【第89話】無理してませんか?
「これ、泊たちには内緒にしてくれるか?」
改まった声に、三人は頷く。男だけの空間でしか言えないことなのだろうか。
「実は、昨日模試が返ってきたんだけど、ぶっちゃけ結果があまりよくなかったんだ」
佐貫は平然と口にしていたが、真新しい傷口を見せられた三人は、笑って受け流すことはしなかった。
着替えは終わったのに、晴明はスクールバッグを持てない。鉛色の空気がかすかに、物の少ない部屋に垂れこめる。
「佐貫先輩って確か弥生大目指してるんですよね。難しいところじゃないですか」
芽吹が会話をつなげた。渡もさほど驚いてはおらず、二人とも佐貫の志望校を知っているようだった。進路についてはセンシティブになりだす二年生だ。晴明がいないところで、佐貫と話していたのだろう。
高校生にはよくある話題だから、晴明はさほど気に留めなかった。
「ああ、希望する学部にD判定が出されたよ。一月のセンター試験まで、あと偏差値を一〇は上げないと厳しいってさ」
合格が絶望視されるE判定ほどではないが、D判定はなかなかに厳しい結果だ。
晴明だって上総台に入るために、偏差値を元より一〇ほど上げた。
受験の半年前から毎日六時間は勉強して、ようやく合格できたのだから、佐貫の焦りは、晴明には痛いほど想像できた。
「えっ、ヤバいじゃないですか。だったら朝練なんてしてる場合じゃないんじゃ……」
「それは大丈夫。あと半月だし、終わったら死に物狂いで勉強するから。泊も言ったけど、俺も今回の劇にはベストを尽くしたいし、明日からも今まで通り来てくれて大丈夫だから」
顔の前で手を振って、言ってのける佐貫。瞬きが多く、虚勢を張っているように晴明には思われた。
しかし、せっかくの厚意を無下にはできない。
芽吹が渡と晴明に、目配せをしてくる。晴明は、今まで通りにしましょうと、芽吹と視線を交わした。
「なら、お言葉に甘えて明日からも来させてもらいますけど、本当に大丈夫なんですか? 親御さんはなんて言ってるんですか?」
芽吹が尋ねると、佐貫は「実はまだ言ってねぇんだよ。ヤバいよな」と笑ってみせる。
笑い事でないことは、本人が一番分かっているのだろう。
だけれど、佐貫の複雑な心の内を思うと、三人はつっこむことができなかった。ただ、一緒になってぎこちなく笑うだけ。
笑いながら晴明は罪悪感を覚えたけれど、それはどうすることもできない類のものだった。
「まあいずれ言うよ。多分志望校変えろって言われるだろうけど、まだ諦めるには早すぎるからな。最後にもう一回一一月にも模試があるから、そこでなんとかC判定は取ってみるよ」
「滑り止めは考えないといけないけどな」と佐貫は付け加えて、また唇の端を持ち上げた。渡も準備を終えて、三人は鏡のように笑顔を返す。
もう五分が経ったことは明白なのに、佐貫が「じゃあ、そろそろ学校行くか」と言うまで、誰も動き出そうとはしなかった。
四人で上総台へ登校することが、晴明にはほんの少しだけ気まずく感じられた。
その日の練習も、全体の半分まで到達できずに終わってしまった。
部員たちが必死に試行錯誤しているのは晴明にも分かったが、妥協を許したくないという思いが、なかなか先へと進ませなかった。
焦っていたのは晴明だけではなく、泊の言葉も強さを増していて、会議室には切羽詰まった空気が流れていた。
会議室の利用時間が終わって、練習が閉じられても晴明は、息をつけなかった。まだ緊張のただ中にいた。
劇の練習を始めた頃は、六時半でもまだ明るかった空は、このところすっかり暗くなっている。ロビーも幾分涼しくなった。
解散を名残惜しんで、反省も含めて部員たちが話している。晴明も何となく桜子と話していると、後ろから声をかけられた。
振り向くと、成と泊が立っていた。このメンバーということは、話題は一つしかないだろう。
晴明は桜子に断ると、成や泊と一緒に壁際へと向かって行く。
天井照明が届き切っておらず、周囲よりも少しだけ暗い壁を背にして泊が立った。
「で、とま先輩。話って何ですか?」
「ごめん、ちょっと言いづらいことなんだけど……」
そう前置きをされるから、晴明は思わず構えてしまう。検討中のQシートをまた一から書き直すとか、どんでん返しがあるのではないかと恐れた。
「劇の前の日に借りる予定だった音卓あったでしょ。実はあれが壊れちゃったみたいで、借りられなくなったの」
聞いた途端、晴明は頭を殴られるような衝撃を感じた。音卓がないと音楽は流すことができない。学校にあるCDプレイヤーにコードを繋いで、ずっと一定の音量で流すぐらいしか、晴明の仕事はなくなってしまう。
成も慌てた様子で聞いている。
「えっ!? それって大丈夫なんですか?」
「うん。ひとつ前のタイプなら貸し出せるって言われたんだけど、できることに制限がかかっちゃってね。音響プランも考え直さないといけないんだけど、二人はそれでも大丈夫なのか、ちょっと確認したくて」
泊と成の視線は、自然と音響担当者である晴明に集まった。当日、音卓を操作するのは晴明なのだから当然だ。
そして、晴明は迷う必要がなかった。借りないという選択肢は、元からなかった。
「僕はそれでも大丈夫です。どんなタイプのものでも、音が流せればそれで」
晴明に、成が「私も似鳥に同じです」と続く。
泊はほっと一つ息を吐いた。表情は険しさが抜けきってはいないが、目が大分優しくなっている。
「じゃあ、明日ホームページにある、PDFの取説印刷して二人に渡すね」
晴明と成は小さな声で頷く。
表現の幅が狭まることは残念だが、制限があるなかでできることをやるしかない。
晴明は自分に切り替えるように命じた。明日からさっそく音響プランの再検討が始まるのだから、ぼやぼやしてはいられなかった。
「とま先輩、連絡事項は音卓のことで終わりですか?」
晴明が思考をポジティブに転換しているさなか、成が尋ねた。先ほどよりも声量が小さくなっている。
「うん、言いたかったことは終わりだけど、どうしたの? 成も何か言いたいことあるの?」
発言の順番を戻された成は、一瞬言い淀んだ。
その間に後ろから会話が聞こえてきて、桜子が男子三人の会話に合流したことが、晴明には分かる。
グッと上げられた成の視線の先を、晴明も見る。泊の顔には、少し陰影が出来ていた。
「とま先輩、ちょっと無理してませんか?」
成の言葉を、泊は笑ってごまかすこともせず、真剣に受け止めていた。目を少し見開いて、口を結んでいる。
やや離れたところにいる四人は、会話に夢中なのか、晴明たちに漂い出した剣呑な空気には、気がついていないようだった。
「どうしてそう思うの?」
聞き返す泊に、わずかに背筋が凍っていくことを晴明は感じた。
だけれど、成は心の底から泊を心配しているのか、遠慮深い口調で言う。
「だってとま先輩、今日明らかに焦ってたじゃないですか。言葉も少しきつくなっていて、正直私少し怖かったですもん。アクターと演出の二足の草鞋が大変なのは分かりますけど、もう少し演じる皆や私たちスタッフを信頼してくれてもいいんじゃないかなって、思うんです」
「確かに言われてみれば、今日はちょっときつく言いすぎたかも。ごめんね。多分、押し迫ってくる不安を、皆に強い口調をぶつけることで、解消しようとしてるんだと思う」
「やっぱり不安なんですか?」
「逆に成や似鳥は、今の状況が不安じゃないの? 着ぐるみを着ての練習がなかなか進まない今の状況が」
間髪入れずに聞き返されることで、晴明は泊の心情を何となく察してしまった。不安の波に打ち砕かれないように、気丈に振る舞おうとしている。
だけれど、速く瞬く目を見ていると、それが上手くいっているとは晴明には思えない。
泊の抱える不安の全部は、晴明には分かりはしない。
それでも、たとえ一かけらでも肩代わりがしたくて、晴明は返事が出来ていない成をよそに口を開いた。
「僕も練習を見ているだけですけど、不安にならないかと言ったら嘘になります。でも、正直なところ、皆焦りすぎだと思うんです。もちろん楽観的になりすぎるのも困りますけど、もっと余裕を持ってほしいなと見てて思います。今の雰囲気は息苦しすぎるというか……」
見ているだけなのにと責められないか怖くなって、晴明は語尾を弱めてしまう。成も泊も頭ごなしに叱ることはしないだろうと、半年の付き合いで分かっているというのに。
視線も下がっていたので、晴明は意識的に顔を上げた。
泊は眉をひそめて、申し訳なさそうな表情をしていた。
「そっか、似鳥はそう感じてたんだ。ごめんね。気遣わせちゃって」
「いえ、そんなことないです」と晴明は即座にかぶりを振った。成が「とま先輩が謝ることないですって」とフォローしているが、泊の顔はすっきりと晴れてはくれない。
堰が切られたのか、それともスイッチが入れられたのか。どちらにしても泊は、今までにないほど卑屈な目をしてしまっていた。
「紹介された劇団の人からも、稽古は馴れ合いの場じゃないからって言われてたんだけど、ちょっと厳しくしすぎちゃったかな。そりゃ今の雰囲気じゃできるものもできないよね……」
自虐するかのように呟く泊に、晴明は自分が息苦しいと言い出した手前、「そんなことないですよ」とフォローを入れることはできなかった。かといって、頷くことも憚られる。
結局、「そんな暗いこと言わないでくださいよ」と言う成をよそに、じっと泊を見つめることしか晴明にはできなかった。
「でもね、怖いんだよ。ここで集中を緩めたら、中途半端な出来の劇にしかならないって。何度も言うけど、私は最後の活動に悔いは残したくない。だから、逆効果だって分かっていてもついつい厳しくなっちゃうんだ。どうすればいいんだろうね……。本当に月末の大賀祭でちゃんとした劇ができるのかな……」
暗渠に沈んでいくように、表情を翳らせていく泊には、言葉以上のネガティブなオーラが漂っていた。
成と晴明が取れる行動は一つしかない。
「とま先輩、大丈夫ですって。私たちならできるって信じましょうよ。根拠がなくても、自信がないと、上手くいくものもいきませんよ」
「そうですよ。何とかなりますって。というか、皆でさらに一丸となって絶対に何とかしましょう。この部だったら乗り越えられるって、僕は思ってますから」
「そうだね。皆でがんばらないとね」と泊は不自然ながらも、小さく笑顔を見せた。本心ではまだ不安と闘っているのだろうが、不器用でも笑ってくれたことは、晴明を強く勇気づける。
成も晴明も、笑顔を返した。同じように、泊を勇気づけられればと思った。
(続く)




