【第3話】君を必要としてるから
「どーん」と言う声とともに、晴明の両肩に小さな手が乗った。
乗った手は紛れもなく、人間のものだった。晴明は思わず、後ずさりをしてしまう。
そこにいたのは、見たこともない女子だった。肩よりも長い髪が、ポニーテールに束ねられている。身長は晴明と同じであまり高くないが、目鼻立ちがくっきりとしていて、頬がうっすらと赤く染まっていた。
同学年にも見えたが、カバンの校章は晴明たちとは違う色で、それはすなわち、彼女が先輩であることを示していた。
「ちょっと、成先輩。あまりおどかさないでくださいよ」
成先輩と呼ばれた彼女は、「ごめん、ごめん」と笑う。反省していないのが丸わかりだ。こっちは心臓が飛び出そうになったというのに。
成は好奇心の赴くままに、晴明を観察している。桜子以外の女子と目を合わせるのなんて、いつぶりだろう。
晴明が考えているうちにも、成の観察は続き、やがて納得したかのように、「うん、OK!」と手を叩いた。
「似鳥晴明くんだよね。私、南風原成。よろしく!」
成は無理やり晴明の手を取って、振り回した。薄い手は想像以上に力強く、胸の奥で煮えたぎるエネルギーが表出していた。
「フミから話は聞いてるよ。いきなりだけど、君、演じることに興味はある?」
興味津々といった成の目は、晴明にとっては眩しすぎて、思わず目を逸らしてしまう。
だけれど、これも演技なのだろうか。だったら自分もと、晴明は興味のあるふりをした。
「それは演劇部ということでしょうか」
学校案内の部活紹介には、演劇部なんてなかったはずだが。もしかして今年から創部するのだろうか。
だが、成は笑ってかぶりを振った。
「違う違う。よく誤解されるんだけど、うちは演劇部じゃなくてアクター部。演じること専門の部活だから」
「それは、脚本を基に演じてみるということでしょうか」
「うーん。まぁだいたいそんな感じかな。即興も多いけどね」
なるほど。アクターという意味ならこの学校において、桜子以上の適任はいない。なにしろ経験値が段違いだ。
しかし、なぜ自分が勧誘を受けているのか、晴明にはイマイチわからなかった。もっと華のある人間は、他にもいそうなものだが。
「ねぇ。もし違ってたら悪いんだけど、君、自分のことあまり好きじゃないでしょ?」
失礼だと思わなかったのは、図星をつかれていたから。晴明は「い、いやぁ……」と、曖昧な返事をした。
「今の自分の状況にあまり納得がいってない。もっとできるという理想とはかけ離れた日々を送ってる。自分じゃなくて、別の誰かになりたいと思ってる。違う?」
心を見透かされたようだった。桜子はいったいどこまで喋ったのだろう。
ふと振り向くと、腰が引けていて、顔は無表情に変わっていた。晴明の記憶にはない桜子が、そこにはいた。
「演じるっていうのはいいよー。どんなキャラにだってなれるんだもん。年齢も性別も関係ない。君は中国の仙人にだって、アフリカの子どもにだって、炎を吐く怪獣にだってなれる。自分じゃない生き方を味わえるんだよ。君が望むなら、どんなばかげたハッピーな生き方だってできる」
成は晴明に顔を近づけて、じっと目を見つめていた。初対面の人間に対して、距離が近すぎる。
成にはパーソナルスペースという概念がないのだろうか。晴明はまた一歩後ずさりをする。
「でも、僕には演技経験がなくて……」
「そんなこと関係ないよ。演じている間は役になりきることができるの。それって嫌な自分を一時でも忘れることができるっていうことなんだよ。君だって、毎分毎秒自己嫌悪にのたうち回りたくないでしょ。それにサイズ的にも君には適性があるし、これほどないくらい君に向いている部活だと思うけど」
何を根拠に成がそんなに自信たっぷりに語っているのか、晴明には分からなかった。桜子に助けを求めようとしても、成の方を見るばかりで助けてくれる気配はない。
晴明は頭に浮かんだ思いのまま、口を動かした。それは逃げたいという感情だった。
「少し、考えさせてもらっていいですか」
「うん、分かった。でも、覚えといて。私たちアクター部は、君を必要としてるから」
ここ最近言われたことのない言葉が、晴明の胸に向かって飛んでくる。
そんなの上辺だけだ。晴明は跳ね返そうとしたが、言葉は心の表面に触れてゆっくりと溶けていく。
振り返ったら膝から崩れ落ちてしまいそうで、晴明は後ろを見ることなく、その場を後にした。残していった桜子と成がどんな顔をしているのかは分からない。それでも、悲しい顔をしていなければいいと、晴明は感じていた。
午後四時三〇分のきぼーる通りは、車がひっきりなしに行き交っている。下校時間になった小学生たちが話を弾ませながら、東西に散らばっていく。
市の科学館のそばを通りながら、晴明は考える。
必要としているなんて、昔はさんざん言われて、その度に飽き飽きしていたけれど、めっきり言われなくなった今にして思えば、とても珍しい言葉のように感じる。
甘い口説き文句だとは分かっていても、自分の気持ちが引っ張られているのを晴明は感じた。たぶん、人はこうして怪しい団体に引きずり込まれていくのだろう。
高校から離れる自分の足が、後ろめたさをまとっていることに気がついて、晴明は歩く速度を速めた。
千葉中央駅より少し南に位置する交差点は、スクランブル交差点になっている。晴明が差し掛かったときには、歩行者信号が赤に変わったまさにそのときで、長い時間を待たなければならなかった。
「ねぇ、君。似鳥晴明くんだよね」
声が聞こえたのは、晴明が向いているのとは反対方向からだった。そこには見慣れない男性が立っていた。
チェックのシャツが中肉中背の体躯に馴染んでいる。顔にこれといった特徴はなく、晴明がなりたい量産型大学生を絵にかいたような男だった。晴明が顔を向けると、男はスマートフォンを取り出して、SNSの画面を見せた。
「このツイートに映ってるの君でしょ」
それは、入学式当日、晴明と桜子を撮影した、浅薄なクラスメイトが投稿したツイートだった。リツイートはゼロに、いいねがひとつだけ。拡散も全くなされていない空気みたいなツイートだ。嫌悪感と同時に、よく電子の墓場から見つけてきたなと感心してしまう。
晴明はスマートフォンを取り出そうと、ポケットに手を入れた。男は焦った様子で、カバンを漁り、一枚の名刺を取り出す。
「ごめん、名乗りもしないで声かけちゃって。あの、俺こういう者だから。警察には通報しないで」
差し出された名刺を、晴明は片手でかすめた。そこには「週刊千葉 記者 有賀彩」と書かれていた。
女性みたいな名前だなと不審な眼差しで、晴明は睨む。
「千葉新報って知ってる? それに週一でついてくるタウン紙の記者をやってるんだ」
「知りません。親は日経しか読んでいないので」
そう晴明が言うと、有賀は厳しいなといった表情で苦笑をこぼした。自分より年上でも、背が高くても、明かりに引きつけられた蛾を見るような目で、晴明は有賀を見ている。
「俺、今年から入社したばかりでさ。今は情報収集の最中なんだ。でも、君のことは知ってるよ。知事に表彰されていたもんね。もしよければ、そこのスタバでちょっとお話を聞かせてもらいたいんだけれど、どうかな?」
ある時期、晴明は自分を取り巻くすべての大人を、敵対視していた。
晴明のことを自分の食い扶持としか考えていない、浅はかで配慮のない大人たち。年を重ねるにつれて少しずつ離れていったが、まだ集ってくる大人がいたとは。
有賀の指差す先は、駅横のスターバックス。
だが、晴明の視線は真っすぐ信号機に向いている。赤い目盛りは残り一つだ。
「すいません。違います。人違いです」
晴明は有賀を見ず、吐き捨てるように言った。
信号が青に変わり、駆け出す。追ってくる足音はなかった。
逃げるようにして、改札をくぐる晴明。名刺はそのままブレザーのポケットにしまった。
調子の良いときにだけ祀り上げて、価値がなくなったら叩きつけられる。一五才にして晴明はメディアを信じるに値しないものだと、決めつけていた。
卑怯な大人が、また一人増えた。それ以上の意味を有賀の登場は、晴明に与えなかった。
週が明けても、晴明の足取りは相変わらず重かった。苦手な数学の授業には早くもついていけなくなっている。
休み時間に本を読んでいても、視線に縛りつけられているようだ。
いくら目立ちたくないとはいっても、やはり孤独は堪える。すでに数人の友だちを作っている桜子を見ると、晴明は自分が何をしているんだろうという思いに、駆られるようになった。
教室のドアと同様に、家のドアもまた、ずしりと重い。まだ両親は帰ってきてはいないが、一人の時間は二時間もない。
晴明はリビングを通り過ぎて、自分の部屋に向かった。軽いはずのカバンから、課題を机の上に取り出す。
取り掛かろうと椅子に座ったが、数式は古代文明の文字みたいで、目を通しただけで晴明に混乱をもたらした。
地響きのような頭痛を感じ、晴明はふらふらとベッドに向かう。仰向けになると、眠気がモルヒネのようにじんじんとした痛みを和らげてくれて、気持ちが良かった。
次に晴明が聞いた音は、ドアが開く音だった。「ただいま」という声は冬樹のものだ。暢気に鼻歌なんか歌ってしまっている。
晴明は頭まで布団を被って、再び眠ろうとする。
だが、寝ようと意識を強めると、かえって目が覚めてしまって、気づけば布団から起き上がっていた。
カバンから数枚の紙きれを取り出す。ハサミで跡形もなく切り刻みたい生き恥を。
ドアを開けると、すぐに青かびのつんとくる匂いが、晴明の鼻に飛び込んだ。
冬樹は椅子に座って、赤ワインを傾けている。グラスを揺らすと、ブドウの熟成した匂いも届く。テーブルの上にはブルーチーズが三切れ。東京のチーズ専門店からわざわざ取り寄せているらしいそれは、冬樹の大好物だった。
好きなものに囲まれて、機嫌よさげな冬樹。晴明を見る目も、心なしか穏やかだ。
「父さん、おかえり」
「おお、ただいま。で、今日の小テストどうだった」
二言目にそれか。晴明は気落ちしてしまう。
冬樹が晴明の持っている紙きれを小テストだと気づいたのは、昨日PTA総会があったからだ。
出席したのは奈津美だが、ご丁寧にも教育方針の説明があったらしい。毎週月曜日に小テストを行い、学習の成熟度を計ります。そう馬鹿正直に学校は伝え、一言一句間違えずに、奈津美は冬樹に伝えた。毎週小テストの結果を見せなさいと言われたのが、昨日の夕方。晴明は頷くしかなかった。
どうせ怒られるなら早い方がいいと、晴明は変に開き直ってしまい、無言で五枚の小テストを冬樹に差し出した。
結果は惨憺たるものだ。三〇点から四〇点の間をさまよい、辛うじてよかった英語も五〇点と平均点に満たない。
補欠合格でまだ入学してから二週間しか経っていないので、簡単に差が埋まるわけがないのだが、冬樹はそうは考えておらず、大きくため息をついて顔をしかめた。晴明に再び向けられる目に、笑みはなかった。
「どうした? 調子悪かったのか?」
その言葉は気遣っているようで、晴明に責任があると明確にする。自分の教育は間違っていない。水面下に凝り固まった認識がうかがえた。
しかし、晴明は小さく頷いた。それは自分に非があると認めることと、同義だった。
「お父さんは、お前はもっとできる子だと思ってるから。昔みたいに、皆の前で輝ける子だと思ってる。まだ高校にも慣れていないだろうし、今回はしょうがない部分もある。次、頑張れよ」
少しブドウの香りをまとった「頑張れ」は、晴明を一太刀で斬り伏せた。
自分では頑張っているつもりなのに、むやみやたらにかけられる「頑張れ」以上に切れ味の鋭い言葉を、晴明は知らない。
真っ二つになった心をなんとか縫合し、立ち続ける。
「うん、分かった。次のテストではもっと点が取れるように頑張ってみる」
「ああ、間違えたところ重点的に復習しとけよ。あと明日の授業の予習も欠かさないこと。まずは目指せクラストップだ。お前ならできる」
いきなり中位をすっ飛ばして、トップを掲げるのが冬樹らしい。正解よりも、間違いが多いというのに。
晴明には乾いた笑いさえ出なかった。
霊に憑りつかれたような足取りで、自分の部屋に向かう。
部屋に閉じこもって、せめて勉強しているポーズだけでも見せようと、脳の上っ面が考えていた。
晴明は音を立てないようにゆっくりと小テストを丸め、ゴミ箱に捨てる。表面にあるとバレる恐れがあるので、適当にノートを数枚ちぎって被せるように捨てる。
しかし、数分後には晴明の身体はゴミ箱を漁って、小テストを取り出していた。くしゃくしゃになった小テストには赤いバツだけがやたら目立って見える。
晴明は破けないよう丁寧に広げて、カバンから教科書を取り出して机に向かった。
見た目では勉強しているはずなのに、晴明の脳に知識は全く入っていかなかった。文字列を目で追いながら、こんなとき他の学生は、どう気を紛らわしているのだろうかと考える。SNSにでも愚痴るのだろうか。
しかし、晴明のSNSは、両親に監視されている。ツイッターもフェイスブックもインスタグラムも全てだ。何を投稿してもいいねがつく。恐怖でしかない。
きっと弱音を吐いた暁には、怒涛のリプライが飛んでくるのだろう。鍵をかけるという選択肢もあったが、自分の部屋には鍵をつけてくれて、絶対に入らないようにしてくれている両親を、これ以上締め出すことは晴明にはできなかった。
よって、晴明のSNSは、どうでもいい報告を垂れ流すだけにとどまっている。それでも少しのいいねはつくのだが。
それに、ラインも三人しか登録していない。両親と桜子のみだ。
そうだ、桜子がいた。
晴明は今頃になってようやく思い出し、ベッドの上にあるスマートフォンへと駆け寄った。
ラインを開いてメッセージを打ち込む。両親には決して言えない言葉。
桜子が、伸ばした手を掴んでくれることを切に願った。
(続く)




