【第14話】どうか人助けだと思って
関係者受付の前には、警備員が立っていた。五十鈴が事情を話し、晴明と桜子は黄緑色のビブスを受け取った。バックヤードにいる間はつけておく決まりらしい。
スタジアムの廊下は節約のためか、蛍光灯がほの白く瞬いていて、昼なのに少し薄暗かった。
四人は会議室2と書かれた部屋に入る。
机や椅子は一つを除いて端に寄せられていて、ブルーシートの上にいくつかの着ぐるみが置かれていた。先ほど説明を受けたライリスやピオニンの着ぐるみもある。
部屋を晴明が見渡していると、一人の女性スタッフが四人に近づいてくる。成より少し背が高いくらいのその女性は、丁寧な口調で接してくれた。
「五十鈴先生、南風原さん、おはようございます。今日は一週間ぶりですね」
「こちらこそ、おはようございます。ハニファンド、今あまり調子よくないみたいじゃないですか。今日もアウェイで一四時から試合ですよね」
「はい、試合のことは気がかりですけど、選手や監督を信じるしかないので。きっと勝ってくれると思ってます」
「ところで」。女性が二人の方を向く。桜子の高身長に目を見張っていた。
「こちらの二人はアクター部の方ですか?」
「はい、四月に入部したての新入部員です。男の方が似鳥で、女の方が文月といいます」
紹介されると同時に、二人は小さく頭を下げた。女性が侮る目つきで見ていないことに、晴明は安心する。
成は今度は二人に向かって語りかけた。
「こちらの方は、千葉のクラブ職員の筒井さん。いつもはホームタウン担当で、ライリスやピオニンのアテンドをしてくれているの。他に市村さんっていう男の人もアテンドについてくれるけど、今はいないみたいだから、とりあえず筒井さんにだけでも挨拶してね」
二人は順番に改めて名乗って、再び頭を下げた。耳を澄まさなくても、スタジアムの外から音漏れが聞こえてきて、急がされるようだった。
「えっと、お二人は今日何をするかは、五十鈴先生や南風原さんから聞いてますか?」
「チラシを配ったり、試合の宣伝をしたりですよね」
桜子の返事は間違っていなかったらしく、筒井は穏やかな顔で頷いている。
「大体そうですね。チラシはあちらのテーブルの上にあるものを配っていただいて、声かけは『千葉市のサッカークラブ、ハニファンド千葉です。GOOD WILL FESTIVALが終わった翌日、五月の六日にここフカツ電器スタジアムで試合があります。よろしくお願いします』みたいな感じでお願いします。あと、そうそうこれ……」
机の下の箱に向かっていく筒井。取り出したのは、真っ赤なユニフォームだった。胸には聞き慣れたメーカーのロゴが入っていて、その下に「12」と白文字で番号が印刷されている。
「宣伝するときは、こちらのレプリカユニフォームを着ていただくようお願いします。これだと一発でハニファンドだって分かってもらえますから」
ユニフォームに袖を通すなんて、それこそ日本代表のような漠然としたイメージしか晴明にはない。来たときの自分を想像すると、なんだか胸の奥がこそばゆい感じもした。
「じゃあ、最初にフミから着替えよっか。ちょっと似鳥には申し訳ないんだけど、少しの間外で待っててくれる?」
特に反論する理由もなかったので、晴明は成の言葉に従い、一旦会議室の外に出てドアを閉めた。スマートフォンもないので、適当に数を数えて時間を潰す。
すると、うっすらと斜め前の男子トイレから。人が出てくるのが見えた。小柄なその男は無地の黒いTシャツと紺のチノパンという地味極まりない格好だったが、以前どこかで見た顔つきだと、晴明は感じた。
男も晴明に心当たりがあるようで、近づいてきて顔を見るなり、こう言った。
「あの、間違っていたらすまないんですけど、似鳥さんですよね……?」
記憶を辿ってみても、名前までは晴明には思い出せない。だから肯定する声も自然と小さくなってしまう。男もそれほどには距離を詰めてこなかった。
「あの、覚えてないですか。俺、樺沢です。先週、映画館でツイッターをフォローし合った」
小さい背をより縮こまらせて、バツが悪そうに告げる樺沢を見て、晴明はようやく思い出した。髪が短くなっていたから忘れていたなんて失礼すぎる。
「上の名前は分かってたんですけど、下の名前が出てこなくて」と変にごまかしたが、樺沢はそれほど気にしていないようだった。ドアノブに手をかけて引こうとする。
「あの、こちらの会議室に何か用ですか?」
「はい、トイレも済んだしもう戻ろうかと思って」
「今開けない方がいいですよ。女子が着替えてるんで」
「それってもしかして、先週似鳥さんと一緒にいたユーリさんですか?」
晴明は頷く。樺沢がドアノブから手を離すと、二人の間を気まずい空気が覆った。色とりどりのビブスを着た人が何人も廊下を行き交っている。歓声がスタジアムの外から伝わってきた。
「さっき、こちらの部屋に戻るところだって言ってましたよね。この部屋って着ぐるみと、中に入るアクターさんの控え室なんですけど、樺沢さんはこちらにどういった用があるんですか」
「ああ、俺入るんです。着ぐるみの中に。蘇我駅前商店街の〝そが姫〟っていうキャラクターなんですけど知ってます?」
発せられた言葉に、晴明は目をしばたかせた。キャラクターは知らないが、問題はそんなことではない。
さらっと言ったが、まさか樺沢が似たような活動をしているとは。確かに黒いTシャツは光を反射せず、中が見えにくいことから、着ぐるみの中に入るときは推奨されているし、晴明よりも背の低い樺沢は体格的な条件も満たしている。
いや、それにしてもだ。にわかに信じられず、晴明は思わず聞き返してしまう。
「え? 着ぐるみの中に入るんですか?」
「そうですよ」
「それって、部活でってことですか? それともアルバイトですか?」
「着ぐるみの中に入る部活は、ウチの高校にはないですよ。どっちかっていうとアルバイトの方が近いかもしれませんね。スーツアクターを斡旋したり、養成したりする会社が東京の方にあって、俺そこに登録してるんです」
「え? それって、毎週着ぐるみの中に入ってるってことですか?」
樺沢が反応を返すよりも前に、ドアの向こうから成の「入ってきてもいいよー」という声がした。
樺沢は微笑を浮かべながら、頷いてみせる。そして、ドアノブを引く。ドアはあっけないほど簡単に開いた。
晴明の目には、驚いた顔をした桜子が留まる。樺沢は成や筒井と親しげに話している。
口を開けたまま状況が呑み込めていない桜子の隣に立ち、晴明は事情を説明した。説明を受けても、まだ桜子は完全に納得がいっていない様子で、直接話そうと樺沢のもとに向かっていく。
一人取り残された晴明は、ぼんやりと窓の外を眺めた。青々としたピッチの、草の一本までくっきりと見えていた。
時計の針は一一時五〇分を回ろうとしていた。晴明は赤いユニフォームに着替え、桜子と一緒に提供された弁当を食べていた。
一足早く食べ終わった成が筒井と話している。二人とも顔が険しく、会話の雲行きはあまり良くなさそうだ。
「笹川さんまだ来てないんですか?」
抑制を知らない成の声は、部屋中に広がる。ベストを着用しようとしている樺沢さえも、顔を上げていた。
成の右足が小刻みに揺れていて、焦燥が見てとれる。そういえば、集合した時に言っていた大人のスーツアクターらしき人間は、まだ姿を見せていない。
「いつもだったら出番の三〇分前には来るはずなんですけど、今日はまだ来てないですね。携帯にも出てくれないですし、会社の人に連絡してもつながらないって言ってました。どうしたんでしょうか」
やはりスーツアクターが来ないことで、二人とも焦っているようだ。転換の時間なのか音楽は聞こえてこず、いっそう部屋の雰囲気を急かす。
晴明はとりあえず弁当を食べ進めようとしたが、ご飯がのどに詰まってしまって、思わずむせてしまった。
だが、二人は晴明を気遣うことはしない。事態は相当急を要しているようだ。
「とりあえず、一二時まで待ってみましょう。もしかしたら向かっている途中なのかもしれないですし」
筒井は腰に付けた無線機に話しかけている。受付とつなごうとしていたが、いい返事はなかったようで、首を横に振っていた。
樺沢は着ぐるみの胴体を着始めている。
晴明と桜子にできることは、弁当を食べ終えることしかなかった。
そのまま一二時を一〇分過ぎても、笹川なる人物が現れることはなかった。
そが姫に入った樺沢はアテンドに連れられてもう部屋を出て行ってしまったし、筒井は何度も電話をかけていたが、応答はない様子だった。成が部屋の中をぶつくさ言いながら動き回っている。
晴明と桜子はただ立ち尽くして、状況が好転するのを待つしかなかった。何もできないもどかしさが、歯に詰まってむずかゆい。
「どうします、筒井さん? もう時間ありませんよ」
「こうなったらピオニンだけでも出るしかないんじゃないでしょうか」
「とはいっても、ハニファンドのメインマスコットはライリスですし……」
手を無造作に動かしながら、落ち着かない様子で辺りを見回す成と、晴明は目が合ってしまった。
成がずんずんと近づいてくる。良い予感はあまりしない。
「ねぇ、似鳥。今日さ、体調は大丈夫?」
後に続く言葉を晴明は察していたが、顔をぐっと近づけてくる成の迫力に押されて、思わず頷いてしまう。
成の手の動きが止まった。そして、上目遣いを見せながら言う。
「だったらさ、ライリスの中に入ってくれないかな。今日だけでいいから。お願い」
予想は当たってしまった。桜子も筒井もいなくなり、晴明は成と二人だけの空間に連れていかれた気がした。
すぐに答えられるわけもなく、口ごもる。成はそんな晴明の態度を見透かしたように、言葉を続ける。
「まだ慣れてないのは分かってる。でも、今ライリスに入れるのは似鳥しかいないんだよ。それにアクター部としてやってくには、遅かれ早かれ人前に出なくちゃいけないし、いい機会でしょ。大丈夫だって。似鳥ならやれる」
「でも、南風原先輩がライリスに入るわけにはいかないんですか」
「ピオニンはライリスより少し小っちゃい設定なの。だから私が入ると、ピオニンに入る人がいなくなっちゃう」
「ね? 入ってくれるよね?」。そう言わんばかりに、成がじっと見つめてくる。目線を逸らしても、ブルーシートの上のライリスの着ぐるみが目に入って逃げられない。
畳みかけるように筒井が、離れた位置から声をかけてくる。
「似鳥さん、私からもお願いします。今日はハニファンドにとって大切な機会なんです。できれば二人で出したい。どうか人助けだと思って、何卒」
二人分の懇願を受けると、断りづらさは倍増どころではない。
確かに成の言う通り、ここでスーツアクターとしてのデビューを済ませてしまった方がいいのかもしれない。一度人前に出てみれば、次に出るときはいくらか気持ちも楽になるだろう。
晴明は反抗する自分を無理やり押し込めて、横たわるライリスを見ながら決意を固めた。
「分かりました。ライリスの中に入ります」
口にした瞬間、成は勢いよく晴明の手を掴む。「ありがとう」という言葉が、強く握られた手の感触とともに伝わってくる。もう引き返せないと知った。
「じゃあ私の替えの黒シャツとタオルを貸すから、ちょっときついと思うけど早く着てね。あとベストに入れる保冷材も用意してもらってるから、ありがたく使って。今、筒井さんが市村さんを呼んだみたいだから、来たらすぐに着ぐるみを着るよ。それじゃあ、はい! 準備開始!」
成が手を叩いて、弾かれたように自らのリュックへ駆け出す。投げられた黒いTシャツを受け取って着ると、気持ちが昂るような感覚が晴明になだれこんた。
着ぐるみを着終わると、トータルくんの時とは違う緊張感が、晴明の周りに漂った。今日は人から見られる。自分が入っているなんて誰も知らないのに、いざ人前に出ると誰からも見透かされそうな気がする。
「頭上げてください」という筒井の声が聞こえて、自分が肩を落としていることを知る。
重い頭を上げると、筒井は口元に小さい笑みを浮かべていた。
筒井に連れられてスタジアムの外に向かう。廊下をぺたぺたとフェルトの靴が踏みしめる。
外に出ると、高く上がった太陽がライリスを照らして、着ぐるみの中の温度が一段と上がった。絶好の行楽日和だが、もう少し涼しくてもいいのに。晴明の脇には、早くも汗がにじんでいた。
筒井と市村が声を上げて、動線を確保しようとしている。そのおかげで、入り口に着くまでに晴明は誰にもぶつかることなく、スムーズに歩くことができた。足元が見えないことは依然不安だが、二人はいずれも慣れているようで助かる。
横を向くと、ピオニンの顔が見えた。心なしか笑いかけているように見えるのは、目元のまつ毛のおかげだろうか。
「千葉市が本拠地のサッカーチーム、ハニファンド千葉です。GOOD WILL FESTIVALの翌日、六日にここフカツ電器スタジアムで試合があります。よろしくお願いします」
桜子も含めた三人の声が、触れられることもなく通り過ぎていく。少しでも早くステージに着きたいのか、多くの人が足早に通り過ぎ、足を止める人はほとんどいなかった。
晴明も自分がイメージするキャラクターのポーズをいくつか取ってみたものの、雑踏は止む気配がない。スマートフォンのシャッター音すらめったにない。
当たり前だが、彼ら彼女らの目的は、出演するミュージシャンでライリスやピオニンではないのだ。
分かっていたが、ここまで注目されないとは。思い上がっていた自分の馬鹿さ加減と、ハニファンド千葉の人気のなさが、晴明の両肩にのしかかる。
何度かピオニンに入った成に、背中を叩かれた。頭が下がっているというサインだった。
晴明が頭を上げると反対側に小さい人だかりができているのが見えた。人と人との隙間から二頭身の着ぐるみが覗く。
着物風の衣装を身に纏い、桃色の頬が柔らかな印象を与える。目に描かれたハイライトは、まさに光っているようだ。
きっと彼女がそが姫なのだろうと、晴明は直感した。
そが姫は手を振ったり、ファッションモデルがするような可愛らしいポーズをいくつも取ったりと、ひっきりなしに動いていた。
ただ、スマートフォンを向けられれば、ちゃんと静止するし、近づいてきた子供には膝を曲げて同じ視線で接する。条件は同じはずなのに、そが姫は音楽フェスティバルの雰囲気を完全に味方につけていた。
きっとそれは、スーツアクターとしての力量の差だ。
はじめて人前に出たとはいえ、同年代の人間にあっさり負けを認められるほど、晴明は淡白ではない。だけれど、心細さから動きは小さくなってしまう。
また、ピオニンに背中を優しく叩かれる。どうしたらいいかも分からないまま、とりあえず手を振る。
しかし、悲壮なオーラが晴明からライリスの外に漏れ出てしまっていた。
そが姫はライリスたちが出てきてから、五分もしないうちにアテンドに連れられて控え室に戻っていった。
そが姫に夢中だった人たちは、一応ライリスたちを見るものの、また視線を前に戻して、ステージへと歩きだす。チラシを手に取ってくれる人もあまりおらず、赤いユニフォームも、目立つことなく完全に埋もれてしまっている。
晴明は意地で体を動かし続けたが、自分が景色の一部となっている感覚はどうしても拭えない。
通り過ぎる足音とステージからの音漏れは遮断されることなく、着ぐるみの中に入り込み、残酷なほどに反響する。まとわりつく湿気と見向きもされない空しさに耐えること。晴明はそれだけを考えて、外とは違うように思える時間の流れに身を委ねる。ステージで演奏される曲だけが、晴明が時間を測る基準だった。
そが姫が去って、一〇分ほどだろうか。二曲が終わったのだからそれくらい経過してほしいと晴明は考える。
めげずに体を動かしていると、今度は人間の手で肩を叩かれた。「ライリス、そろそろ帰ろうか」と筒井の声がした。
晴明はなけなしの力を振り絞り、首を縦に振った。筒井に手を引かれて、入り口から離れていく。「すいません、通ります」と筒井がしきりに言っていたが、ライリスはスタジアムに戻るまで、誰からも止められることはなかった。
それは望んでいたことのはずなのに、はっきりとした落胆が晴明の胸には残った。
(続く)




