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【第87話】どうかしたって



 会議室に戻ってきて、真っ先に行動を起こしたのは桜子だった。晴明たちの着ぐるみを脱がすやいなや、すぐに筒井に相談をしに行っていた。


 黄色いビブスを着て会議室から出ようとする桜子を、晴明はとっさに呼び止める。同じ懸念は、晴明も抱いていた。


 筒井に許可を取って、しっかりと汗を拭いてから、二人は会議室から飛び出した。


 階段を上ってメインスタンドに出ると、選手の登場を待つそわそわした空気が、スタジアムには漂っていた。


 二人はコンコースを慎重に歩く。心配して駆けつけたという表情は見せたくなかった。


 莉菜と由香里は、メインスタンドの東側に座っていた。お決まりの指定席だ。


 莉菜と由香里は話しかける前から二人に気がついて、笑いかけてくれたけれど、莉菜の笑顔はどこか引きつっているように晴明には見えた。


「文月さんと、似鳥さんですよね? お久しぶりです。休憩取れたんですか?」


「はい。二〇分間休んでいいって言われました。まあこの休憩が終わったら、試合終了まで出ずっぱりですけどね」


 流れるように桜子は嘘をついたが、着ぐるみに入っているとは言えないから仕方がない。


「そうですか。わざわざ貴重な休憩時間に、来てくださってありがとうございます」


「いえいえ、私も長野さんたちとラインじゃなくて、直接お話したいと思ってましたから。こういう機会でしか、私たち会えないですもんね」


 桜子と由香里の会話に、晴明は割って入るタイミングが掴めない。それは莉菜も同様なのか、桜子を見上げて目を瞬かせていた。


「どうですか。今日のハニファンド千葉は勝てそうですか?」


「うーん。どうでしょう。莉菜、どう思う?」


「どうも何も、今日勝たなかったらもう後がないでしょ。ただでさえ、二位との勝ち点差が一〇に開いたんだから。残留争いをしている沖縄には、何としてでも勝ってもらわないと」


 莉菜から想像以上に厳しい言葉が返ってくる。


 桜子と由香里は軽く笑っていたが、晴明には笑うことができなかった。莉菜の声に記憶していたよりも、力がなかったからだ。


「莉菜さん、どうかされたんですか?」


「どうかしたって何がですか?」


「いや、今日グリーティングの時、少し元気がなかったように感じられたので、どうかされたのかなと」


 とっさに桜子が助け舟を出した。これで悟られることはないだろう。


「実は、莉菜が昨日少し熱を出してしまいまして。本当は今日行くかどうかも迷ったんですけど、莉菜がライリスたちに会えるから行きたいって言って聞かなくて。熱も六度八分くらいまで下がったので、じゃあ行こうかって」


「えっ? 莉菜さん、大丈夫なんですか? 体調の方は?」


「はい。全然問題ありません。お姉ちゃんちょっと大げさすぎるんですよ。熱出たっていっても七度二分くらいなのに」


 莉菜は微笑んでみせたが、笑顔に隠されたわずかな不自然さは、体調だけの問題とは晴明には思えなかった。もっと根本的な原因があるように邪推してしまう。


 桜子が「そうですか」と流して、ジンベッチに話題を移す。


 目を輝かせて、ジンベッチの魅力について話す由香里。きっとマスコットなら誰でも好きなのだろう。


 莉菜も時折相槌を打っているものの、どこか話に乗り切れていないと晴明は感じた。


 シャツの隙間から汗を乾かす涼しい風が入って、少し寒いくらいだった。




「そこはフェードインよりも、カットインの方が私はいいと思うんだけどな」


 テーブルの上に広げられたプリントを見ながら、泊が呟く。晴明はメモ帳に変更点を書きながら頷いた。


 アイスコーヒーを置いた成が、きまりが悪そうな晴明に目をやっている。


「似鳥さ、違うなと思ったら遠慮せずに言っていいんだからね。私はあくまでも話し合って決めたいんだから」


 成は励ますように言っていたが、二つ年上の先輩に意見することは、晴明にはハードルが高い。


 泊は自分の意見を望んでいるようで、晴明は一週間かけて書いたQシートに目をやってから、顔を上げた。


「僕としては、ここはフェードインで、徐々に不穏さを煽るような感じがいいと思ったんですけど、泊先輩は違いますかね……?」


「似鳥の言いたいことも分かるんだけど、私はカットインでインパクトを出したいかなって」


「でも、この前って二回カットインが続いてますし、少し演出方法を変えるのもいいんじゃないかなって、思ったんですけど……」


「確かに、言われて見ればそうかも。成、ちょっと今確認できたりする?」


 泊に言われて、成はスマートフォンを取り出した。フェードインとカットイン、それぞれのサンプルは成のスマートフォンの中に入っている。


 成がイヤフォンを準備している間、晴明はカフェオレを口に運んだ。甘ったるいミルクの味がした。


 泊の確認を、晴明は膝に手を置いてじっと待つ。試されている気がして、店内に流れるジャズも耳に入らない。


 泊がイヤフォンを外す。「なるほどね」と呟いただけでは、晴明にはどちらが良かったのか判断がつかなかった。


「今聞いてイメージしてみたけど、確かに似鳥が言った通り、フェードインの方がこのシーンの雰囲気に合ってると思う。フェードイン、それも少し長めで行こう」


 泊がはにかんできたから、晴明は胸をなでおろした。


 だけれど、まだ十数個もあるキューのうち、一つの確認が取れただけだ。


 晴明はすぐに椅子に座り直す。店内にいくつか聞こえる話し声に、耳を貸してはいられない。


「じゃあ、この曲の終わり方だけど、フェードアウトでいくとして、時間は何秒くらいにしよっか?」


 泊がまた新たな議題を振ってくる。晴明はQシートを見ながら、頭の中で劇の様子を想像していた。


 三人の音響打ち合わせは、一時間以上がかかってようやく終わった。


 駅舎の影が長くなったことに、晴明は今さら気がつく。成も泊もドリンクを口に運んで、一仕事終えたような解放感に浸っている。


 晴明はいくつもメモを書き込んだQシートを、スクールバッグにしまった。


 カフェオレも一口で飲み干せないほど余っているし、時間にもまだ余裕がある。


 席を立つ気にもならず、先輩二人と過ごすのも悪くないと晴明は思った。


「で、成どうだったの? 昨日のハニファンド千葉の試合は。〇対二から逆転勝ちしたから、凄い雰囲気だったんじゃないの?」


「そりゃあもう大盛り上がりでしたよ。三点目が決まった瞬間とか、冗談抜きでスタジアムが揺れましたもん。サポーターの人たちもめっちゃ喜んでて、今年でも一番いい雰囲気だったんじゃないかと思います。ねぇ? 似鳥?」


「はい。試合が終わって挨拶に行ったときも、倍くらい人がいるんじゃないかってぐらい、大きな拍手が聞こえてきましたし、ハニファンドコールも経験したことのない音量で、サポーターの人たちが大喜びしてるのがひしひしと伝わってきました。あの空気は一度味わったら、もう一度体験したくなりますね」


「やっぱり。私もスマホで見てたけど、凄い熱気が伝わってきたもん。良かったね、二人とも」


 「はい!」と成が満面の笑みで答える。晴明としても全く同感だ。昨日の雰囲気はしばらく忘れることはできないだろう。


「で、ジンベッチくんとはどうだったの? 土曜の練習後に来た鬼平さんだったっけ? とはうまくやれたの?」


 泊の質問に、成は即答しなかった。ピオニンとジンベッチは少ししか絡まなかったし、もしかしたら会議室で言われたことを思い出しているのかもしれない。


 ここは自分が話す番だと、晴明は直感した。


「滞りなくできたとは思います。鬼平……、栞さんは、空き時間にもよく話しかけてきてくれましたし、本番も積極的に絡んで来てくれて、とてもやりやすかったです。お客さんにもウケてました」


「千葉サポーターにも人気でしたしね。そうそう試合前に栞さん、ジンベッチに入った状態で、エイサー踊ってくれたんですよ。両ヒレを元気に動かしていて、後ろから見てもとても可愛らしかったです」


 成の口調は少しばかり急いていて、空き時間に何を話したのかを聞かせず、押し切ろうとしていた。泊は特に違和感を抱く様子も見せず、「そうなんだ。それは見てみてかったな」なんて言っている。


 その後も成が矢継ぎ早に、スタジアムでの出来事を話すのを、泊は穏やかな顔で聞いていた。二人の表情のコントラストが晴明には、少しばかり切なく思えた。


「ところでとま先輩のとこはどうだったんですか? 昨日はバスケのとこに行ってたんですよね?」


 ほとんどスタジアムでの出来事を話し尽くした成は、自然に話題を変えた。泊は含み笑いを見せながら、ソイラテを口にする。


 泊と佐貫は、昨日五十鈴に引率されて、船橋市にある体育館、船橋ジェットアリーナへと赴いていた。千葉を本拠地とするプロバスケットボールクラブ、千葉ガナッツの試合に参加するためだ。


 といっても、佐貫が入ったのはガナッツのマスコットキャラクター、ナッキーではなく、千葉ガナッツのスポンサーである桃太郎ホームの公式キャラクター、桃川建之助だ。


 ユニフォームにも名前を出している桃太郎ホームの冠試合とあって建之助、およびアクター部は駆り出されていた。


「まあね。試合には負けちゃったけど、スタジアムとはまた違った雰囲気があって楽しかったよ」


「どんなことしたんですか?」


「まず入場してくるお客さんとのグリでしょ。コートに立ってお客さんたちに挨拶してから、その流れでナッキーとフリースロー対決はしたかな。で、ウォーミングアップをする選手を出迎えてから、試合前の始球式。それと第二クォーターと第三クォーターの間には、ファンの子供たちと一緒にモップがけ競争もしたし、試合後にはナッキーと一緒に帰ってくお客さんを見送ったりもしたかな」


「そんなにやったんですか。大忙しじゃないですか」


「うん。さすがに佐貫も疲れ果てたみたいで、帰りの電車では座ってからすぐに寝ちゃってた。だからごめんね。終わった後、フカスタに行けなくて」


「いえいえ、とま先輩たちは受験生で勉強もしなきゃいけないですし。気にすることないですよ」


 成の言葉に晴明も頷いて、泊のフォローに回る。


「それで、ジェットアリーナへは二人とも初めて行ったんですよね? どんな雰囲気でした?」


「当たり前のことなんだけど、体育館だから声援があちこちの壁に反射して、何倍にも聞こえたなぁ。選手がウォーミングアップをする時とか、音楽が流れて、ライトにも照らされて、まるでコンサートみたいだった。試合中もね、ガナッツを応援するためのアナウンスがひっきりなしに流れていて、この環境でプレーするのは楽しいだろうなぁって客席から見て思ったよ」


 晴明はバスケットボールの試合を見たことがないので、いまいち情景は浮かんでこなかったが、泊が楽しめたことを知って、目元が緩んだ。


 日が少しずつ沈み、駅前は徐々に混雑していく。


「佐貫先輩はどうだったんですか? フリースロー対決とか、モップがけ競争? とかかなり動いたんですよね?」


「建之助は人型のマスコットだったからね。特に大きな問題はなかったよ。フリースローも三本中二本入れたし、モップがけ競争も客席がどよめくぐらい速く走って、ナッキーチームに勝ってたから。出迎えや見送りの時のお客さんの反応も良かったし、佐貫も全部終わった頃には疲れてたけど、満足げな表情してたよ」


「じゃあ、結果的には成功で終わったってことですか」


「大成功って言っていいと思う。機会があれば、またジェットアリーナに行きたいなって少なくとも私は思った」


 目じりの下がった泊の表情から、お世辞ではなく本心で言っていることが晴明に伝わる。そこまで言われると、興味を抱かずにはいられない。


 成が早速スマートフォンで千葉ガナッツを検索していて、三人はしばし表示されたホームページや写真に見入った。試合日程はハニファンド千葉と同じく土日が主で、昼間の時間帯ということもあり、活動の合間に行くことができるかどうかは、かなり怪しかった。


「そうそう。それとね、佐貫かなり疲れてる様子だったから、心配になって家までついていったんだけど、郵便受けに郵便物が結構溜まってて、面倒くさがらずにちゃんと持ってきなって言っておいた。やっぱ高校生で一人暮らしってのは大変なんだね」


 それは泊にとっては、何気ない話だったに違いない。


 だけれど、話の途中から、成の動きが固まっていくのが、晴明には分かった。窓の外が急に浮かび上がったように気になり始める。


 小さく口を開いたまま、固まっている成を、晴明は横目で見ることしかできなかった。


「えっ? とま先輩、佐貫先輩の家知ってるんですか?」


「まぁクラスも部活も同じだしね。休んだ時にはプリントとか届けに行くこともあるかな」


 泊の説明は、説明の役割を果たしていないと、晴明は感じた。いくら共通項が多いとはいえ、それだけで住所を知っている理由にはならない。


 成の目は忙しなく泳いでいた。


「もしかして、佐貫先輩の部屋に入ったこともあるんですか?」


「さすがに最近はないよ。でも、一年の頃はたまに入れてもらってたかな。テレビが思っていたよりも大きくて、いい生活してんだなって思った」


 その返事は成のみならず、晴明にも衝撃を与えた。部長副部長として良好な関係を築いているのは知っていたが、まさかそこまでとは。


 晴明の頭に、場にそぐわない妄想がよぎる。振り払おうとしてもなかなか消えず、晴明は目線を下げて悟られないようにするしかなかった。


 今、三人はドリンクさえ飲めていない。


「そ、そうなんですか……。あっ、えっと……。ねぇ、似鳥ももしかして、佐貫先輩の家がどこにあるのか知ってたりするの?」


 急に話を振られて、晴明は驚いたように顔を上げた。成の肌は夏の日差しを浴びたように紅潮していて、自分と同じことを考えているのかもしれないと感じた。


 どう答えればいいか、晴明はしばし迷う。正直に言って、成にショックを与えはしないか。


 だけれど、その場しのぎの嘘をついて、後々発覚した方が成にとってダメージが大きいだろう。晴明はそう判断してしまった。


「はい……。一応の場所だけは、本人から……」


 おそるおそる成の顔色を窺う。目が金魚みたいに見開かれていて、晴明は言ってはいけないことを言ってしまったと不安になる。


 だけれど、それも一瞬で成は「まぁ、似鳥は同じ男だからね。そういうこともあるか」と、ぎこちなく笑う。


 晴明はテーブルから立ち去りたくなったが、その行動が正解だとも思えなかった。


 ただ、成と泊はこの後、照明の打ち合わせをする。


 席に座っているのは気まずかったが、晴明は自分が少しでも緩衝材になれればと感じた。



(続く)

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