恋、夢、道
翌日。
フロージアは起きてこなかった。それ自体はそれほど珍しいことではない。変温動物で体温が低いディノサウロイドである彼女は、常に高い温度を保っている焦土やブリガンドとは違い、体温を上げ切らなければまともに動けないからだ。なので、スティーブンソンがフロージアの部屋の寝床の下にパイプを通して熱を注ぎ、フロージアはその熱によって意識を浮上させる。それでも足りなければ、リビングの暖炉の前でぼんやりしている。
だが、朝食の時間どころか昼食の時間を過ぎても起きてこないので、さすがに心配になってきた。当人の許可を得ずに部屋に行くと怒られそうだが、この際は仕方ない。ブリガンドは放っておけと言ったし、スティーブンソンの反応も芳しくなかったが、あのフロージアが大人しいと気掛かりなのだ。
フロージアの部屋は、動力部の熱を下げないようにするために、動力部とは反対の方向に位置していた。何かと皆が集まるリビングはアイオロス号のほぼ中心に位置していて、操縦席やら何やらがまとめてある艦橋は一段上にあり、フロージアの部屋はそれよりも前にある。つまり、先頭だ。
パイプラインが複雑に絡み合っている通路をやっとのことで通り抜け、フロージアの部屋に至ったが、ドアには霜がびっしりと貼り付いていた。通路にも重たい冷気が垂れ込めていて、いくつかのパイプは凍り付いて目詰まりしていた。
「……スティーブンソン」
焦土が手近なパイプを小突くと、伝声管の要領でスティーブンソンの声が返ってきた。
「ううむ、今回はなかなか疲れたようであるな」
「フロージアは力を使った後はよく寝るとは思っていたが、これもその延長なのか?」
「うむうむ。エーテルを使えば使うほど、脳に負担が掛かるのである。増して、フロージアが一度に扱うエーテルの量は凄まじいのであるからして、心身に疲労が蓄積するのも当然なのである」
「それは解ったが、この場合はフロージアを起こすべきなのか?」
「我が輩的には、フロージアは起こさずに無遠慮に巻き散らかされた氷をなんとかしてほしいのである。その辺りの配管が目詰まりしているせいで、蒸気圧が上がり切らないのであるからして」
「半端に眠い状態で起こしたら、フロージアが怒るぞ」
「魔女の機嫌よりも、我が輩の本体の稼働効率の方が重要なのである。今現在、アイオロス号は繋ぎ合った流氷を渡って海を進んでいるわけなのだが、我が輩の計算と海流が合わなくなってきた可能性が否めないのだ。つまり、速度を落とすと流氷ごと流されてしまうか、進行方向の流氷が流れ去ってドボンである」
「だからさぁ、なんでいつも無謀な方法で進むんだよ!」
焦土が怒鳴ると、スティーブンソンは高笑いした。
「ふはははははは、我が輩は常に向上心と冒険心を忘れないのである!」
「適当なだけだろ!」
「そんなことはないとも。うん、たぶんないとも」
「そこはきっぱり言い切ってくれ。余計に不安になる」
「というわけであるからして、万が一足場の流氷がなくなった場合はフロージアに頼るしかないのであるが、肝心の魔女が寝ていては話にならないのである。起こせるなら起こしてほしいのである」
「面倒臭いことを押し付けやがって」
焦土はぼやきながらも、ドアノブを握って霜を溶かし、がちがちに凍り付いて固まっていたドアを暖めた。程なくしてドアと枠の隙間に詰まっていた氷が溶け、蒸発する。
一応の礼儀としてドアをノックしたが、反応がなかった。力任せにドアを開けると、細かな氷の粒が舞い上がる。廊下の外気が入り込むが、過剰な冷気で瞬時に凍り付いて白くなる。焦土でさえも息を吸うのを躊躇うほどの寒さで、フロージアは無事なのか、と危惧するほどだった。
「……ん」
小ぢんまりとした部屋の中には、金属製の戸棚と机があり、椅子には獣の毛皮が敷かれていた。戸棚にはガラスの瓶や紙の本が大事そうに飾られていて、あの移民船から持ってきたアルバムも同様だった。潜水艦のような円形の窓も真っ白くなっていたが、焦土は左手を添えて氷を溶かすと、窓の外には流氷の漂う海が見えた。
アイオロス号はゆったりと流れてくる流氷の上に乗り上げ、通り過ぎたと思ったら別の流氷に乗り上げ、その繰り返しで進んでいたが、少しでもタイミングを誤れば立ち往生するか海に落ちてしまう。操縦はスティーブンソンが一任しているし、これまでも状況に応じて的確に運転してくれたが、今度ばかりは不安だ。ブリガンドも気が気ではないのだろう、デッキに出ている。
寝床を窺うと、氷の花が咲いていた。その中心では、寝間着姿のフロージアが丸まって熟睡していた。焦土は氷の花弁を溶かしながら寝床に近付き、彼女が呼吸していることを確かめて安堵した。
「起こせと言われてもなぁ」
焦土は寝床に腰を下ろし、右手を掲げて炎を灯した。一度に熱すると、氷が一気に溶けて蒸気が籠ってしまうので、少しずつ熱していくことにした。ドアを開け、窓もこじ開け、蒸気と冷気を逃がしながら、焦土はフロージアの頬を左手の甲で撫でると、エーテルが僅かに震えた。そのつもりはなかったのに、共振してしまった。
不意に、視界が揺らいだ。
────ああ。私はおかしくなってしまった。
あの男を目にして以来、フロージアは調子が狂っていた。仕事に励んでいても、食事をしていても、本を読んでいても、脳裏にあの男の姿が過ぎってしまう。ふとした瞬間に思い出しては、恐怖すら伴う感情の奔流に襲われる。それが不慣れな性感だと悟るまでは、随分と苦しんだものだ。
ふと我に返ると、あの男が移送されてきてから一ヶ月が過ぎていた。その間にも何度もニンゲンが赤道国家を奇襲し、魔女達と爵位を持つ者達は交戦していたが、フロージアは終始ぼんやりしていたので、力加減を間違えてニンゲンだけでなく自軍も凍り付かせることが何度もあった。当然ながらゴフェル大公から厳重に処罰されたが、その間も呆けていたので、現実が上滑りしていた。
フロージアは地下牢に放り込まれてしまい、“蒸気男爵”スティーブンソンの元に通えるはずもなく、“略奪伯爵”リンタオロンはたまに面会に訪れては嫌味を吐き付けていった。最低限の食事は与えられるが、それだけだった。天井付近には鉄格子の填まった小窓があり、外気が流れ込んでくるが、雪の降る日には雪が吹き込んできた。氷の魔女にとっては寒くもなんともないが、時折、無性に寂しくなった。それでも、あの男を忘れられなかった。
そんな折、フロージアは唐突に地下牢から出された。処刑されるのかと思いきやゴフェル大公の謁見室に連れていかれ、大公自身から命じられた。フロージアは国家防衛の任から外され、侍女となれと。だが、仕える相手については一言も教えられなかった。
処刑されるよりはマシだが、魔女としての誇りが失墜したことは確かなので、フロージアは不満を隠そうとはしなかった。それでもゴフェル大公はフロージアを咎めはせず、行け、と一言命じただけだった。
箱舟を改造して造った城塞の奥に、円筒形の塔が建っていた。筒の中には以前は何かが入っていたようだが、強引に取り出したらしい。後付けの階段を昇り、最上階に至ると、円錐形の部屋には見慣れぬ生き物がいた。
「あ」
薄黄色の肌に二つの青い瞳を持ち、羽毛とは違うものが頭部から生え、牙もなければ爪もツノもなく、翼も尻尾もない。皮膚も見るからに薄そうで、エーテルもそれほど濃くはない。メスなのだろう、ほのかにメスのフェロモンが感じられる。けれど、フロージアはこれに似た生き物を知っている。────彼みたいだ。
「ん」
その生き物はフロージアを手招きしたので、フロージアは渋々近付くと、その生き物は紙の本を広げた。そこには、白い鳥が実の付いた枝を銜えている絵が載っていた。
「私の名前、これだって」
その生き物は、鳥ではなく実を指した。その指もまた細くて生白くて、齧り甲斐もなさそうだった。フロージアは挿絵に添えらえた文字をじっと眺めたが、それが旧世界の文字だと気付いた。スティーブンソンとのやり取りで知っていたので、読み上げた。
「オリーヴ」
「わ、本当に読めるんだ」
「あなたは読めないの?」
フロージアが訝ると、オリーヴと名乗った娘は目を細める。二つの眼球には瞼が付いていて、それを縁取る体毛も生えていた。
「読めるけど、覚えたてだから」
「ふうん」
フロージアは尻尾を揺する。
「あなた、何なの?」
「大公は、私のことを人間と呼んだわ。でも、それは名前じゃなくて種類のことだから、別の名前をくれたのよ」
「それがオリーヴというわけね」
「大昔の植物だって。実を絞ると油が取れるんですって」
「おいしくなさそうね」
「私もそう思うわ」
オリーヴはまたも瞼を細め、口角を上げた。威嚇の表情に似ていたが、その割には敵意は感じられなかった。
「ねえ、昔の本を読みましょう」
「旧世界の本があるの!?」
フロージアが思わず身を乗り出すと、オリーヴはくすくすと喉の奥から上擦り気味の声を零す。
「あなた、大公から聞いた通りの子ね。旧世界のお話が好きなのね」
「だって、面白いのだもの」
「私も好きよ。まだ読める文字が少ないから、一緒に覚えていきましょう」
オリーヴは本棚から数冊の本を引き抜き、運んできたが、足腰が弱いのかふらついていた。フロージアは彼女の持つ本の下に氷の柱を立ててしまおうかと考えたが、それでは本が傷んでしまうので、自分の手でオリーヴを支えてやることにした。
それが、オリーヴとの出会いだった。
旧世界の話が出来るのは、純粋に嬉しかった。
四角くて細長い建物が並ぶ都市、石油を喰って走る機械、鉄の翼で風を切り裂く乗り物、声や文字を自在にやり取り出来る道具、様々な国と様々な言葉、そんな世界で紡がれた無数の物語。フロージアがスティーブンソンを通じて知ったのは、旧世界の断片の中の断片でしかなかったが、オリーヴは興味深そうに耳を傾けてくれた。それがまた楽しくて、フロージアはずっと喋っていた。
その頃になると、フロージアは完全に魔女達からは孤立していた。当然の結果である。ゴフェル大公に目を掛けられて生き延びたこともまた、フロージアが蔑まれる理由の一つでもあった。
旧世界の記憶らしきものを宿した《過去を知る者》は、発見され次第確保されて厳重に管理されるが、旧世界に興味を抱くこと自体は禁じられていない。だが、魔女達の間では、旧世界は重んじられていなかった。エーテルを操ることで人知を超えた力を発揮することが出来る魔女にとっては、機械の力を借りなければ空を飛ぶことすらままならなかった旧世界の人類は卑下すべき対象であり、その人類が築いた文明など唾棄すべきものだった。
けれど、フロージアはもうなんとも思っていなかった。魔女ではあるが魔女の世界には馴染めない、と自覚したからだ。それに、オリーヴの住む塔には、熱を放つ男が運び込まれていたので、彼を見かけるたびに何もかもがどうでもよくなった。相変わらず金属の棺に入れられていて、小さな窓越しに寝顔を見つめるだけではあったが、その瞬間があるだけでフロージアは世界で一番幸福だった。
オリーヴは衣服を多めに与えられていて、布地をたっぷり使った厚手の服を着ていた。エーテルが少ないので体温が維持出来ないから、だそうだが、その割にはひらひらしたものが多かった。ゴフェル大公は、オリーヴを着飾らせるのが好きなのだろう、とおのず察しが付いた。
食事の内容もフロージア達とは違っていて、肉と野菜と穀物を均等に食べていた。だが、獣人の使用人が作る料理は味付けがほとんどないので、オリーヴは炊事場を作ってもらい、そこで煮炊きをするようになった。フロージアもたまに味見をさせられることがあったが味覚がかなり鈍いので、よく解らなかった。そんな中でも、パンケーキは見た目も食感も素敵で、甘みが感じられたので鮮烈に覚えていた。
ある日、オリーヴが体調を崩した。それまでもオリーヴは熱を出して寝込むことがあったので、フロージアはそれほど心配していなかったが、今度は訳が違った。オリーヴは股の間から血を垂らしながら、頭痛と腹痛に苦しんでいたからだ。
「すぐに良くなるわよ」
ベッドに腰掛けたフロージアは薄い氷を作り、オリーヴの火照った額に載せてやった。オリーヴは発熱で潤んだ瞳を動かし、フロージアを捉える。空よりも濃い青に、赤い瞳のトカゲが映る。
「あのね」
オリーヴは下腹部を押さえ、言葉を絞り出した。
「私、あの人とつがいになるんだって」
誰が。誰と。
「ほら、塔の下に置いてある棺があるでしょ? あの中にいる人、私と同じ種族なんだって。大公が言っていた。お腹から血が出たら、子供が作れる体になったってことなんだって。だから、つがいにならなきゃいけないんだ」
なんで。どうして。あの人は、彼は私が欲しいのに。
「────でも、でもね。フロージア。私の魔女」
オリーヴはフロージアの膝に縋り、首をしきりに横に振る。
「私がつがいになりたいのは、あの人じゃない。大公なの」
「……はい?」
フロージアは毒気を抜かれ、面食らう。
「大公は、ずっと私を助けてくれた。フロージアや皆と違って何も出来ないのに、生かしてくれた。寂しくないようにって、フロージアを連れてきてくれた。そんな人のこと、好きにならないわけがないでしょ? だから、私、嫌なの」
オリーヴはフロージアの手を握り、汗ばんだ頬を寄せる。
「ねえ、フロージア。……あの人を、あなたにあげるわ」
オリーヴの肌は湿っぽくてべとついていたが、不快感はなかった。ああ、許されてしまうのか。あの劣情と欲望を、彼にぶつけていいのか。フロージアはぞくりと背筋が逆立ち、尻尾がぴんと立った、
以前、オリーヴと一緒に読んだ本に書いてあった。旧世界の人類の男女が、つがいになるまでの物語だった。男と女がつがいになるまでには、色々な出来事が起きた。男が死にかけたり、女が他の男に誘われたり、些細なことでぶつかったり、意見を違えたり、と。だが、最終的には二人は互いを認め合い、共に生きるようになった。その最中に、何度も同じ言葉が出てきた。今のフロージアの気持ちを言い表すには、その言葉以外には考えられそうにない。
恋だった。
けれど、彼はあまりにも熱すぎた。
フロージアの力をもってしても、彼の熱は下げられなかった。炎が人の形をしているような、マグマを血液の代わりに流しているかのような代物で、金属の棺に近付くことさえも躊躇われた。氷で凍り付かせてみても、一瞬で溶けてしまう。それもこれも、フロージアの魔女としての力が足りないせいだ。
「だったら、力を増やしてしまえばいいのよ」
ならば、すぐに行動に移すべきだ。フロージアは他の氷の魔女達を殺しに行った。都合のいいことに、魔女達は合同訓練を行っていたので、一人ずつ襲撃する手間が省けた。反逆者め、裏切り者め、と罵倒されながら攻撃されはしたが、どの魔女も呆気なく倒された。心臓に傷を付けると意味がないので、氷の刃で脳天を貫いてやると、皆、簡単に絶命した。
フリージア、フロスティ、グレイシャー、コールドストーン。魔女達の胸を氷の刃で切り開き、心臓を取り出して血管を千切り、丸呑みしていく。体温が下がる前の暖かな心臓が喉を滑る感触は心地良く、新鮮な肉が胃に収まると満たされる。
魔女達の死体を氷に詰め、そのままチンボラソ火山の河口に放り込んだ。いちいち処理するのは面倒だったし、見つかると何かと厄介だからだ。その足で蒸気都市に向かい、スティーブンソンに会って事の次第を報告すると、スティーブンソンは驚いていた。
「うむ、うむむ、うむむむ……」
ぶしゅう、と熱い蒸気を漏らしながら腕を組み、蒸気男爵はしばらく悩んでいた。それに合わせて、彼と繋がっている蒸気式計算機ががちゃがちゃと忙しなく動いていた。歯車の動きが収まると、スティーブンソンは赤い単眼をフロージアに据えた。
「赤道国家の末席に名を連ねる者としては、君の行動を許すわけにはいかぬだろう。味方殺しを行い、ニンゲンに対抗する戦力を欠いてしまったばかりか、ゴフェル大公の意向に背くのであるからな。いや、だが、しかし、ゴフェル大公が近頃執心していたのが人間の娘であったとは。しかし、出所はどこなのだ? やはり箱舟か? それ以外には考えられぬが、だとしてもなぜ今まで箱舟から現れなかった? それを言えば、あの棺の男にしてもそうだ。姿形こそ人間に近いが、その中身はどちらかと言えば魔女に等しいものだ。ううむ、解らぬ。うむむ、解らぬが、だからこそ知りたい、考えたい、突き詰めたい!」
スティーブンソンは大きく両腕を広げ、単眼を輝かせる。
「氷の魔女よ! 聞いてくれまいか! 我が輩には夢がある! 月へ行きたいのだ! だが、赤道国家に居続けては何も始まらぬ! しかし、我が輩はここでしか生きられぬと思っていた! 蒸気都市と我が輩は巨大にして正確な計算機としての役割を果たし、赤道国家に貢献することこそ、この時代に生きる者の幸福だとすら思っていた! だが、そうではないのだと気付いたのだ!」
「うふふ、そうでしょ? そうなのよ!」
フロージアが上機嫌に尻尾を振ると、スティーブンソンはかちんと太い指を弾く。
「ここだけの話であるが、我が輩は密かに蒸気計算機を搭載した雪上蒸気船を造っていたのだ。その名もアイオロス号。まずは我が輩が蒸気都市から奔走し、距離を取る。エーテルを用いた通信は出来るな?」
「ええ、もちろん」
「よし。ならば、フロージア。オリーヴなる娘と棺の男を引き離すために、策を講じようではないか。そして、棺の男が赤道国家の外に移送されるように仕向けなくては。ふふ、ふはははは、うへはははははは、楽しくなってきたではないか!」
スティーブンソンは高らかに哄笑し、一際激しく計算機の歯車を回転させた。意外と調子がいい。それどころか、フロージアの蛮行に自分の願望を乗っからせる始末だ。スティーブンソンという機械仕掛けの男は、ただ賢いだけではなく、知性に裏打ちされた狂気を宿していたのだ。それを知ると、今まで以上に親しみを覚えた。
恋の前では、何もかもが無力だ。
その後。
スティーブンソンは適当な理由を付け、アイオロス号で赤道国家から遁走した。フロージアも魔女達を殺したことが知られてしまったが、四人分の心臓を喰って力を増強したフロージアの前では、残りの魔女や爵位を持つ者でも太刀打ち出来なかった。その最中、フロージアは何度か赤道国家を離脱してアイオロス号に向かい、スティーブンソンと打ち合わせを繰り返した。ついでに自分の部屋を作った。
が、棺の男を移送させるために一度は捕まってやった。エーテルを共振させて裁判官や処刑人の思考を狂わせ、棺の男の熱を用いてフロージアを溶かし尽くすという刑罰を下させた。その刑を執行する場所も、赤道国家ではなく、集落すらもない氷山に決定させた。
そして、フロージアと棺の男は移送用の雪上蒸気船に乗せられた。フロージアを移送する兵士は簡単に倒せたし、彼の拘束を解くことも造作もなかった。だが、この時点で気付くべきだった。あまりにも順調に進み過ぎていたから、誰も妨害も入らなかったから、それを疑問に思うべきだったということに。
アイオロス号と落ち合う氷山に至る手前で、フロージアは行動を起こした。拘束具を凍り付かせて砕き、兵士達を凍らせて殺し、そして棺の男の温度を下げた。蓋を開け、彼と対面する瞬間を待ち侘びていると────彼の手首のない右腕が断ち切られた。
「全く、何を仕出かしたかと思えば……」
背後から声が聞こえ、フロージアが振り返って身構えると、軍服に身を包んだディノサウロイドが立っていた。“略奪伯爵”ニクス・リンタオロンに他ならなかった。
「あんたこそ、何をしに来たのよ!」
フロージアはそう叫び、気付いた。リンタオロンの爪の生えた手には、切り取られたばかりの彼の右腕が携えられていた。めらめらと炎を発しているが、リンタオロンはその炎を器用に空間転移させているらしく、僅かな隙間が空いていた。
リンタオロンの略奪の力は、簡単に言えば空間転移能力である。彼は父親と同様に、空間ごと物体を切断し、転移させて手元に引き寄せることに長けている。だが、それを彼に行使するとは思ってもみなかった。フロージアは蓋の開いた棺を背に、リンタオロンを睨む。
「何って……」
リンタオロンの背後から、ゆらりと華奢な少女が現れる。包帯を肌に巻き付けて顔面すらも覆っていて、種族すらも解らないが、それが魔女であるとすぐに解った。金色の首輪を付けていたからだ。
「フロージア。僕はね、君の自分勝手なところが好きなんだよ。押さえ付ければ反発し、決まり事に背きたがり、重んじるべきものを軽んじる。傲慢、稚拙、劣悪! これぞ僕が求める魔女の姿!」
「……は?」
フロージアが臆すると、リンタオロンはにたついて牙を見せる。
「そんな君が僕に歯向かう姿が好きだったんだ。ああ、好きだったんだ。僕は、君が君らしくあるためには悪意を向けることさえも厭わなかった。けれど、どうだい。君はその男に低俗な情欲を抱いた末に赤道国家を完全に裏切ったばかりか、その男と生きるために他の男さえも銜え込んでいる。醜悪、俗悪、露悪!」
リンタオロンは包帯の魔女をぐいっと抱き寄せると、その首筋に爪を添え────鮮やかに切り裂いた。
「ひうっ」
包帯の魔女の首筋から血飛沫が散ると、フロージアの首筋もまた独りでに裂け、血が迸る。
「うぐぁっ!」
「その傷は僕からのはなむけだ、氷の魔女。知っているだろう、我らのようなトカゲは首筋が性感体にして、首筋を噛むことが交尾の合図となる。だが、その傷は僕が付けたものだ。あの男に交尾を迫ろうとするたびに、君は僕を思い出す。僕は君を思い出す。どうだい、美しいだろう? 背徳、妖艶、甘美!」
「そんなの、絶対に、そんなのってないわ」
フロージアは痛みと屈辱から、ぼろぼろと涙を落とし、しきりに首を横に振る。だが、その言葉は既に呪いとなり、フロージアの心にくっきりと傷跡を残していた。エーテルで血を止めて傷を塞いでも、心までは塞げない。
「僕の魔女よ、甘やかな恋に毒されて苦しむといい。僕はその姿を見て高揚し、子種を無駄に散らすだろう。ああ、なんて素晴らしいのだろうか。ああ、なんて君が愛おしいのだろうか」
リンタオロンはフロージアに触れようと近付いてきたが、フロージアは氷の壁を作り、それを阻んだ。せめて、肌だけでも守りたかったからだ。
「ねえ、行きましょう」
包帯の魔女が小声で囁くと、リンタオロンは身を引いた。
「そうだな、ペイニー。やることは済ませたのだから」
直後、リンタオロンと包帯の魔女の姿が掻き消えた。空間転移したからだ。フロージアは悔しさと怒りで気が狂いそうだったが、彼を氷で包み込み、熱を出来る限り冷ました。その過程でエーテルをいくらか抜き取ってやると、熱の放出も収まったので、フロージアは初めて彼の肌に触れた。氷の水滴を帯びていて、薄くて柔らかいが、オリーヴよりも丈夫な男の肌だった。
私の所有物だ、と痛烈に確信した。
────なるほど、そういうことか。
いつのまにか、焦土はフロージアのベッドで寝入っていた。エーテルの共振によって、またも夢を見させられてしまったが、その内容は以前の続きだった。腑に落ちる部分もあれば、フロージアとスティーブンソンの無茶苦茶な行動理念に辟易するところもあり、リンタオロンの根性の曲がり具合にうんざりもした。
だが、一番引っ掛かっているのは、人間と思しき少女、オリーヴの存在だった。あの顔、あの髪、あの声は、氷川銀花に通じるものがある。オリーヴは世間知らずであるが故に純粋で、ブリガンドの記憶で目にした、凶行に及んでいた氷川銀花とは重ならない。けれど、無関係ではないだろう。
「……本当にあるんだな」
焦土はフロージアを横目に窺い、首輪の下を覗くと、その首筋には深い傷が刻まれていた。エーテルで傷は塞いだが、まだ治り切っていないのだろう。皮膚が完全にはくっついていない。触れてはいけないが、目を離せない。
いつか、この傷を彼女が見せてくれる時が訪れるかもしれない。だから、今は見なかったことにするべきだ。焦土はベッドから身を起こすと、すっかり氷が溶けた部屋を後にした。
「おい、見てみろ」
窓の外からブリガンドが呼び掛けてきたので、焦土は窓を開け、目を剥いた。
「うわ、すっげぇ」
海上には、氷で出来た道が伸びていた。流氷を繋ぎ合わせると同時に厚みを加え、高低差をなくしているという周到さだった。アイオロス号は、その道を慎重に走っていた。流氷とは違い、流れ去ってしまう心配がないからだ。
「フロージアは本当に寝ていたのか? こんなこと、無意識に出来るものなのか?」
ブリガンドが不思議そうに首を捻ったので、焦土は肩を竦める。
「まだ起きる気配すらねぇよ」
「だとしたら、あの娘は余程遠くへ行きたいんだな」
解らんでもない、と呟いてから、ブリガンドは羽ばたいて窓の外から飛び去った。焦土は窓を閉めてからデッキに出ると、フロージアがもたらした氷の道を眺めつつ、気持ちを整理しようとした。
元々、フロージアは品行方正な魔女ではなかった。赤道国家に対する忠誠心も薄く、旧世界への好奇心が否定されることも相まって周囲に反発を抱いていた。それらの煩わしさから逃避するために、焦土への恋愛感情が膨れ上がったのかもしれない。だとしても、別の種族に対して欲情出来るのだろうか。焦土が宿すエーテルの濃さに惹かれたのか、それとも別の要因があるのだろうか。
焦土がフロージアに心を揺さぶられる理由を知りたいから、彼女の内面を知りたくなる。いや、それすらも言い訳かもしれない。自分の感情を肯定する材料が欲しいだけだとしたら。
心臓が鈍く疼いた。