【第21話】なんで教えてくれなかったの
スタジアムの外は、飲食の販売が開始されたからか、賑やかさがぐっと増していた。屋根の影が短くなっている。直接日差しを浴びてはいないので分からないが、太陽もより高くなり、気温は上昇しているのだろう。半袖がちらほらと狭い視界に映る。
晴明は筒井に連れられるまま、グリーティングが行われるスペースに歩いていった。スマートフォンやカメラを向けられるのが、メッシュ越しの不鮮明な視界でも分かる。
写真を撮られるのはあまり好きではないが、画面に映るのはあくまでライリスだ。自分ではない。そう考えると、晴明は少しだけ胸を張ることができた。
成の言った通り、グリーティングスペースに着く前から、待ちきれないと言わんばかりにファン・サポーターが、ライリスとピオニンをめがけて向かってくる。
晴明は歯の奥に何か詰まるものを感じつつも、手を伸ばしてきた子供に、軽くハイタッチをすることで応じた。
グリーティングスペースは一般入場口と、飲食店のちょうど合間だ。筒井は立ち止まることなく、自分が説明した通りのスペースにライリスを連れていった。
筒井と一緒にライリスも立ち止まる。人の向こうに、道路がぼんやりと見えている。
隣に感じる気配は、きっとピオニンだろう。二人は仲のいい友達という設定だ。
二人が所定の位置に着くと、人々は誰が言い始めたわけでもなく、写真を撮る者は輪になり、触れ合いたい者は列を作った。筒井や市村の出る幕はほとんどない。確かにグリーティングに慣れているらしい。
筒井や市村とあいさつを交わす声も聞こえ、勝手知ったる仲らしいことがうかがえた。
グリーティングが開始されて、最初に晴明の前に現れたのは、二人組の中年女性だった。ハニファンド千葉の赤いユニフォームを着て、一人の手には紙袋が持たれている。
紙袋から出てきたのは、透明な袋に入ったクッキーだった。ライリスとピオニンの二人分ある。しかも、雰囲気からしてお店で買ったものではない。
晴明は腕を伸ばして、フェルトのふかふかな手で、大きな愛情を受け取った。いきなり手作りのクッキーなんて、ありがたいけれど、いささか重すぎる気もする。
それでも晴明は、手と体を揺らして喜びを表現してみる。二人とも微笑んでくれたので、間違った対応ではなかったらしい。
それからも、握手をしたりツーショット写真を撮ったりしながら、グリーディングは続いていった。
青紫色のユニフォームを着た京都サンクスのサポーターからは、生八つ橋を贈られた。写真撮影のときには、白い鳥のぬいぐるみを渡された。わざわざ関係のないキャラクターのぬいぐるみを持ってくる理由はないので、晴明はこれがみやびちゃんかと、心の中で独り言ちる。
時折、ピオニンに入った成の動きを参考にしながら、晴明は何人かとのグリーティングをこなした。
本当に幅広い年代の人がいて、一人で来た人も多く、スタジアムでは普段の属性が、あまり関係のないことを晴明は知る。
筒井が左手に二回触れる。持ち時間の半分を過ぎた合図だ。着ぐるみの中は暗く、時間が分からないので、こうした配慮はありがたい。
先ほどから汗が額から垂れ続けているが、晴明はもう一度顔を上げた。
メッシュ越しに二人の女性が見える。一人はユニフォームを着ているが、もう一人はベージュ色のアウターの下にライリスとピオニンが描かれたTシャツを着ていた。
二人は手をつないでいるけれど、同年代には見えなかった。姉妹だろうか。
少し背の高い女性の手には、ハニファンド千葉のグッズと思しき赤いバッグが握られている。
二人はライリスとピオニンとそれぞれ握手をする。ユニフォームの女性が言う。
「ライリス、今日もかっこいいね! ピオニン、久しぶり! 会いたかったよ! ちょっと見ないうちにきれいになったんじゃない?」
晴明は他にどうしたらいいか分からず、サムズアップをした。隣では成が頬を抑えて首を少し傾げている。「そう?」とでも言いたげなピオニンのリアクションに、二人のウケも上々だ。
ユニフォームの女性が赤いバッグから、包装されたお菓子の詰め合わせを取り出す。
晴明が受け取ると、赤いネイルがきらめいて見えた。
「はい、これ! いつものお菓子セット。二人はもちろん、筒井さんや市村さんたちとも分け合って食べてね」
ライオンが分け合うなんて行為をするだろうかとも思ったが、きっと彼女の中では、ライリスとピオニンは思いやりを持った優しいライオンということになっているのだろう。
晴明が受け取ると、間髪入れずに「じゃあ、今日も写真撮ろっか」と声をかけられる。筒井にスマートフォンを渡す仕草も、実に慣れたものだ。ちらりと見えたカバーには、やはりライリスとピオニンが描かれていた。
ピオニンの隣にユニフォームの女性、ライリスの隣にTシャツの女性が立つ。Tシャツの女性は、ライリスの横に来る前に軽くお辞儀をしてくれた。小さな背丈にショートボブが似合っていた。
「じゃあ、撮りますよ。はい、チーズ」
着ぐるみには横目というものがないから、Tシャツの女性がどんな顔をしていたかは、晴明には分からない。だけれど、、終わった後により深くお辞儀をしてくれて、嫌な顔をしていなかったことだけは伝わった。
四人は最後にもう一回握手をして、ライリスとピオニンは二人が待機列に戻っていくのを、少しだけ見送った。二人とも手を振ってくれていて、晴明の心はほんのりと温められる。
アクター部に入部した自分の決断は間違いではなかったと、感慨に浸りたくなる。
だが、すぐに次のグリーティングをしなければならない。
晴明は前を向いて、次のサポーターを迎える。首にライリスが描かれたタオルマフラーが、ぶら下げられていた。
頭部を脱がされると篭もっていた熱気が部屋中に広がって、冷房がかかっていない部屋でも、涼しく晴明には感じられた。
肩ひもを外して、ライリスを脱ぐ。シャツや下着がびっしょりと汗で濡れていた。
このままの状態で座るのもはばかられて、晴明は立ったまま汗が乾くのを待つ。着替えをもう一着持ってくればよかったと感じる。
隣では、まだ成がピオニンの中に入っていた。
晴明と成は、先ほどまで三〇分間の入場者の出迎えを行っていた。筒井が言うほどサポーターは気が立ってはおらず、ライリスとピオニンに手を振り、ハイタッチや写真撮影を求めてくれた。
前回のように素通りする人間もいるにはいたが、半数は二人に何らかのリアクションを示してくれて、晴明は溜飲が下がる思いがした。
止まっていることは許されず、常に何かしらの動きをして、ライリスを演じることは大変ではあったが、それに見合うだけの報酬がコンコースにはあった。
じっとしているのが一番だとは思いつつも、流れる汗がくすぐったくて、晴明は会議室内をうろつく。
そうしている間にも成はピオニンを脱いで、何食わぬ顔で汗を拭きながら、五十鈴と話している。
携帯式の扇風機が、短い髪を揺らしていて、その鮮やかさに晴明は目を奪われてしまう。
「使う?」と言われて、思わず首を横に振ったが、成は構わず持っていた扇風機を晴明に渡してくれた。顔に向けると、林の中みたいな心地よい風が肌に当たる。
羽が回る音さえも涼しさを提供してくれるようで、次に着ぐるみに入るときは、同じ型の扇風機を買ってこようと晴明は決めた。そうすれば、成に手で顔を扇がせる真似をさせることもないだろう。
「どうだった? 初めての出迎えは? みんな優しかったでしょ」
同じく立ったままで成が聞いてくる。シャツが汗で肌に張りついていて、晴明には直視しにくい。
恥ずかしさはあるけれど、顔を見て話すしかなかった。
「みんなではないですけど、反応してくれる人が多くて、嬉しかったです。暑くてきつかったですけど、そのおかげで何とか頑張れました」
「なら、よかった」
そう言って成は五十鈴と顔を見合わせる。二人とも平穏な目をしていた。
「ここのホームゲームは、私たちアクターにとっては、かなりやりやすい方の部類に入るから。多くの人が存在を知ってくれてるし、無視されることも比較的少ない。他のとこだと子供がパンチやキックをしてくることもあるんだけど、スタジアムではそれもあまりないしね」
「どうです、似鳥君。ライリスの中に入るのは続けられそうですか」
五十鈴の質問に、晴明は頷くことで答えた。
筒井と市村は他の仕事があるらしく、着ぐるみを脱がせたらすぐに会議室を後にしてしまった。今この部屋には三人しかおらず、誰もが穏やかな表情をしている。
「でも、似鳥。一時間近くライリスの中に入って疲れたんじゃない?」
晴明は一瞬考える。見栄を張るべきかどうかを。だけれど、身体が首を縦に振らせた。
「どうします? 五十鈴先生。似鳥にはちょっと休んでもらうっていうのは」
「確かに、似鳥君は着ぐるみの中に入るのはこれが二回目ですからね。慣れてないうちは、あまり無理をさせない方がいいのかもしれません」
隠すつもりもない声は、簡単に晴明に伝わる。五十鈴が晴明に向き直った。いかにも決心しましたという顔をしている。
「似鳥君、ちょっと悪いんだけど、少しライリスの中に入るのは休みましょうか」
「え、それって……」
晴明にはその言葉が呑み込めなかった。ためらいが口をついて出る。
「違う違う。似鳥の動きが悪いわけじゃなくて、無理して万が一のことがあったら困るってだけ。ピッチに出るのと、選手と一緒に入場するのは私がやるから。その代わり、ハーフタイムと試合終了後には、またライリスの中に入ってもらうから、似鳥はそれまで待ってて」
息はまだ荒いし、言われてみれば疲労で、気分も少し優れない気がする。きっと二人なりの心遣いなのだろう。晴明はそれを無碍にすることはできず、休むことを受け入れた。二人はほっとしたように息を吐く。
「あっ、でもただ待っているだけじゃ退屈だと思うから、落ち着いたらスタジアムの様子を見てくれば? どんな空気かを知るだけでも勉強になると思うから。それに、私がライリスに入っているところを外から眺めて、気になったことがあれば教えてほしいかな。もちろんずっとここにいてもいいんだけど、気が向いたら、ね?」
成は一応尋ねる形をとっているが、晴明にとってはやや強制に近い。しかし、会議室の外を歩くことにも興味はある。
「分かりました」。そう晴明が言うと、成は「じゃあ、よろしくね」とまるで決定事項かのように告げた。その場から立ち去る姿に、反論を挟む余地はない。
戻ってきた成は、弁当と緑茶を持っていた。晴明は礼を言いながらそれらを受け取る。一二時を過ぎて食べる昼食は、揚げ物の茶色が美味しそうだった。
ゲートをくぐると、視界がぱっと開けて青々としたピッチが目に飛び込んだ。上から見ると草の輪郭がぼやけて、緑色の絨毯のようだ。
左側の座席には赤いユニフォームを着た人々が集団となっていて、横断幕が所狭しと張られている。
晴明のいるメインスタンドにも同じ赤を身に纏った人がちらほら見える。収容率はそこまで芳しくなかったものの、見渡してみると、人が入ったスタジアムは期待が渦巻いていて、非日常の色が濃い。
晴明は息を吸い込んだ。五月とは思えない熱気が胸を満たして、疲労を隠した。
成からライリスは、中央の選手入場口から出てくると聞かされていた。
ピッチ中央の座席はロープで区切られていて、黄色いビブスを着たスタッフが立っている。だが、同じ黄色いビブスを着用していると、何も言わず通してくれた。
心なしかここに座る人々は、他の座席よりも年齢層が高い。そわそわしたスタジアムでも、比較的落ち着いている。
大型ビジョンの時計を見るに、ライリスの登場まではあと三分もない。黄色いビブスを着ている以上、座席に座ることは憚られたので、晴明は最前列に向かうことにした。
何人かのサポーターが、すでに手すりに寄りかかるようにして、ライリスの登場を待ちわびている。その中には先ほどグリーティングに参加してくれた女性の姿もあった。気温が上がってきたからか、アウターを脱いでTシャツ姿になっている。
細い腕の先にはスマートフォンが持たれ、ライリスのイラストが描かれたキーホルダーがぶら下げられていた。
こうしてみると晴明とは同年代のようだ。
たったそれだけの理由で晴明はそのTシャツの女性の横に、少し距離を開けて立った。Tシャツの女性は晴明を見ると少し驚いたような表情を見せた。
多くの視線が今、晴明に向けられている。それは自分ではなく、どちらかというと黄色いビブスに向いていると晴明は考えることにした。
ライリスはグリーティングや出迎えのときと、全く変わらない衣装で登場した。
腕を振って元気そうに歩き、声をかけられれば振り向いてポーズを決める。
晴明は成の一挙手一投足に目を奪われた。それはまさに愛嬌を振りまいているといった表現がふさわしく、スタジアムの雰囲気を、目に見えるほどに明るくしていた。
スマートフォンやカメラのシャッター音がいくつも聞こえてくる。ライリスへの盛大な拍手のようだ。Tシャツの女性も同様だ。
だが、晴明はカメラを持っていない。だから、網膜に焼き付けるつもりでライリスにじっと目を凝らした。一瞬、中の成と視線が合った気がした。さすがに指さすようなことは、されなかったけれど。
選手のウォーミングアップは、一三時一〇分からだ。今は一二時五〇分過ぎ。
ライリスは時間をかけてピッチを一周するようで、しばらくの間メインスタンド前に留まってくれていた。最前列のサポーターは相変わらずライリスに夢中で、飽きることなく視線を向けている。
賑やかなスタジアム。だが、その声はどれにもまして大きく、晴明の耳に飛び込んできた。
「ちょっと! もうライリス出てんじゃん! 莉菜なんで教えてくれなかったの!?」
晴明が振り向くと、先ほどグリーディングにも参加してくれた、ユニフォーム姿の女性が立っていた。
(続く)




