【第76話】大丈夫なのかよ
部活が再開される木曜日。
晴明は筋肉痛も大分取れ、気持ちのいい朝を迎えていた。課題も残り四分の一まで進んでいる。
晴明が荷物をまとめていると、インターホンが鳴らされた。ドアを開けると、桜子がすくっと背を伸ばして立っていた。スクールバッグは満杯に膨らんでいて、パソコンの角が浮き出ている。
疲れているだろうに、無邪気な笑顔を見せてきたから、晴明の心配は余計に膨らんだ。
「ハル、久しぶり。といっても三日だけなんだけど。どう? 私手伝えなかったけど、課題の方進んでる?」
「あとちょっとだから、何とか夏休み中には終わると思う。それよりサクの方こそどうなんだよ。脚本、もうできたのか?」
駅への道を歩く二人。八月ももうすぐ終わるというのに、ちっとも暑さはピークを過ぎてくれない。
桜子は後頭部に手を当てて、笑いながら答える。
「それがまだ全然でさー。何とか夏休み中に終わらせようって思ってるんだけど、まだゴールが見えないんだよねー。ヤバいよねー」
笑えているのだから、まだ少しは余裕があるのだろう。晴明は言葉に出さずに安心した。二度と笑えないような状況に、桜子を追いこんではいけない。
「まあサクならなんとかなるんじゃねぇの。今までだって何とかしてきたじゃん」
「そうだよね。今日とま先輩や芽吹先輩とも相談して、少しずつ書き上げてみるよ」
定期券をかざし電車に乗る二人。千葉中央駅で降りると、一路東に向かう。
上総台高校は多くの部活が活動していたが、どこかうら寂しかった。吹奏楽部の練習や野球部のかけ声が、誰もいない校舎に吸い込まれていくようだ。
二人は中庭を突っ切って部室棟へと向かった。
部室が近づいてくるにつれて、話し声が大きくなってくる。変わらない日常に、晴明は今日も平常心でいられる。
「おはようございまーす」と桜子に続いて、晴明も部室に入った。
しかし、中の光景を一目見ただけで、晴明は足を止めてしまう。
部室には二年も三年も全員いて、ジャージ姿の植田もいる。そして、何より勝呂がいた。植田、佐貫、泊と輪を作って話している。
もう来ない可能性も考えていた晴明にとって、それは驚き以外の何物でもなかった。
立ちつくしているとバツが悪く感じて、晴明は桜子についていく。改めて挨拶をすると、勝呂は嫌な顔一つ見せずに答えてくれた。
「とま先輩、勝呂さん……」
「ああ、あれから先生とも話して、また来てくれることになったんだ。とはいっても忙しいから、週二回が限界なんだけどね」
泊が説明すると、勝呂は二人に小さく頭を傾けた。笑ってはいないが、表情は棘が含まれているわけでもない。
「あの、勝呂さん。こんなこと聞くのも何ですけど、どうしてまた来てくださったんですか……。僕たちそんな大したことしてないと思うんですけど……」
おそるおそる聞いた晴明に、勝呂は小さく微笑んで見せた。
「はい。全く大したことはしていません。エチュードもダンスも、私の求める水準には達していません。ですが、練習にひたむきに取り組む姿を見て、見こみがあると判断しました。時間を削っても見る価値があると感じました。それだけです」
厳しい言葉の裏に、かすかな愛情を晴明は感じた。「これからもよろしくお願いします」と頭を下げる。
勝呂は物腰柔らかに答えてくれて、自分たちが認められたことに、晴明は頬をわずかに緩めた。
しばらくして五十鈴もやってきて、部室の人口密度は最大限まで高まった。扇風機の風も人に遮られて、晴明には少ししか届かない。
蒸した空気の中で最初に口を開いたのは、五十鈴だった。熱中症に気をつけながら、今日も張り切って練習に取り組もうという内容の挨拶に、部員たちは声を揃えて返事をした。
植田から今日の活動予定が知らされ、連絡事項があると、佐貫と泊にバトンが渡される。まず佐貫が部員の顔を見回して、話しはじめた。
「嬉しいニュースがあります。今年の四月に行った幕張の住宅展示場。その運営会社であるタイラホームさんから、ウッピーとサッピーの着ぐるみを、イベントがある一〇月までお借りすることになりました」
話が出たのは昨日なのに、もう決まるとは。目を見張るほどのスピード感だ。
事前に聞いていた晴明でさえ驚いているのだから、初めて聞いた部員たちのインパクトは知れない。
桜子や芽吹を筆頭に空気が色めき始める。佐貫は盛り上がる部員たちを軽く宥めてから、言葉を続けた。
「これで劇の練習も着ぐるみを着ながらできるから、完成度は上がっていくと思う。願ってもない申し出だけれど、あくまでお借りしている立場だということを忘れずに、くれぐれも丁重に扱うように」
佐貫の声すら少し浮かれていたから、部員たちの返事にも締まりはなかった。
角が取れた雰囲気の中、泊が一つ咳をする。それだけで、部員の笑顔ははたと止む。
「私からは悪いお知らせがあります。着ぐるみ劇『Sunny Bunny』の第二稿ですが、まだできあがっていません。文月はがんばってくれているものの、夏休み中に完成する目途も立っていません。劇の練習再開が二学期にずれ込む可能性も考えておいてください」
泊の報告を受けて、部員たちの目は今度は桜子に向く。桜子は申し訳なさそうに、しきりに頭を下げていた。
伸びたはずの身長が、晴明の目には小さく見えてしまう。
「それから、私と文月で相談して、配役や担当を一部変更することになりました。今から新しい配役と担当を伝えます」
さきほどの和やかな雰囲気は一転して、部室に緊張が走る。晴明は知らず知らずのうちに息を呑んでいた。
「まず、ジョシュア役は佐貫で続投です。そして、ルーカス役ですが私、泊が担当することになりました」
部員たちの間に驚きが広がる。しかし、泊が「質問は全て発表した後で」と目で伝えていたから、口に出ることはなかった。
「ルーカス役だった渡はミヒャエル役に変更。それに伴って、ルーカス役だった似鳥は音響を担当してもらいます。また、ナレーションはなくなり、私が担当する予定だったジョシュアの声は、文月に担当してもらうことになりました。あとは変更はありません。担当が変更になった人は、脚本が出来て劇の練習が再開される前に、各自引き継ぎをしておいてください。以上ですが、何か質問がある人はいますか?」
「とま先輩がルーカス役やるって、入れる着ぐるみはあるんですか? マトとは結構身長差がありますけど」
成の疑問は晴明が、いや泊と桜子以外の全員が感じていたことだろう。
しかし、泊は想定していたかのように、ふっと口元を緩めた。
「それは大丈夫です。うしかい座さんに交渉したら、一六五センチメートルくらいまでなら入れる着ぐるみがあるとのことで、それを借り受けることになりました。ただ、動物はクマからパンダに変更になりましたけど」
泊と渡の身長差は頭一つ分ほどある。変更はやむを得ないだろう。
「すいません。もう一ついいですか。とま先輩が着ぐるみに入るってことは、演出は誰がやるんですか?」
「演出は私メインでやります。着ぐるみを着ずに練習する時間も長いですし、俳優が演出も担当することは、小規模な舞台ではそれほど珍しいことでもないので。ただ、どうしても難しい場合には、文月に手伝ってもらいますが、基本的には私が主導権を握ってやります」
泊の説明が腑に落ちたのか、成はそれ以上何かを聞くことはなかった。
少し負担が重すぎるのではと晴明は感じたが、きりりとした表情の泊を見ると、本当に二つの役目をこなしてしまいそうだ。
佐貫もそうだが、三年生にとっては最初で最後の劇なのだ。納得がいくまでやるべきだろうと晴明は思った。
「後は何か質問はありますか? なければいったん締めて練習を始めますけど……」
そう言って部員たちを見回す泊。誰も何も言わないので、部室の空気はミーティングを終了する方向に傾いていた。
だけれど、晴明の胸の中にはまだ引っかかるものがあった。泊の声を遮って、おずおずと話し出す。
「すいません。音響の仕事って具体的には何をするんでしょうか?」
口を開く間際だった泊は、少し驚いた様子で晴明を見つめる。それでもすぐに理路整然とした口調で答え始めた。
「文字通り、音にまつわる全てです。SEと呼ばれる効果音や、劇伴と呼ばれる劇を盛り上げる音楽を、機械を動かしながら流してもらいます。特に今回の劇は、動きに生でアテレコするので責任は重大ですよ」
責任という重い言葉に、晴明は目に見えて萎縮してしまう。
桜子がすかさず、「とま先輩、そんなに似鳥を脅さないでくださいよ」とフォローに入ったけれど、晴明の脳は縦横無尽にかき回されてぐらついていた。
「すいません。少し言いすぎました。ですが、重要な役割には変わりありません。できますか?」
そう優しく声をかけられても、晴明が混乱のただなかにいることには変わりない。視界に移るすべてが揺らめいて見える。
だけれど、何としても劇の完成に携わりたくて、晴明は思わず「はい、できます」と答えていた。泊が礼を言って、ミーティングは終わる。
アクター組が校庭に移動していく中、晴明は立ち止まって桜子を垣間見た。桜子は右手を顔の前で垂直にして、声にはせずに「ごめん」とつぶやいていた。
練習が終わったとき、晴明は合宿と同じほど疲れ果てていた。
脚本が完成していないから劇の練習は進められず、体幹トレーニングやパントマイムに加えて、勝呂指導のもとダンスの練習も取り入れられた。
三日間休んだだけで動きの多くを忘れており、晴明は勘を取り戻すだけで精いっぱいだった。だけれど、佐貫や成、渡の励ましもあって、晴明は二時間半に及んだ練習を、何とか乗り切ることができていた。
部室に全員が集まり、ミーティングも終わると、この日のアクター部の活動は終了となった。
普段は部員たちがざっくばらんに話して、思い思いのタイミングで帰るのだが、この日はそうもいかない。泊が言っていた通り、役や担当の引き継ぎをしなければならないからだ。
晴明は渡のもとへ、泊との話が終わったタイミングを狙って向かっていった。
渡は気張ってなんともないような顔をしていたけれど、疲労の色は隠せていない。
「ごめんな、似鳥。ミヒャエル役、俺がやることになって。舞台に立ちたかったか?」
「いえ、大丈夫です。今回は先輩たちが演じているところを見て、勉強させてもらいます」
「ちゃんと手本になれるかどうか不安だなぁ」
口調とは違い、晴明を心配させないためだろうか、渡は無理して微笑を浮かべていた。
晴明はスクールバッグから、合宿で作成したミヒャエルの履歴書を取り出して渡に手渡す。
「ミヒャエルはフランクで人当たり、というか動物当たり? はいいですけれど、心の奥底には孤独を抱えたキャラクターなので、その二面性を上手く動きに落としこんでくれたら嬉しいです」
「分かった。芽吹や泊先輩と話して、キャラクターを作ってくよ。まあこれからできる脚本次第だけれど」
渡は履歴書をスクールバッグにしまった。晴明はちらりと、名前を挙げられた泊の方を見る。桜子と話しているから、ジョシュア役の声や脚本のことを相談しているのだろう。
そう考えていると、視界の外から「ところで」という声が飛んでくる。顔を戻すと、渡の表情はかすかにあった笑みが消えていた。
「何ですか?」
「ちょっとこっち来て」
渡が声を潜めていたから、何か重大な話題かと晴明は身構えてしまう。部室の隅へと移動する二人。
壁の向こうからは、何の音も聞こえてこない。
「お前、大丈夫なのかよ」
「何がですか?」
「音響を担当することになったこと。泊先輩は知らないかもしれないけど、本当は嫌だったりしないのかよ。昔のことを思い出すようで」
渡の口からそんな心配が出てくるとは思わなかったから、晴明の表情はひきつってしまう。
遠い日の出来事は、まだ忘れたわけではない。
それでも、せっかく役目を与えられたのだ。無下にはしたくない。
「大丈夫ですよ。初めてですけど、南風原先輩も手伝ってくれますし、何とかなると思います」
「でも、そんなこと言ったって、お前昔……」
「二人とも何話してるんですか?」
ヒソヒソ話す二人に割りこんできたのは、桜子だった。あまりに唐突だったから、晴明は声を出して驚いてしまう。
桜子の目は不思議がかっていて、本当に二人の話を聞いていない様子だった。
「別に何ともないよ。ミヒャエル役をどうしようかっていう話」
「そう。ならいいけど。それよりごめんね。私の勝手な都合で音響に変わってもらって。迷惑してる?」
「いやいや。サクは何も悪くないだろ。これももっといい劇にしていくためなんだろうし」
「でも、よりによって音響なんてって思ってるでしょ。別にやりたくないんなら、今まで通り私がやるけど」
「いや、それは……」
晴明はとっさに答えることができなかった。決心したはずなのに、不安がぶり返してくる。
桜子がのぞき込むようにして見てくるから、ますます返事がしづらい。首を縦に振っても横に振っても、明確な返事にはならない気がした。
「文月、ここは似鳥を信じてやらせてやろうぜ。全部一人でやるわけじゃないんだからさ。それに第一、音響をやんないと似鳥の担当がなくなっちゃうだろ」
渡が助け舟を出してくれたことに、晴明は驚いた。
この先輩は少なからず自分の事情を分かっている。それを考慮して後押しをしてくれているのだ。
晴明は首を縦に振った。三人の間に割って入ってくる者は見受けられない。
「俺、音響やるよ。サクや泊先輩、南風原先輩と相談して何とか形にする。だからさ、早速なんだけど何から始めればいい?」
力強く主張する晴明とは裏腹に、今度は桜子が言葉を濁した。歯切れの悪さは、いつも快活な桜子には似合わない。
「ごめん。まだ脚本が出来てないから、どんな効果音とかBGMが必要かは具体的には言えないんだ。とりあえず明日、成先輩からもらった音卓、音響調整卓の取説渡すから、それ読んで待ってて」
まだ動き出せないことに、晴明は多少の焦燥を抱く。だけれど、桜子はそれ以上の焦燥や恐怖に迫られているのだと考えると、声に出して責めることはできなかった。
部室から一人、また一人と人が帰っていく。
晴明は成とも少し話した。自分を心配してくれていたが、合宿で口を滑らせていたことを思うと、晴明は割り切れない思いを抱いた。
(続く)




