彼女の歩調 360日目
春が過ぎて、あっという間に夏が来た。
洋館の窓はすべて開け放って涼しい木陰の風が部屋の中を通り抜ける。
日は刺すようにじりじりと肌を焦がして、澄幸の護る泉の水の冷たさが心地よかった。
夏の日差しにお目にかかるまでに毎日のように雨が降り続く梅雨の季節を窓越しに過ごしていたが、梅雨が明けると空は突き抜けるような青だった。
蝉の声が沸騰するように雑木林を覆ってしゅわしゅわと鳴いていた。
この季節になると、桂林に行くまでに騒がしく過ごしていた毎日を思い出す。
ああ、もう1年になるのか…。
「トリシア、帽子をかぶりなさい」
澄幸が庭先に座っている自分のところまで駆けてきて幅広の麦わら帽をかぶせる。
座り込んでいたので容易に頭のてっぺんから覆いかぶさるように麦わら帽が影を広げた。
「今、ニュースで熱中症に気をつけろって言ってたから」
「ありがと」
「僕の散歩に付き合う気はあるかい?」
「暇だからいいよ、シュトも放っておいた方が楽しそうだし」
シュトは夏の草花に夢中の様子だったので邪魔せず、あのまま遊ばせてあげておくことにしよう。
「1年経ったけど、君は何かしたいこと見つけた?」
「…逃げないから運転免許とらせてほしい」
「運転免許?!」
あさっての方向の目標に思わず聞き返してしまった。
いや、だって普通はさ、普通は龍とかドラゴンとかドラゴニスタがどうとかっていう事が口から出てくると思って身構えているもんじゃないの?
和の方の庭は木漏れ日で苔についた露がきらきらしてる風景をトリシアはぼうっと見つめている。
「…いいけど、バイクと原付は駄目だよ。身分証明はこっちで何とかするけど…」
トリシアはうんと頷いてみせた。
幅広の麦わら帽に阻まれて顔が見えなかったのはちょっと計算外だった。
日に当たらないように気を使ったんだけど。
「…澄幸、私事で申し訳ないんだけど質問していい?」
トリシアと話す事は多くなって、珍しくなくなったけど、質問は久しぶりだった。
「どした」
「龍と人の間に子どもは出来る?」
「はあっ?!」
澄幸は見た目の割にお年を召していて、古風で奥ゆかしい性格ゆえ年頃のうら若いお嬢さんの口から「子どもが出来る?」などと聞かれることは断じて、断じて答える事は出来ない。
顔を真っ赤にして、しかし赤面している事を悟られる事のないように弁明を…。
「き、ききき、きみはなんてことを!」
…しなければならないのに効果は全く見られない。
「…わ、私だってあなたに訊くのはとっても不本意なんだから!だからシュトだって置いてきたんだからね?!」
頭一つ分くらい下にある麦わら帽に縁取られた彼女の後頭部、少し怒った華奢な肩をまじまじと見つめる。
「もしかして、顔赤い?」
「うるさい」
「僕も結構動揺してるんだけどさ」
「あんまり掘り下げないでっ」
「僕は試した事も試そうと思った事もなかったんだけど」
「ドラゴンのおじいさんに聞いた時は無理だって言われたっ」
「いてもよさそうなものをね?」
もしかすると、この娘がこの話をしてくれるためには顔を見られないという絶対条件が必要だったのかもしれない。
沈黙が降りたが、雑木林の蝉の合唱が耳に痛くて、我慢が利かない。
「…好きな男がいるの?」
「………ん…」
かすかに声が聞こえて白い髪が揺れたので肯定したものとみなす。
「その男は、人ではないんだ?」
「……ん」
また声がして、白い髪が揺れた。
「子どもが欲しいのか?」
なんて直球な言葉を口にしているんだろうか、顔が熱くなる。
「…子どもができないと、彼は、責任を感じて交際さえしてくれないと思うから」
「…そうか」
「私の家系の話はしたよね」
「したね」
「シュトにも寂しくないように、シャルロッテにルルーがしてきたことと同じことをしてあげたいの。本当に、それだけはしてあげたいの」
怒っていた華奢な肩から力が抜けて震える。
「…でも、私は人間として長生きしても添い遂げられもしないし、婚約してしまったとしたら枷にしかならない。それ以前に家の事も知られてるし、あの人責任感じて突拍子のない事考えてそうなんだよね…」
「たとえば?」
「…愛人用意されてそう」
思わず堪えきれずに庭中に響くような大きな声で笑ってしまった。
突き抜ける青い空のような阻むもののない明るい笑い声にトリシアは俯いていた顔をグッと仰向けた。その勢いで麦わら帽が落ちる。
「そんな笑うこと無いじゃない!切実なのよ!こっちは!」
「う、うわあ、ぜひ一度会ってみたい。お目にかかりたいものだね!」
「…そんなことしたらぜったいあなた半死半生にされるからやめておきなさい」
本気で止める口調になったので澄幸も我が身を省みる。
そういえば、自分はトリシアを誘拐した誘拐犯であるから恋人を誘拐された執念で呪い殺されてもおかしくないのであった。
「僕は、好きならば行くところまで行ってもいいと思うけどね」
「うわっ!何言ってんの?!ちょっ、何言ってんの!?」
「君こそ何を言ってんだい。子どもほしいんでしょ?出来ればその彼と」
「……そ、そういうことね」
「じゃあさ、行きつくところまで行くしかないんじゃない?生命維持活動の問題上」
「澄幸たちは人と共存して生きているからそういう事例があると思って声をかけたんだけど、なんか後半扱いがぞんざいね。言葉にありがたみが全くないわ」
「まあ、事例はあるにはあるんじゃない?保証は出来ないけど」
希望に頬を染めて、彼女がちょっと固い顔で嬉しげに見つめ返してくる。
「僕が思うに、君はちょっと行動する前に考え過ぎなんじゃない?添い遂げられなくったって枷になったっていいんじゃない?君20歳でまだ若いんだからもっと高望みしてもいいと思うけど」
「…あ、はい」
固くなって突っ立ったままの彼女に代って落ちた帽子を拾ってやる。
「それから、こういう話をみだりに男の人としてはいけません」
麦わら帽を頭にぐいっとおしつけるように渡して、立ち止っていた庭の奥へ歩を進めた。
今ならその真っ赤に染め上げた頬のことを日射病として扱ってやらなくもないぞ。
向うも気恥かしいのか反論はせず、黙って後をついてきた。
でも後ろで笑っている気配がして不本意ながらこっちから声をかける。
「何かおかしい事を言ったかい?」
「え?だって、こんなに思いっきりはっきり思ってることぶつけあったのってはじめて一緒に庭を歩いた時以来じゃないかしら、って」
背を向けているのに、彼女が蕾が開くような笑みではにかんでいるのが見えた気がした。
たしかに、彼女の言う通りこんなに素の気持ちでぶつかり合って笑ったのはそれ以来の様な気がする。
澄幸のゆっくりとした歩幅の広い一歩に、軽快な足音がたったと追いかけてくる。
それもこの1年で慣れたこと。
澄幸は自分がそれを幸せだと思っている事を自覚しないままくすりと微笑んだ。
明るい顔で二人が和の方の庭へ向かうのを珠姫が目聡く見つけて安堵の息をつく。あの二人を放っておくのは少しばかり心配だった。二人が庭の奥へ消えるとじりじりと暑さに似たもどかしさが珠姫の胸を焼く。
しかし、突然庭の奥から、澄幸の大きな笑い声がこだまして思わず近くにいた、同じように二人のことを気にかけていた、暉臣と基彦と顔を見合す。
人の事は言えないが、皆ぽかんとした間抜け面を晒していた。
沈黙のあと野太い声で肩を揺らして基彦が、釣られて暉臣が豪快に笑う。
「あっはっはっはっははは!」
「…もう!もう!二人とも笑って!」
そう諌める珠姫の声も笑いで細かく震えている。
「親方のあんなに可笑しそうな笑い声なんざここ数十年、お目にかかった記憶がねえ!」
「そうだそうだ、あんなに可笑しそうに笑うなんてよっぽどの事があったに違いない!そもそもあの姫さんと一緒なんだ、笑いにこと欠くはずがないんだ」
酒だ祝いだとはしゃぎだす暉臣と基彦は子どもの様な顔だ。
実際彼らは若い龍で子どもの扱いをしても差し支えないのだが、それでもひとつの信仰の主ではあったのだから1人前の扱いをしなくてはいけない。
「ふたりとも、あんまりはしゃぐと主が勘づいて意固地になってしまうんだから、ほどほどにしてくださいよ。台所は私が預かっているんですからお酒を取り上げてしまってもいいんですからね」
「げっ!珠姫それは勘弁してくれよ、めでたいことには変わんないんだから」
「ですけどねえ…」
「そうそう、お前だってはらはらして、気になってたくせに」
「向うに気を向けすぎて芋の煮っころがし焦がしかけて慌ててただろう」
見られていたのかと赤面する。
「…ともかく。ふ、ふたりが戻ってきたらお茶を出しましょうね。自然に、自然に振る舞わなくては…」
暉臣と基彦はそれをみて可笑しそうに視線を交わす。
嬉しい事があったり悲しい事があったりした時に一番顔や態度や言葉の端々まで隠すことのできないのは珠姫の事なのだ。
台所に消える足音まで嬉しそうなのを二人でこっそり笑った。
みなさんお久しぶりですが、筆者の事を忘れている方もおられるかもしれませんね
覚悟を決めての今話の投稿ですが
約一年ひと巡りした二人の姿を書いてみました
さて、どうでしょうか
ええっと年末年始の更新については活動報告の方でお知らせしようと思ってますので
よろしくどうぞ
今話も読んでくださってありがとうございます!
次話も乞うご期待☆




