【第19話】私は諦めませんから
「うっしゃー、ようやく一日目終わったー」
玄関を出るなり、桜子は大きく伸びをした。隣に立つ晴明とのアンバランスさはより際立つ。校門へと続く道には、緊張感と解放感が混合した空気が流れている。
桜子が上機嫌に歩き出すので、晴明もそれに続いた。
「テスト思ってたよりも難しかったよねー。特に古典とか。ハル、大丈夫だった?」
「まあ何とか。サクが教えてくれたところばっか出たし。サクの方はどうだったの?」
「私? 私はまあできたと思うよ。特にひっかかるところもなかったしね」
桜子は、晴明の前では謙遜をしたことがない。いつもありのままを伝えてくれる。
その正直な態度が、かえって晴明にはありがたかった。
「前々から気になってたんだけどさ、サクはどうしてテストで出るところが分かんの?」
「うーん、授業を聞いてれば何となく分かんない? 先生の口調がちょっと強いから、ここは重要なとこだなとか。あと流れ? みたいなものがあるんだよね。前後の文脈からここはポイントだなって思う」
晴明にはさっぱり分からず、ただ「そうなんだ」と答えることしかできない。
おそらくそれは天性と呼ばれるものなのだろう。桜子は大体のことにおいて要領が良い。羨ましすぎて、晴明は思わずため息をついた。
桜子はそれを安堵と受け取ったらしく、
「ハル、まだテストは終わったわけじゃないんだよ? 今日も図書館で勉強するんでしょ」
と釘を刺してきた。それでも、目つきは全く鋭くない。むしろ、笑みを浮かべてすらいる。
勉強を教えることが負担になっていないようで、晴明は今度こそ安堵を感じながら、「ああ、頼むわ」と答えた。
「ちょっとあれ、成先輩と佐貫先輩じゃない?」
桜子が立ち止まって、声を発した先には確かに二人がいた。小柄だが、知り合いならすぐに見つけられる。
二人は少し何かを話すと、校舎の角を曲がって消えていった。文化部の部室棟がある方角だ。
「ねぇ、ハル、先輩たちがどうするのか気にならない? ちょっと行ってみようよ」
先ほどまでの忠告は、どこへやら。桜子の目には野次馬根性が覗いている。
「早く行って勉強しないと」と晴明が反論しても、桜子は聞く耳を持たず「いいからいいから」と押し通しそうとする。
最終的には、晴明は自分の抱く興味に負けて、桜子と一緒に二人の後をついていくことにした。
佐貫と成は小さい歩幅で、それでも早足で歩いていた。しかし、桜子の普段の歩行速度と大して変わらないので、晴明と桜子が引き離されることはない。校門前のざわめきも功を奏し、気づかれることなく尾行することができた。
角を曲がるたびに、隠れて距離をうかがう。部室棟の角を、佐貫と成は右折して立ち止まった。校庭に面していたが、今は誰も練習しておらず、校庭を囲む道路は人通りも少ない。
二人は部室棟の前で、向き合っていた。終業を告げるチャイムが鳴っても、喧騒は止まずに聞こえてくる。晴明と桜子は息を押し殺し、気づかれない程度に頭を出す。
片目で見た二人は、雪原にいるようにひっそりと佇んでいた。
やがて、成が口を開く。いつもあっけらかんとしている成にしては、やたらと声が小さく、まるで寝ているペットに囁くようだ。
雑踏が勝って、晴明と桜子の耳には入ってこない。
返す佐貫も腹話術の人形みたいに口を動かすだけで、二人が何を喋っているかは全く分からない。
涼しくなってきた空気が、場の重苦しさとともに晴明の肌をチクチク刺す。見てはいけないものを見ているみたいで、思わず顔を背けてしまう。
見上げると桜子と目が合った。怪訝な表情をしている桜子に、自分も同じような顔をしているのだろうと、晴明は感じた。
もう一度、そっと顔を出してみる。佐貫と成は話し続けているが、相変わらず内容までは伝わってこない。佐貫が首を横に振ると、成はがっくりと肩を落とす。
だが、思い直したように顔を上げて告げた。
その声は、覗き見ている二人にも届く。
「それでも、私は諦めませんから」
声が波となって周囲に拡散されていく。晴明は思わず声を上げそうになったが、すんでのところで堪える。
成は体の向きを変えて、晴明たちから遠ざかるようにして去っていった。
顔を引っ込める晴明。罪悪感に胸を押さえると、呼吸が速くなっていることが分かった。桜子も同じようにして、鼻で息をしている。
成の足音が完全になくなるのを待って、晴明たちはもう一度だけ顔を出す。佐貫は校庭を見て立ちすくんでいた。その手は握られていて、小さな横顔には、晴明が今まで見たことのない表情が浮かんでいた。
「何があったんですか」と聞きたい気持ちもあったが、見つめていると気づかれそうだったので、晴明たちはそっと顔を引っ込めた。
そして、駅へと向かう道の途中で、桜子と「先輩たちには秘密にしよう」と決めた。
高校生になって初めてのテストは、晴明にはやたらと短く感じた。二日かけた中間テストが終わると、部活の再開だ。
晴明と桜子は、以前と同じように練習に出て、それぞれのメニューをこなしたが、佐貫や成に会うと、ほんの少しだけ遠くにいるように感じてしまっていた。
それでも、一週間はあっという間に過ぎていき、金曜のホームルームが訪れる。入室してきた植田の手に、紙の束が握られているのを見て、教室はにわかに騒がしくなった。
席に着き、諫める植田。誰が見ても次の言葉は明らかだった。
「お前ら、高校に入って初めてのテストはどうだったか。中学のときよりも難しかっただろ。ウチの学校は模試も含めて毎月テストがあるからな。今回のテストの成績が良かった者も、そうでなかった者も、気を抜かずにこれからも勉強を続けろよ。では、今回のテストの成績表を返すから、名前を呼ばれた者は取りに来るように」
教室に緊張が走る。テスト自体はそれぞれの授業で返却されているから、結果自体は知っている。
だが、成績表には平均点と学年での順位が記載されているらしいと、クラス中の噂になっていた。一五才はまだ人との比較、相対的地位を心の拠り所にしている。気にかけてしまうのも無理はない。
次々と学生に成績表が渡されていく。その度に緊張は少しずつ解けていき、成績を確認し合う声も増えていった。植田は時々騒ぐ生徒に注意をしながら、生徒を呼び続けた。
悲喜こもごもの表情を見ているのが怖くて、晴明は机の木目をじっと見つめていた。
「似鳥」
名前を呼ばれ、恥ずべきことはないのに、晴明は俯いたまま教壇へと向かった。教室中の目が自分に向けられている気がする。だけれど、たった数一〇秒の我慢だ。
晴明はおずおずと顔を上げる。
植田の目が微笑んでいた。
「よく頑張ったな」
労いの言葉とともに成績表を受け取る。外からは見られないよう折られていて、表紙にはクラスと出席番号、それに名前しか書かれていない。「ありがとうございます」と呟いて席に戻った。
席に着き、屈んだ姿勢でゆっくりと成績表を開く。数字がずらりと羅列していた。目を凝らすと今にも立ち上がって飛び込んできそうだ。
それでも、晴明は数字の並びを目で追った。黒一色で、ひどく味気ないが、目を引く色は一つもなかった。
「ハル、やったじゃん」
見上げてみると、桜子が成績表を手に持ったまま口元を緩ませていた。他の誰にも見られたくないのに、桜子にだけは見られてもいいと晴明は感じた。
顔を上げて、小さく返事をする。
窓の外は、家々の輪郭がはっきりとしていた。
練習を終えて家に帰ると、時計は七時三〇分を回っていた。玄関に立つだけで、クリームソースの香りが漂ってくる。漏れ聞こえてくるテレビの音は、いつもの旅番組だ。
自分の部屋で飾り立てのない部屋着に着替えて、成績表を持ってリビングへと向かう。
改めて「ただいま」と告げると、冬樹と奈津美は、晴明の手に一枚のプリントが握られているのを見て、テレビを消した。
無言になったリビングに、オーブンの稼働音が流れてくる。今日の夕食はグラタンのようだ。
「ちょっと、見てもらいたいものがあるんだけど」
晴明が意を決して発すると、二人は頷き、ダイニングテーブルへと向かった。すれ違いざまに息も呑めないほどの緊張が走る。
二人は椅子を引いて座ると、晴明にも席に着くよう促した。暖房のいらない季節になって、静寂が晴明の動きを重くする。
おずおずと座り、テーブルの上にプリントを置いた。
「これを読んで」
二つ折りにされたプリントの表紙には、「成績表」と書かれている。
冬樹がそっと手に取り、奈津美と一緒に覗き見た。あごに手を当てる冬樹。天井の照明に照らされて、記載された数字が透けて見える。
オーブンの稼働音が心を逸らせて、晴明は膝の上でこぶしを握った。二人は黙って成績表を眺めている。胃の痺れが喉にまで伝わってきて、晴明の吐き出す言葉は、細かな震えを帯びていた。
「ど、どう……。平均超えたよ……。これで部活を続けてもいいでしょ……」
晴明の中間テストの合計点は平均よりもわずかに二点高かった。生物や数学が足を引っ張ったものの、現代文や日本史で巻き返し、上々の結果を収めていた。順位も一八二人中八八位だ。最高とはいかないまでも、提示された条件はクリアしている。
奈津美が冬樹にどうしたらいいかを尋ねている。寒くないのに、冬樹は一つ咳ばらいをしてから告げた。
「分かった。部活を続けてもいい。お前が努力して掴んだ成果だからな」
膝が震えた。立ち上がりたくなったが、晴明はすんでのところで堪えた。代わりに胸の中でガッツポーズを作る。
また明日からも部活に参加することができる。
そのことが今の晴明にとっては、自分でも驚くほど嬉しかった。オーブンがチンと音を立てる。
焦げたチーズの匂いが漂い始めたが、冬樹の口調は緩むことはなかった。
「ただし、この成績を下回ったら、先生も交えて相談させてもらう。平均点は最低条件だ。あくまで本番は三年後の受験だからな。そのことを忘れるなよ」
まだ完全に危機は去ったわけではない。冬樹の目は満足していなかった。
それでも二か月間の猶予を得ただけで十分だ。
晴明は頷いた。長い戦いのまだほんの始まりに過ぎないとしても、一つずつ乗り越えていくしかない。
「晴明、よく頑張ったね。あんなことがあっても、お母さんはずっと冬樹はやればできる子だって信じてたから嬉しいよ。これからも勉強と演劇部、頑張ってね」
その言葉に晴明は心臓を掴まれる。まさか奈津美の口から、演劇部という言葉が出るとは思っていなかった。考えてみれば当然なのだが、予想だにしない言葉は矢のように晴明を刺す。
「う、うん」と煮え切らない返事しかできない。たぶん顔は笑えていないだろう。
「じゃあ、そろそろご飯にしようか」
冬樹が成績表を晴明の手元に返す。晴明がリビングの机の上に置いて戻ってくると、席の前に冷えた紅茶が置かれており、帰ってきてからまだ何も口にしていないことに、はじめて晴明は気がついた。
コップを持って半分ほど飲むと、いつもより酸味が強い気がした。
テーブルの上では、グラタンから盛大に湯気が立ち上っている。火傷しそうなほど熱いそれは、晴明の好物の一つだった。
「もうすぐ時間だ。今日はこの辺で終わりにしよう」
ほの暗い西校舎裏。佐貫が歩み寄ってきて、晴明と成に呼びかける。二人は元気よく応じた。
西校舎の裏には照明がないため、アクター部の活動時間は季節によって異なる。中間テスト明けからは日没が遅くなったのに合わせて三〇分延びた。冬のことを考えると、晴明は少し物憂げになるが、自ら選んだ道なのだから仕方ないと言い聞かせる。
それでも、頭上の教室から黄色がかった光と、トランペットの音色が聞こえてくると、心の隅では羨ましいと感じてしまう。
渡を含めた四人は、校庭を横目に見ながら部室へと戻っていく。照明に照らされて、野球部やサッカー部はまだ練習をしている。運動部で上総台高校の名前を聞くことは、まずない。
彼らの努力が明後日の方向に向かっていないか、晴明は見ていて心配になる。人のことを言えた身分ではないが。
「似鳥、アイソレだいぶ上手くなったじゃん。最初は他の部分も一緒に動いていたけど、着実に減ってきてる。いい傾向だよ」
隣を歩く成の声は、上からの合唱部の歌声にも埋もれることがない。
晴明が縮こまりながら礼を言うと、成がにこやかに笑った。
「体幹トレーニングも最後までできるようになってるし、すごい進歩だよ。もしかして、家とかで練習してる?」
晴明は頷く。ゴールデンウィーク以降、一回も着ぐるみに入っていないので、時間はあった。それに、渡が公園で走る姿を見てからは、自分の部屋で密かに練習をしている。姿見があるので、ちょうどいいのだ。
そのことを成に伝えると、「そっか、頑張ってんだね」としみじみ口に出してくれる。
こんなに親身になってくれる先輩は、他にいないのではないかと思うほど、成の声色は優しかった。
「まあでも言うところがあるとすれば、重心の移動かな。今日、空気椅子に座る動きやったじゃん。似鳥の動きは顔が正面を向いたままだったのね。でも実際は、椅子に座るときは、一度顔が斜め下を向くはずだから。腰の重さを軽減するために、そうやって重心を前にずらしてるの。姿見あるなら帰ったら確認してみて。そこを意識できればもっと良くなるから」
アドバイスに晴明は再び頷いた。合唱が止んで、代わりにバットの快音が聞こえてくる。
「あ、あと似鳥に伝えておきたいことがあったんだけど……」
成が珍しく声をくぐもらせる。前を歩く佐貫に「これ言っていいんでしたっけ?」と確認さえしている。
まさか先週の放課後のことだろうか。自分から明かすのか。
佐貫が軽い返事で許可を出す。晴明は思わず身構えた。
「似鳥、ゴールデンウィークにハニファンド千葉のライリスに入ったじゃん」
想定外の質問に晴明は、呆気ない返事しかできなかった。何食わぬ顔で成が続ける。
「前回はピンチヒッターだったんだけど、今度から正式に入ってくれないかって、この前筒井さんに言われたの」
「え? 僕がですか?」
「そう。前までライリスに入っていた笹川さんとこの前ようやく連絡取れたんだけど、もうスーアクの事務所辞めてたの。最近は、私が代わりにライリスに入ってたんだけど、それだと今度はピオニンが出れなくなるじゃない? クラブとしてはやっぱり二人いた方が、見栄えが良いみたいで。でも、スタッフさんは今の仕事でいっぱいいっぱいだから、似鳥に頼めないかって。筒井さんはそう言ってた」
「それは一回限りじゃなくて、ずっとということでしょうか」
「うん、少なくともシーズンが終わるまでは、入る人を固定したいんだって」
以前、フカツ電器スタジアムを訪れたとき、会議室にはハニファンド千葉のポスターが貼ってあった。
そこには一二月までの日程が書かれていたのを、晴明は今になって思い出す。
「いや、でも僕なんかでいいんでしょうか。まだ一回しか入ったことないのに」
「似鳥、こっち向いて」
その言葉に、自分が俯いていたことを晴明は知る。成の視線は鋭く、校舎が霞んで見えた。
「自分なんかって言わない方がいいよ。確かに今回は消去法的な指名だけど、頼んでくれた人に失礼でしょ」
「そうだぞ、似鳥。チャンスは何回も与えられるものじゃない。それにお前だって先輩になったときに、後輩に手本を見せられなかったら困るだろ。まずは入ってみて、どうしても無理だったら、すいませんって断ればいい。その後のことは俺たちが考えるから、な?」
佐貫にまで念を押される。念のため晴明は振り向いて、渡を確認したが、無言で頷かれるだけだった。
それにチャンスを掴めずに、涙を流す人間を晴明はこれまで何人も見てきた。
運よく機会に恵まれてきた自分が、その残酷さに耐えられるとは思えない。
「分かりました。ライリスに入ります」
そう宣言すると、佐貫は安心したように息を吐き、成はそっと晴明の背中に手を触れた。晴明はそれを激励と受け取った。
部室棟はもうすぐそこまで見えている。ドアの隙間からちらちらと明かりが漏れている。
「うん、似鳥ならそう言ってくれると思ってた。じゃあ、次のホームゲームは土曜にあるから。また詳細は追って説明するけど、心の準備だけはしといて」
成は晴明の背中を力強く叩くと、女子更衣室のある体育館へと向かっていった。じんじんという背中の痛みが、晴明をかすかに勇気づける。
佐貫がドアを開けると、泊と桜子が話し合っていた。
晴明が入って来るやいなや、桜子がほっとしたような顔を向けてくる。
机の上のノートは、隙間がないくらい文字で埋め尽くされていた。
(続く)




