきなり?〟と晴明の言いたいことを、簡潔なメッセージで代弁していた。


〝実は急なんだけど、みんなに聞きたいことがあって〟


 泊はすぐに本題に入った。デフォルトの画面を、晴明は食い入るように見つめる。泊がメッセージを打ちこんでいるわずかな時間が、じれったかった。


〝さっき水谷から連絡があって、よければ明日の練習の模様を取材させてほしいって言われたんだけど、みんなはどう思う?〟


 水谷は新聞部に所属している二年生だ。アクター部とは、晴明たちが入部する前の二月に取材をして以来、親しい間柄となっている。


 〝本当に急だな。もっと早く話くれればよかったのに〟と佐貫が応答する。晴明も全く同感だった。いくらなんでも明日とは。


〝なんでも今日の編集会議で決まったんだって。水曜日に発行するにはどうしても明日じゃなきゃダメみたいで、軽く泣きつかれるように頼まれちゃった〟


〝とま先輩はどう思ってるんですか?〟


〝私は受けてあげようと思ってる。校内新聞に載れば、宣伝にもなるしね〟


 泊の目論見には、晴明も心の中で頷いた。


 アクター部は昇降口の掲示板に、着ぐるみ劇を上演することを、ポスターにして掲示している。しかし、今朝晴明が見たときには、右上の角にそのポスターは追いやられていた。


 あまり読まれていないと噂の校内新聞でも、中央に貼ってもらえれば、何人かは目を留めるだろう。


 気がつけば、成や桜子、芽吹が取材を受けようと、次々にメッセージやスタンプを送っている。晴明も〝僕も受けた方がいいと思います〟と返信した。すぐに六つの既読がついた。


 渡や佐貫も了承し、明日の練習に新聞部の取材が入ることが、部員たちの間では簡単に決まった。顧問の二人や勝呂にも許可を取らないといけないが、そちらは佐貫や泊が請け負ってくれるらしい。


 晴明は水谷のカメラが、練習に入る様子を想像する。張りつめている空気の中で、水谷が引いてしまわないか少し心配になった。


〝それと、練習が終わった後にインタビューも受けたいと思うんだけど、それは私と佐貫が担当していい?〟


 泊の提案に、異論は出なかった。


 それでも、佐貫は〝大丈夫かな。俺うまく答えられるかな〟と不安がり、顎に手を当てて首を傾げる猫のスタンプを送ってくる。


〝大丈夫だって。明日空き時間に何話すか考えよ〟


 明日の午前中は、佐貫と泊は千葉駅前で、地元の農協のイベントに参加することになっている。成や渡も一緒だ。きっと待機している時間もあるだろう。


 佐貫が「よろしく!」と、晴明の知らない犬のキャラクターのスタンプを送ったことで、一連の会話は終わった。ラインの画面は、再び凪ぎ始める。


 晴明は明日の午後に控えている練習よりも、まずは午前中の「ライリスが行く!」の取材に意識を向けた。




 東からの朝日が差し込む中、晴明は目を瞑って外房線に揺られていた。両隣には桜子と芽吹が座っているが、三人は車窓に目をやることもなく、さりとて会話もしていなかった。


 七時起床は毎日佐貫の部屋で朝練をしている晴明には、それほど苦でもなかったが、これからライリスに入ることと、午後の練習を考えたら、なるべく体力を温存しなければならない。


 晴明は朝日を背にして目を閉じたまま、フカスタの最寄り駅である蘇我駅を通過するアナウンスを聞いた。


 数年ぶりに訪れる蘇我駅以西の区間に、晴明の気持ちはひそかに昂って、なかなか仮眠をとることができなかった。


 土気駅に着くと、改札口には植田が待っていた。


 四人は軽く挨拶をして、近隣の駐車場に停めてある植田の車に向かう。


 晴明たちの右手には、カラフルな色をしたショッピングモールが見えた。まだオープン前とあって、人の気配はあまり感じられない。


 昼前に帰ってくる頃には、ここも賑わいを見せているのだろう。晴明はふと感じたが、昼食を食べることができるほど悠長な時間は、晴明たちにはなかった。


 一〇分ほど車を走らせて、四人が到着したのは砂利敷きの駐車場だった。


 駐車場には、筒井と有賀が車から出て待っていた。植田はハニファンド千葉のエンブレムがあしらわれたワゴン車の隣に自らの車を停め、六人はこの日はじめて落ち合った。


 あまり長い時間一緒にいると、桜子と有賀がまたいがみ合ってしまうので、取材の流れを確認すると、晴明はすぐにライリスに入った。


 先方も早く起きて、開館前の貴重な時間を取材に割いてくれるのだ。そう考えると、晴明の気持ちは逸っていた。


 ツユキ美術館。日本で唯一の写実絵画専門の美術館が、この日の「ライリスが行く!」の取材先だった。


 建物はバナナのように緩やかなカーブを描いており、晴明たちは沿うように入り口まで続く長いスロープを上っていく。


 入り口で待っていたのは館長の露木だった。眼鏡をかけていて、柔らかな表情はどことなく五十鈴に似ている。


 露木にも三〇分以上はライリスの中に入っていられない、晴明たちの事情は分かっているようで、挨拶もほどほどに、すぐに館内へと案内してくれた。


 自動ドアをくぐったエントランスホールには日の光がこぼれてきていて、高い天井も合わさり、室内とは思えないほど開放的な空気があった。


 筒井に手を引かれながら、晴明はギャラリーに足を踏み入れた。LED照明がゴム製の床を柔らかく照らしていて、晴明がイメージしていた圧迫感や不気味さなんてものは何一つなく、ただ静かな厳かさのみがそこにはあった。


 壁に掛けられた作品たちを、晴明はフェルトの目を通して、鑑賞していく。


 刺繡をする女性、ヨーロッパの湖畔、瑞々しいマスカット。


 絵画はセピア色を帯びていて、幾層にも絵の具を塗り重ねた結果、実際の風景に劣らないリアリティを持っていた。


 まるで今にも動き出しそうな対象の数々に、晴明は圧倒されていた。暑くて暗い着ぐるみの中でなければ、もっと楽しめるのにと身も蓋もないことを思いつつ、一つ一つの作品を味わうように眺めた。


 時には裸の女性の後ろ姿もあって、晴明をドキリとさせたが。


 晴明が見学している間も、有賀は取材を忘れたかのように、「すげえ」「やべえ」などと少ない語彙で、呟くように感想を述べている。桜子と植田は美術館の厳かな雰囲気がそうさせるのか、無言で一つ一つの作品に見入っていた。


 芽吹が晴明に「ライリス、絵を見ているところの写真を撮りたいんだけど、いい?」と持ちかけ、晴明は川辺を描いた絵から少し距離を取って、両腕をだらんとぶら下げた。有賀も思い出したように、絵画に見入るライリスの写真を、一眼レフカメラで撮っている。


 手を顎に当てたり、いくつかのポーズを取る晴明。解放されたとき、自然とその目は露木に向いた。


 露木は頬を緩めていて、晴明はほっと安心する。館内での写真撮影は、直接絵画を撮らないという条件のもと、容認されていた。


「今観ていただいたのは森本草介という作家の作品群です。当美術館のコレクションは、森本先生の『横になるポーズ』という作品から始まったんですよ」


 半分ほど一階の展示を鑑賞し終えたところで、先頭を歩く露木が足を止めて話しかけてきた。


 とはいっても、ライリスに入った状態では、晴明としてはうんうんと首を縦に振るしかない。


 代わりに口を開くのは、取材をする桜子や有賀の役目だ。


「月並みな感想ですけど、すごかったです。色調が柔らかで、実際に行った気に、見た気になれました。私、写実絵画はほとんど初めて見たんですけど、感動しました」


「そう言ってもらえると嬉しいですね。特に若い方に」


 桜子の率直な感想に、露木はまたしても頬を緩めた。眼鏡の奥の目が華やいでいるように、晴明には思えた。


「あの、そもそもの質問で申し訳ないのですが、写実絵画とはどういったジャンルの絵画なのでしょうか?」


 有賀が丁寧な口調で聞いた。取材前のざっくばらんな喋り方とは違う。仕事だという意識は、一応はあるらしい。


「読んで字のごとく、事実を写しとる絵画です。基本的には見たものを見たままに描くことを特徴としていますね」


「それはつまり、いわゆるリアリズムということでしょうか?」


「よく言われるんですけど、私は教科書通りのリアリズム、写実主義とは少し違うのかなと思っています。リアリズムは主観をなるべく排除して、客観的に観察し、見たものをありのままに描き出そうとしていますが、写実絵画は主観と不可分のものであると私は考えています。先ほど見ていただいた森本先生の作品だって、今の写真にはないセピアトーンを用いることで、ある種の別の現実を作り出していますよね。写実絵画とは、ただ再現や模倣に終始するのではなくて、対象のずっと奥にあるものと出会うことだと私は解釈しています」


「なんか分かるような気がします。ただ写真で見るよりもリアルに感じられましたし」


「そうでしょう。ただ写真を模倣するだけなら、なんら芸術にはなりませんから。写真は一瞬を切り取るものですけど、写実絵画は年に数点しか発表できないような、時間がかかるものなんです。だから、一瞬じゃなくて描いている時間や、その間の移ろいも写実絵画には含まれていて、それが独自の味わいを生み出していると私は思っていますし、そういったところを楽しんで観ていただけたら嬉しいですね」


 元来口数が多いのか、それとも写実絵画に対する愛情ゆえか、露木は饒舌だった。桜子や有賀が軽く相槌を打つだけで、写実絵画に対する自らの見解を雄弁に語ってくれる。


 晴明は暑さに当てられてなかなか説明が頭に入ってこなかったが、取材としてはやりやすいと感じていた。


「この美術館は建物の形も大きな特徴ですが、これはどういった意図で設計されたのですか?」


「はい。設計士の方には、『見たときに思わず中に入ってみたくなる建物』というコンセプトで依頼をしましたし、窓があったり、突き出ている部分があったりと、美術館のワクワクを伝えられるような建物になっていると思います。当館はイタリアンレストランやカフェも併設していますし、一度外に出ても、その日のうちにならまた入館できるので、ただ写実絵画を鑑賞するだけではない楽しみ方ができます」


 露木の説明を聞きながら、晴明の耳にはカメラのシャッター音が届いていた。


 芽吹が、露木の話を聞くライリスという構図を撮っているのだろう。どの写真が記事に使えるかは分からないし、SNS用の写真も必要だ。


 だから、ライリスがいないところで、桜子や有賀が話を聞くというわけにはいかなかった。


 それから桜子と有賀は、美術館の設立経緯や特に力を入れている展示など、ボイスレコーダー片手に取材を続けた。露木も話を聞かれるのが嬉しいのか、聞かれた以上のことまで話してくれた。


 話は尽きることがなく、開館時間まででも取材は続いていきそうだったが、少しずつ晴明には限界が訪れる。


 話が切れたタイミングを見計らって、手をこまねいて筒井を呼びよせた。


 静かに背中を叩いてサインを出す。そろそろ引き上げたいという合図だ。


「すいません。ライリスが少し外の風に当たりたいみたいなので、そろそろお話を終わりにしていただけますか」


 筒井が言うと、露木は小さく頷いた。少し残念そうだったが、籠もるような暑さに苛まれて、息が上がり始めた晴明には、悠長なことは言っていられない。目が合うことはないが、ライリスから出たいという思いを視線にこめる。


 露木は腕時計をちらりと見てから、中に入っている晴明に語りかけるように話す。


「そうですか。まだB1FにもB2Fにも展示があるのに、観ていただけなくて残念です。予約は必要ですが、今度はお客さんとして、ゆっくり写実絵画を鑑賞してくださいね」


 心が洗われるような一言に、晴明は大きく頷いた。いつかまた来たいと思うほど、ツユキ美術館に展示された写実絵画は、晴明を魅了していた。


 握手をする二人。着ぐるみの外で響くシャッター音を晴明は、しっかりと自分のこととして聞いていた。



(続く)

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