【第75話】よかったらお貸ししますよ
照明がついて、スクリーンを覆っていた緊張の糸は一気に緩んだ。会話する客席は、今しがた終わった映画を咀嚼しようとしている。
晴明たちは中央寄りに座ったので退出するには、隣に座る学生たちが離席するのを待たなければならなかった。
まだ残っているMサイズのポップコーンを口に運びながら、晴明は映画の余韻に浸る。原作は知らないが面白かった。
隣に座っていた樺沢も開口一番「よかったぁ」と漏らしていたから、満足したようだ。この場にはいないが、誘ってくれた桜子に感謝である。
「いやー、よかった。さすがは人気漫画原作だな。普通にやれば面白いのは分かりきってるからな。まぁその『普通にやる』が難しいんだけど」
スクリーンを出て、不自然なほど眩しい照明と、天井のスピーカーから降ってくるJーPOPを浴びながら、樺沢はしみじみと語っていた。
「確かに面白かったですよね。僕、一位でゴールしたとこ感動しました」
「あれは王道だけど、やっぱいいよな。皆が力を合わせて、得意分野を発揮して、大きなことを成し遂げるっていう。王道は悪く言われることもあるけど、真っ当にやればやっぱ強いから」
入場口を出る二人。館内は映画の前よりも人が多く、数少ないソファはすべて座られていた。
だから、二人で話すためには邪魔にならない壁際に立つしかない。
「そもそもなんですけど、樺沢さんってどうしてこの映画を観ようと思ったんですか?」
「予告編を見て、面白そうだったから」
シンプルな答えに、晴明は単純な相槌を打つ。映画館へ通えば通うほど、気になる映画は増えていくらしい。
「あの、樺沢さん的には、今回の『弱虫ペダル』は一〇〇点満点中何点って感じでしょうか?」
「似鳥って映画に点数つけるタイプ?」
「でも考えません? レビューするならこれくらいの点数だなって」
「まあそれは分かる。星五つ換算で、どれくらいだなとか考えたりするしな。えっ? 似鳥的には何点なの?」
「僕は八〇点ですかね。最後まで楽しく観れたんで」
「そっか。俺は七〇点かな。俺さ、原作読んでないんだけど、それでも問題なく観られたのは大きいと思う。逆に原作が好きな人からすると、物足りなさを感じるかもしれないけど」
樺沢の映画につける平均点を晴明は知らないが、それでも七〇点は悪い点数ではないだろう。
誰かと一緒に観た映画が、つまらなかったらバツが悪い。会話も弾まず、楽しい思い出として記憶されない。
だから、晴明は今しがた観た映画が面白かったことに安堵していた。樺沢と感想を言い合っていると、身体の痛みや周囲の視線に負けずに、少し離れた映画館まで来た価値があったと思えた。
だが、話しているうちに晴明の中で、少しずつ違和感が募っていく。映画を観る前に浮かんだ質問が、再び浮上していた。
二人は感想を言い尽くし、会話は一瞬止まる。このタイミングしかないと、晴明は口を開いた。
「あの、ちょっと別の話してもいいですか?」
樺沢は反発することなく、晴明の提案を受け入れていた。
「樺沢さんって、ゴロープロダクションに所属してるって言ってましたよね」
「そうだけど?」
「社長って勝呂五郎さんですよね。戦隊ものとかで長らく活躍した」
「ああ。ホームページ見れば、書いてあるからな」
「その息子の勝呂和己さんも、ゴロープロダクションなんですよね?」
「一応はそうだな。あまり絡んだことはねぇけど」
その言い方が全くの他人事で、晴明は少しためらってしまう。それでも同業者からすれば、また違った姿が見えているのかもしれない。
晴明は遠慮がちに聞いてみる。
「樺沢さんから見て、勝呂さん、息子の方はどんな印象ですか?」
樺沢がどうしてそんなことを聞くのかと不思議がっていたので、晴明は合宿で勝呂が外部指導員として来たことを簡単に説明した。樺沢も納得したようで、腕を組みながら頷く。
館内の人の流れは止まない。夕方になって、より人が増えてきたようにも思える。
「正直、あまり印象はないんだけど、まあ悪い人じゃないと思うよ。誰に対しても礼儀正しいし、仕事に穴を開けたことはないらしいし」
迷いながら言葉を選んでいる樺沢を見て、どうやら印象が薄いというのは本当らしいと晴明は感じた。
悪評がたっていないことをプラスに捉えようとした矢先、樺沢の「ただ」という言葉が飛んでくる。
「俺、あの人が他の人と話してるところ、あまり見たことないんだよな。自分から人とのかかわりを避けてるっていうか。やっぱり父親が社長ってことで、色々難しい部分もあんじゃねぇのかな」
合宿でも練習中はともかく、それ以外の時間では勝呂はあまり部員と接しようとはしていなかった。その姿に晴明はどこか寄る辺ない思いを抱えていた。
果たして、勝呂は明後日から再開される部活に来てくれるのだろうか。晴明の胸に不安が巣くう。
「さてと。俺そろそろ帰ろっかな。もうすぐ電車の時間になっちゃうし」
組んでいた腕をほどきながら口にする樺沢に、晴明は名残惜しい気持ちを抱いた。せめて映画館の外まではと、二人で歩いていく。
自動ドアが開くと、傾き始めた太陽が晴明を西から照らし、思わず目を細めてしまう。
「じゃあ、俺もう行くわ。また一緒に映画観ような」
踵を返そうとする樺沢を、晴明は無意識のうちに呼び止めていた。振り返った樺沢は、軽く驚いた表情を浮かべていたが、晴明は思い切って口を開く。
「僕の高校で文化祭、大賀祭っていうんですけど、が今度あって。僕たちアクター部はそこで着ぐるみ劇を披露するんです。よかったら観に来てくれませんか?」
「それっていつ?」
「大賀祭は九月の二六日と二七日の二日間で、着ぐるみ劇は二七日の一三時からの予定です」
「分かった。その日は仕事ないから、多分行くわ。楽しみにしてる」
そう言って手を振りながら、樺沢は駅へと向かっていった。後ろ姿を見送りながら、晴明はこの後の予定を考える。
次の千葉方面に向かう電車は、一二分後だ。駅で待つべきか、もう少し映画館で涼んでいくべきか。
迷っていると、ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。
取り出すと、そこには泊からのラインが来ていた。アクター部のグループラインではなく、初めて使われる個別のラインだった。
"明日、空いてる?"
翌日も日の光が容赦なく降り注ぐ、猛暑日となった。渦を巻くような熱気に、晴明の足取りも重くなる。
半袖のワイシャツから出た肌がじりじりと日に焼けていく。それでも晴明は、国道沿いを歩き続けた。かすかに潮の匂いを感じながら。
信号を曲がり、道を一本入ると、目の前には連なる家々。まだ仮入部期間中に訪れて以来の住宅展示場は、まだ夏休み中ともあり、ちらほらと親子連れの姿が見えた。
入り口に立っている泊は、すぐ晴明に気がついたようで、小さく手を振っている。制服のロングスカートは、緩んだ住宅展示場の雰囲気にやや似つかわしくない。
「こんにちは、似鳥。身体の調子はどう? どっか痛くない?」
太陽が照りつける日向でも、泊は汗一つかいていなかった。
はじめて二人きりになった緊張からか、晴明はなかなか声が出なかった。
「大丈夫です。かなり休みましたから」
本当はまだ体の節々が痛いのだが、心配をかけてもいけないので、晴明は強がった。
泊は腰を曲げて晴明を覗きこむ。疲労を見透かされていると晴明は感じた。
「ごめんね。疲れてるのに、わざわざ呼び出して。本当はフミに来てもらおうと思ったんだけど、『脚本を書き直したい』って言われたから、そっちの方に集中してもらうことにしたんだ」
「泊先輩、どこまで聞いてるんですか?」
「どこまでって?」
「文月から脚本の改稿のこと」
「合宿が終わった日の夜に、『プロットから書き直したい』ってラインが来たから、また一から書き直すんじゃないかな。アドバイスもしたいから部活には来てもらうけど、日曜日のハニファンド千葉の試合は休んでもらうことにした」
「カァイブのアテンドはどうするんですか?」
「それは私がやるから心配しないで。それとも、似鳥はフミがいないと心配?」
いつかの成にも聞かれたが、やはり自分と桜子は子供と保護者のように、他の部員には映っているのだろうか。
ここで顔を赤くしたり、うろたえたら相手の思うつぼなので、晴明は平然と答える。
「いや、そんなことないです。文月がいなくても、僕は僕の仕事をするだけですから」
泊が感嘆したような目で晴明を見る。
不安もあったが、上手くいくと信じるだけの度胸を、晴明はアクター部に入って手にしていた。
「それにしても成先輩、遅いですね」
「ああ。さっき駅を出たってラインがあったよ。たぶん、もうすぐ着くと思うんだけど……」
「すいませーん! 二人とも。遅くなりました!」
二人の会話に唐突に、大きく調子のいい声が介入してくる。成が駆け足で二人のもとに向かってきていた。顔には汗をかいていて、急いで来たことが伝わる。息を切らしている成に、泊が優しく声をかけた。
「全然大丈夫だよ。まだ集合時間まで一〇分あるから。ほら、これで汗拭いて」
そう言って泊は、水色の無地のハンカチを成に差し出した。汗を拭いている成を、泊は甲斐甲斐しく眺めている。
住宅展示場から出てきた親子連れが、三人を不思議そうに見ながら帰っていく。アットホームな雰囲気の中で、制服姿の三人は少し浮いていた。
「じゃあ、三人揃ったし行こっか。私についてきて」
歩き出す泊の後を、二人が追っていく。初めての渉外の仕事に、晴明の心臓はしきりに鼓動を続けている。
失礼があったらどうしようと、言い知れない不安を抱きながら、住宅展示場を突っ切るように歩いた。
三人が入ったのは、住宅展示場の一番奥にある二階建てのオフィスだった。
通された会議室は、白を基調にしたシンプルな室内に、窓際に置かれた観葉植物が彩りを加えている。
晴明は久しぶりに味わう大人の空間に緊張して、出されたお茶を飲むこともできない。
それでも、横を向くと泊と成の二人は慣れているのか、落ち着いた表情で、膝に手を置いて静かに待っていた。
ドアが開くと二人が立ち上がるから、晴明も慌てて続いた。
入ってきた人物に、晴明は見覚えがあった。四月のオープンイベントで司会をしていた女性だ。名前は思い出せないが、穏やかな目から晴明たちを敵対視していないことは分かる。
「お久しぶりです。アクター部のみなさん。今日はよろしくお願いします」
「はい、田鍋さん。こちらこそ今日はよろしくお願いします」
泊が挨拶を返したのを皮切りに、三人は頭を下げた。目の前の人間の名前を忘れないように、晴明は脳内のメモ帳に書きこむ。
田鍋は微笑を浮かべて、「どうぞ座ってください」と促す。晴明は背もたれに寄りかからないように、背筋を伸ばした。
「田鍋さん、先日はありがとうございました。劇団の作家の方を紹介していただいて。劇の脚本を考えるうえで、とても参考になりました」
「いえいえ。どうぞお構いなく。昔の経験が役に立って、私も嬉しかったですよ。ところで今日は文月さんはいらっしゃらないんですか?」
田鍋の視線は晴明に向いていた。ステージ上から一度見ているはずだが、おそらく覚えていないのだろう。晴明は心臓が縮こまる思いがした。
「文月は現在、脚本の改稿に集中していて、今日はお休みです。代わりに同じ一年生部員の似鳥を、今日は連れてきました」
「よろしくお願いします……」
おそるおそる声を出す晴明にも、田鍋は「こちらこそよろしくお願いします」と友好的に返してくれた。
だから、晴明は緊張がほぐれずとも、少しだけ安心することができた。
「もしかして、以前オープンイベントを見学していた学生さんですか? よかったじゃないですか。入部して」
密かに声を弾ませる田鍋に、泊も成も素直に頷いていた。アクター部を気にかけてくれる人間がまた一人いたことは、晴明に感慨をもたらす。
田鍋は座り直して、「さて」と告げる。会議室の空気が一瞬にして、引き締まるのを晴明は感じた。
「本題に移りましょうか。一〇月一一日にある秋のお客様感謝祭の件ですが……」
打ち合わせは程よい緊張感の中で行われた。泊を中心に、成が時折補足をする。晴明はほとんどメモを取るだけだったが、田鍋はかみ砕いて話してくれたので、蚊帳の外になることはなかった。
ウッピーには晴明が入るという泊の発言には若干驚いたものの、自分に対する期待の現れなのだと捉えて、晴明は受け入れた。
会議室には空気清浄機が稼働しているから、息詰まることもない。田鍋は三人と対等な立場で話してくれて、晴明は身が引き締まる思いがした。
一時間ほど話しただろうか。打ち合わせは無事に終わった。
三人が立ち上がって礼をしても、田鍋は残りの茶を飲むように勧めてくれた。まだ時間に余裕はあるらしい。
晴明たちは言葉に甘えて、もう一度座った。三人を見る田鍋の目は、甥や姪を見るように細められていた。
「どうですか? 大賀祭で上演する劇の進み具合は? 初めてのことで大変でしょう」
膝に手を置きながら丁寧に聞いてくる田鍋に答えたのは、正面に座る泊だった。
「配役や担当も決まって、徐々に動き出しているところです。本番までにはあと一ヶ月もないので、ここからペースを上げていけたらなと」
「そうそう。私たち、先週合宿したんですよ。そこで台本の読み合わせとか、役作りとか色々話し合いました」
成が重ねた言葉に、田鍋は興味津々といった様子で目を見開いた。少し前のめりになってさえいる。
「いいですね、合宿。まさしく部活! って感じで」
「はい。練習の他にも自分たちで料理を作って食べたり、バーベキューをしたりしました。私、部のみんなと一緒に過ごすのが初めてだったので、とても楽しかったです」
「それはよかったですね。私の頃は、近場の体育館やコミュニティセンターで済ませてしまったので、合宿なんてありませんでした。羨ましいです」
田鍋の返事をきっかけに、話題は田鍋の高校時代に移った。東京の公立高校の演劇部に田鍋は所属していたらしい。
盛り上がる話に晴明は相槌を打つことしかできなかったが、三人の快活な表情を見ると、この場を去りたいとは思わなかった。
しばらく話した後、田鍋が腕時計を見る。
「すいません。そろそろ次の仕事が入っているので、この辺りで話を終わりにしたいのですが」
ここまで話してくれただけでも望外なので、三人はためらわずに会議室を後にすることにした。
再び礼を言って、会議室から出る。オフィスの外へ向かう間も、田鍋は先を歩いてくれた。気配りに晴明は、一〇月のイベントを成功させなければと感じた。
「ところで、大賀祭の日程はいつでしたっけ?」
「九月の二六日と二七日ですね。私たちの出番は、二七日の一三時からです」
「思ったより時間ないですね。今脚本を書き直してる最中なんですよね。間に合いますか?」
「正直焦りはありますけど、でも何とかします」
泊は明るい声色で言っていたが、改めて言葉にされると、晴明もじわりと不安を覚えてしまう。
今は桜子を信じて待つしかない。自分には何もできないことがもどかしかった。
「よければ、私何か手伝いましょうか?」
「えっ? いいんですか?」
「まあ平日は仕事があるので、何かできるとしたら土日になってしまうんですけど……。そうですね……。今、ウッピーとサッピーの着ぐるみ全く使ってないので、よかったらお貸ししますよ」
願ってもいない展開に、晴明は呆気にとられて、すぐに返事をすることができなかった。
実際に着ぐるみを着て、動きを確認することで得られる効果は大きい。
晴明は目の前を歩く人間が、菩薩のように見えた。
「もし、そうしてくれるのならありがたいんですけど、本当に大丈夫なんですか?」
「まあ私の一存で決められることではないんですけど、きっと上もOKしてくれると思いますよ。倉庫で眠らせているのもったいないですから」
四人は入り口を出て、激しい日差しに晒される。太陽を浴びて、田鍋の横顔はキラキラと輝いているように晴明には見えた。
「でしたら、ぜひお願いします」と泊に続いて、二人も頭を下げる。
「はい。上に相談してみます」と田鍋が返事をすると、三人は口々に感謝の言葉を口にした。
まだ決まったわけではないが、晴明は劇の完成に向けて、大きな援軍を得た思いだった。家々の壁に日光が反射して眩しい。
三人はオフィスに戻っていく田鍋が見えなくなるまで、お辞儀をし続けていた。
(続く)




