【第2話】足元をみてごらん
特別ゲスト。その言葉の響きに、体育館はにわかにざわめく。
誰か有名人を招いているのかと、ほとんどの学生が思ったことだろう。晴明もそのうちの一人だった。
だが、登場したのは人ですらなかった。
薄い黄色の身体に緑色の甲羅。でっぷりと膨らんだ胴体から、二本の短い脚が生えている。小さい歩幅でテクテクと歩くそれは、高校にはおよそ似つかない着ぐるみであった。パールのような黒い瞳。額には水色でKと描かれている。たぶん上総台のKだ。
それは短い手を振ってみたり、小さくとび上がってみたり、まるで幼稚園児みたいにはしゃいでいて、体育館には休日の遊園地にも似た空気が漂い始める。
陸奥の声も、分かりやすく明るさを増していた。
「本校のマスコットキャラクター、カメのトータルくんです。学校案内の表紙にも印刷されていたので、君たちもご覧になったことがあることでしょう。こう見えても二〇才で君たちよりも年上なのですよ」
トータルくんと紹介されたそのキャラクターは、頭だけでぺこりとお辞儀をしていた。
多くの学生は無関心だったが、唯一、桜子だけがお辞儀を返していた。
「本校が要請する学生像とは、まさしくトータルくんのような学生です。決してサボらず、怠らず、日々愚直に一歩一歩を積み上げていく。目標を達成する手段はそれしかありません。君たちもイソップ寓話の『ウサギとカメ』は知っているでしょう。君たちはカメです。正直に言えば、勉学面に限れば、本校よりも優れている学校はあります。言うならば彼らはウサギです。彼らが慢心している間に、君たちは勉学に励むことで、三年後にはより高いゴールに到達することができるのです」
力強く話す陸奥の横でトータルくんは、うんうんと頷いていた。
陸奥の話に適切なリアクションを取ることで、意図を出席者に伝える。気持ちの悪い思惑が透けて見えて、晴明は壇上に向ける視線に、若干の軽蔑を込める。
既に式辞が始まってから一五分が経過していた。
「また、トータルくんの名が示す通り、本校が掲げるのは総合力の高い人間の育成です。デジタルディバイスの普及により、現代は社会のボーダレス化が進んでいます。国境や人種の壁がなくなりつつある二〇年代、そしてその先の未来の主役は紛れもなく君たちです。世界に進出するうえでは、一つのことだけ秀でていてはなかなか上手くいきません。英語力はもちろんのこと、行動力や、対話力。論理的思考や協調性を伸ばすカリキュラムが本校の特徴です。我々教職員も全力で君たちに向き合うことをここに約束しますので、安心して高校生活を送ってください」
陸奥の言葉は、政治家が並べる大言壮語のように、晴明には聞こえた。
額面通り受け取った者が、果たして何人いただろうか。背筋を伸ばしたままの桜子さえ、その心のうちは分からない。晴明には壇上の二人が、怪しいセミナーの講師にさえ見えていた。
トータルくんを横に携えたまま、陸奥の式辞はもう五分ほど続き、保護者への呼びかけで締めくくられた。
礼をした瞬間に鳴った拍手は、決して賛辞だけではないだろう。少なくとも晴明の拍手は、当てつけ以外の何物でもなかった。
陸奥とトータルくんが去った後、教頭が桜子の名前を読み上げた。
すくっと立ち上がる桜子。しなやかに伸びた背筋に会場中の視線が集まるが、まるで意にも介していない。
壇上へと上がっていく桜子を、晴明は心配そうに目で追う。桜子はマイクの高さを調整してから、頭を下げた。周囲をかすかな笑みを持って見渡している。
視線が合ったとき、桜子は選ばれているのだと、晴明は今更ながらに感じた。
「草木も芽生え、桜の花も鷹揚に咲き誇る春爛漫の本日、私たち新入生一四八名は無事に、私立上総台高校の入学式を迎えることができました。先生方、先輩方、並びに来賓の皆様、本日はこのような素晴らしい入学式を行っていただき、誠にありがとうございます」
陸奥や来賓の、それはそれはありがたい祝辞に辟易していた空気が、一瞬にして桜色に塗り替えられる。
桜子は原稿を持たず、胸を張って堂々と言葉を発していた。桜子の溌溂とした声は、体育館を満遍なく揺らし、全員の心を掴んでしまったように、晴明には思えた。
他の誰にもできない、桜子だけの芸当だ。
「『ほら、足元をみてごらん これがあなたの歩む道 ほら、前を見てごらん あれがあなたの未来』。これは中学三年生のときに私が音楽祭で歌った曲の歌詞です。受験中の不安な時に、この歌詞が私を励ましてくれました。この先の高校生活でも全てが上手くいくことはないでしょう。耐え難い不安に押しつぶされそうになることもあるかもしれません。しかし、振り返ることはせず、しっかりと自分の足元を見つめて、前を向いて、先輩や先生方の協力も得ながら、一歩一歩進んでいくことを私たちは宣言します」
勝手に主語を大きくするなよ。晴明はそう感じたが、後ろからすすり泣く声が聞こえている。しかもいくつも。
桜子は後天的な魅力をもってして、体育館を自分の舞台に変えていた。
本人も気を良くしているのか、頬が紅潮している。座っている晴明からでも分かるくらいに。
「厳しさを増す勉学、そして部活動に情熱を傾け、三年間を充実させることができるよう全力で取り組んでいきます。先生方、先輩方、ならびに来賓の皆様、どうかご指導ご鞭撻のほどをよろしくお願いいたします。令和二年四月二日。新入生代表、文月桜子」
桜子が言葉を結んだ瞬間、体育館は大きな拍手で包まれた。先ほどまでの拍手とは明らかに性質が違う、心からの拍手だった。
盛大な拍手に迎えられる桜子の高校生活は、もはや成功が保証されたようなもので、晴明は可哀想だなと感じた。
自分が踏み外した道を、桜子が歩もうとしているのが、いたたまれなかった。
暖かな陽気のもと、入学式は続いていく。体育館に合唱部の歌声が、高らかに響いた。
テレビは九時のニュースを流している。東京オリンピックの代表がまた一人決まったらしい。
弾けるような笑顔でインタビューに答える選手を、晴明はステーキを口にしながら眺めていた。
テレビの横にはアンティーク調の本棚。トロフィーがいくつも、誇示するように置かれている。
晴明にとっては過去の遺物でしかなかったが、両親を満足させるためには、残しておくしかなかった。
「いいか、晴明。この人たちはその競技で、日本のトップに立った人たちなんだ。血の滲むような努力を重ねて、ようやく一番に上り詰めたんだ」
口にするのは、晴明の父親である似鳥冬樹である。背がすらっと伸びていて筋肉質。外資系企業で営業職をしているだけあり、放つ空気は爽やかで、香ってくるローズマリーの匂いは、とても四〇を超えた人間とは思えない。
満足そうにステーキを頬張っていて、その機嫌を損ねないためにも、晴明は「うん、すごいね」と心にもない返事をした。
次の言葉は、大体察しがついてしまう。
「あのな、お父さんが言いたいのはな、一番になることの重要さなんだよ。お父さんの企業は五年前に新規参入したばかりで、まだまだシェアは高くない。一番っていうのはな、それだけで人を惹きつけるんだよ。夜空だって最初に目に入るのは一等星だろ。お父さんはな、お前に一等星みたいに輝いてほしいんだよ」
やはりだ。冬樹は何かにつけて一番を強調したがる。小中高とサッカーをやってきたけれど、全国大会で準優勝しかできずに終わったからか。それとも、業界で最大手の会社の面接に落ちたからか。
劣等感を拗らせて、息子に理想を押し付けていると晴明は感じていた。
「お前が通っているのは、千葉で四番目の上総台なんだぞ。せめてその中では一番になれるよう頑張れよ。一番良い大学に入って、業界で一番の会社に入ることが、幸せへの近道なんだ。お父さんと同じような人生を歩む必要なんて全くないんだからな」
「ちょっと、お父さんそのへんにしとこうよ。晴明さっきから全然食べられてないじゃない」
助け舟を出したのは、母親の似鳥奈津美である。肌には張りがあり、でっぷりとした唇があでやかだ。
東京は丸の内にビルを構える有名企業で働いていて、その白い肌は生活に余裕がある証しだと、晴明は思っている。
晴明の体調を気遣う一方で、冬樹の思想も否定しない。立ち回りの上手さが、三八歳でプロジェクトリーダーになった秘訣なのだろうか。
「それより、入学式どうだった? 何か良いことあった?」
年度はじめで仕事が忙しかったらしく、二人とも入学式には来ていなかった。
答えたとして、場を持たせる以上の意味があるのか、晴明には疑問だったけれど、険悪な雰囲気にもしたくなかったので、とりあえず返事をしておく。
「サクとまた同じクラスになったよ。新入生代表で挨拶もしてた。合唱曲の歌詞を引用したりして、泣いている保護者もいたよ」
陸奥の話には触れなかった。聞き流すことに集中して、何も覚えていなかった。
ましてや、トータルくんのことなんて言えるはずがない。この二人はちゃんと話を聞くふりはするだろうけれど、心の中では一笑に付すに違いないから。
伝えた自分すらも笑われるようで、それが晴明には嫌だった。
「ああ文月さんちの子ね。良かったじゃない。あの子、明るいから。きっと晴明がクラスに馴染めるよう手伝ってくれるはずよ」
確かにクラスに馴染めるかどうか、もっと言えば浮いてしまわないかどうかは、今の晴明には最重要課題なので、その点では心強い。
だが、とにかく中位でいたい晴明にとっては、灯台のように目立つ桜子は、ありがた迷惑な存在でもあった。
「新入生代表で挨拶をしたってことは、文月さんちの子は試験でも一番成績が良かったんだろ? どこの大学に行きたいとか言ってるか?」
冬樹は的外れな対抗意識を燃やしている。晴明は飛び火しないように、「別に知らないけど」と距離を置くことにした。
「まあ、文月さんちの子はお前のライバルってことだ。いずれは打ち勝たないとな」
打ち勝つって、何にだよ。勉強で桜子の上をいけばいいのか。しかし、それで何になる。テストの点数が、将来の給料に直結するわけでもないというのに。
その言葉は晴明の喉にさえ達することなく、白米とともに飲みこまれる。晴明は両親に逆らう術を、既に失っていた。ナイフはぽっきりと折られたまま、ただ黙って、夕食を口にするだけである。
テレビは桜前線の模様を伝えている。東京でも桜が咲いたようだが、晴明の心は、ほんの少しも動かされることはなかった。
高校生活は二週目の金曜日に差し掛かっていた。
まだまだ学生たちの晴明への興味は持続していて、晴明はなかなか教室にいることができなかった。自意識過剰なのだろうが、クラスの誰もが自分の噂をしているように感じられて、居心地が悪かった。
「ちょっと話があるんだけど」
桜子に突然告げられたのは、そんな矢先のことだった。いったんは断ったが、桜子は強引に晴明を、西校舎の裏に連れ出した。理科室や音楽室が集中している西校舎は、放課後を迎えて騒がしくなる高校の中で、取り残されたように静かだ。
「ねぇ、そろそろ決めようよ」
重大な話のはずなのに、桜子の目は笑っていた。晴明は、少しばかりの畏怖を覚えてしまう。
「決めるって何をだよ」
逃げたくなる気持ちはおくびにも出さず、晴明は聞いた。桜子の唇が微笑む。
「部活」
その言葉に、晴明は拍子抜けした。他にもっと考えることがあるだろう。来週の月曜日にある小テストとか。
だが、桜子は笑顔のまま、自分を見下ろしている。
「ハルはさ、どの部活に入るのか決めたの?」
「どこにも入んねぇよ」
「入る余裕もないしな」と付け加えようとしたが、桜子の「えー、もったいない」という声に遮られる。演劇部で充実した三年間を送った桜子のことだ。成功体験が頭に沁みついているのだろう。
次の言葉が「ハル、もう帰宅部でいる必要ないんだよ。せっかくの高校生活なんだから、部活に入って思い出作らなきゃ」であることに、晴明は幼馴染みとはいえ、同じ人種とは限らないと思い知る。
「いいよ、面倒くさいから。人間関係とか。先輩後輩とか」
「まぁまぁそんなことよりさ、私気になってる部活あるんだけど、よかったらハルも一緒に入らない?」
聞いていない。桜子は少々マイペースなところがあるとはいえ、今日は特にひどい。
だが、この時の晴明は、桜子の異変に気づいていなかった。笑顔の奥の引きつった目に、気づくことができなかった。
「お前さ、一人だとどこにも行けないタイプだったっけ? 自分の服も自分で選べないような人間だったっけ?」
「別にそんなことないけど、その部活、新入部員が私しかいないっぽいんだよね。一人だとやっぱり心細いじゃん。だからお願い。私を助けると思って。ね?」
桜子は、膝を曲げて晴明と同じ目線になおる。頼み込むように語尾を上げられても、晴明は反応に困ってしまう。
けれど、目の前で手を合わせている幼馴染みを無下に扱うことも、晴明にはできなかった。
「その気になってる部活っていうのは、何部なんだよ」
「ああ、それはね……」
桜子が口にしかけた瞬間、「どーん」と言う声とともに、晴明の両肩に小さな手が乗った。
(続く)