いびつ(3)
「トリシア、大丈夫ですか?」
「あ、ええ、ええ、突然思い出したものですから…びっくりしているだけです」
「顔色も良くありません…休んで行きますか?」
「……お言葉に甘えさせていただきます」
両親がそろって頭を下げに来たのはただ単に、ほんとうに迷惑をかけて申し訳ないという意図だろう。まったくシャルロッテが記憶を私から消し去った後も、接触を絶っていただなんて額面通りに「そうだろう」と受け入れるだなんて本当にどうかしていた。
…まさかこんな形で会っていたとは思いもしなくて、比喩じゃなく本当に頭がくらくらする。
「お父様とお母様のお役目を継がれて、立派ですねトリシアは、あの小さなお嬢さんが…と思うと鼻が高いです」
「いえ、わたしは…本当に何も知らなくて…不甲斐なくて…無力です」
トリシアがどうして本音を彼女の前で吐露する気になったのか、それは自分でもよくわからなかった。
母さんが死んでから気丈に振る舞いポジティブに物事を考え明るく未来を見つめる自己暗示は完ぺきに体に染みついてこびりついて剥がれなくなっていた習性だった。
自分がそういった出来事に立ち向かわなくてはならない事に絶望しかけていた、というのはそれらを削ぎをとすに値する一大事だった…と本人はまだ分かっていない。
自分の家の目と鼻の先にドラゴニスタという組織が堂々と存在していたこともショックだった。
「無知、無力?それはそうでしょうとも、私も夫もくれぐれもあなたが来るまでは黙って何もしないでくれと頼まれましたから」
「え?」
「そうですね、あなたが白地図を広げて一歩踏み出す…という姿を見れたことがとてもうれしいのですよ」
「…たったそれだけで?」
「それだけとはなんですか、みんなあなたの一歩を祝福、いえ祝福という言葉でも足りないくらいほんとうに嬉しく思います。それにあなたの家の使命は…決して軽くはありませんから。はじめから完ぺきになろうとしては、息が上がって走れやしませんよ?」
「それは…そうですねシスターの言うとおりです…あの、もし走りきれないと思った時は、どうすればいいのでしょうか?」
シスターは意外な事を聞いたというように笑みで顔をくしゃりと歪めて「ふふふっ」と声を漏らす。
「ほうら、もう完璧になろうとしていませんか?息が上がってしまっています……走りきれないと思った時は休んでしまえばいいのです、歩いてもかまわないし立ち止まるのもいいでしょう、それからきっとしたばかり向いて自分の足元しか見えていないでしょうから……少し景色を眺めてみなさい、そうすればきっとこんなに遠くへ来たのかと驚いて、感動して、もっと先の景色が見たくなるはずですから、トリシアの心に任せなさい」
「シスターは…どうしてそんなことが分かるのです?」
「…だてにあなたより長いこと走ってるわけじゃないのですよ?」
目を細めてシスターはトリシアの背中をぽんぽんと叩いた。
「扉を開けて入ってきた時より…目がいきいきと輝いています、もう、だいじょうぶですね?」
「っ」
涙のレンズが視界を歪めてしまう。
嗚咽を押し殺そうとする理性をあやすように撫で、叩く暖かい手のひらが絶ち切ってしまう。
「っわ、あ、ぁああ」
「もう大丈夫ですよ、トリシアは景色を眺めて休憩して、走りだす準備をしているところです」
「無理です!おとうさんとおかあさんみたいに!わたしなれ、なれっこな、い!」
「今すぐじゃなくていいんです」
「だ、れも…だれもたよれない!家がちがうからって、のけものにさ、され、て!…んな、の」
「でも、信じたいんでしょう?」
わあわあと泣きじゃくるとシスターは痩せた指で胸に彼女の頭を引きよせてよしよしと撫でた。
誰かの前で泣くのはこんなに気持ちがいいのか。
それを知ってしまうと、もう元には戻れないんじゃないだろうかと背筋がさむくなるほど……うれしかった。
「シスター、私こんなふうに受け止めてくれる仲間が欲しいです」
「大丈夫です」
「ドン引いてないですか?」
「いえ、あなたやっと年相応のお嬢さんらしくなって可愛いなあと思ってたところです」
「?」
意味は分からなくてもいいんですよと笑う真意は全くもって分からなかったが、みじめなくらい腫れぼったい目は驚くほどすっきりと晴れて未来を見つめようとしていた。
頭上のドラゴンが…とても鮮やかな青に色づいているような気さえする。
「トリシア、景色を楽しむことを忘れちゃだめですよ?」
「はい」
「風邪は引かないようにね」
「はい」
「……行く気なのね?」
力強く頷くと顔に皺を深く刻んで「いってらっしゃい」とくしゃくしゃに頭をかきまわした。




