うたかたびと
待てば海路の日和あり、という言葉があるが。
今回はそうもいかないらしい。ニンゲンとフロージアが交戦し、フロージアが事も無げに勝利を収めたはいいものの、それ以来人間の出現率が異様に高くなってしまった。その都度フロージアは出撃しては応戦し、ぶるぶるとした脂肪の塊であるニンゲンを氷で細切れにしたり、凍結させて粉砕したり、氷の塊を落として圧殺したり、とあの手この手で対処したのだが、それでも追いつかなかった。
それだけであれば、フロージアの退屈が紛れてくれるので丁度良かったのだが、ニンゲンを倒した分だけエーテルが濃くなりすぎてしまい、アイオロス号は移動することもままならなくなった。パイプラインの損傷だけならまだしも、動力部である蒸気機関が爆発したら、旅路がここで終わってしまうからである。そうなれば、アイオロス号が本体のスティーブンソンは死に、ついでにエーテル中毒で焦土とブリガンドも死ぬ。
「というわけであるからして、ニンゲンが出現する場所を叩かねばならぬ、と我が輩は思うのであるが」
スティーブンソンがいつになく真剣に述べたので、焦土は同意した。
「要するに、ニンゲンの巣を潰すってことだろ? あんまり気分のいいものじゃないが、やった方がいい」
「ニンゲンの巣がいくつあるのかは知らんが、一つの群れを崩壊させてしまえば、結果として赤道国家に供給されるエーテル量が減っていく。そうだろ、魔女よ」
ブリガンドがフロージアを見やると、フロージアは腕を組む。
「まあね。ニンゲンの肉はおいしくないけど食糧に加工されて、脂肪は燃料にされるけど、最も重視されるのはやはりエーテルだものね」
「そうなれば、赤道国家の動きも鈍り、俺達に構っている余裕も少しはなくなるだろう。やっておいて損はない」
ブリガンドが続けると、焦土は手を打った。
「ああ、兵糧攻めだな」
「ふうむ。確かに有効かもしれんが、かなりの危険を伴うぞ」
スティーブンソンは、三人を見渡す。
「でも、暇潰しには丁度良くってよ。男爵、この二人がエーテル中毒で死なないようにする装置って作れるかしら?」
フロージアが尋ねると、スティーブンソンは誇らしげに胸を張る。
「うむうむ、よくぞ聞いてくれた! こんなこともあろうかと、いや、こんなこともあったらいいなぁという希望的観測の元に我が輩は常に研究と開発を繰り返していたのであるからして、エーテル中毒を防ぐマスクも製造中だったりするのである! お蔵入りすることにならずに済んで良かったのである! では、試作品を持ってくるのである! ふははははははは!」
笑い声を撒き散らしながらスティーブンソンはリビングを飛び出し、がっちゃがっちゃと騒がしく走り去っていった。途中で蒸気を注入しているチューブが引っ掛かったらしく、盛大につんのめって転倒したが、すぐさま別のチューブが繋がったので、程なくして起き上がって改めて走り出していった。
「あの構造、不便では?」
ブリガンドが訝しむと、焦土も頷く。
「俺もそう思う。アイオロス号が本体でスティーブンソンが子機だというのなら、尚更、コードレスで動けるように構造を作り替えるべきだと思うんだが」
「私もそう言ったことがあったけれど、聞き入れてもらえなかったわ。男爵って、変なこだわりがあるのよねぇ」
フロージアが苦笑すると、ブリガンドがクチバシを開く。
「エーテルを操ること以外は能のない者の意見など、智者が受け入れるわけがないだろう」
「その私に助けられたのは誰よ? あなたなんかじゃ、ニンゲンに近付くだけで悶死してしまうくせに」
フロージアも負けじと言い返したが、焦土を見上げた。
「ブリガンドが死んでも別にどうでもいいけれど、焦土に死なれると困るのよ。私の所有物なのだから」
そう言う際に、フロージアはちょっとだけ目を逸らしていた。口角が微妙に曲がっていて、照れ隠しだとすぐに解った。ブリガンドもそれを察したらしく、顔を背けてしまった。明言されてはいないが、完全に焦土とフロージアはつがいだと思われてしまったらしい。
早急に否定しなくては。だが、否定するとフロージアが拗ねる。拗ねて暴れられたら、手が付けられなくなる。そうなったら、焦土の炎でさえも通用しないだろう。だが、曖昧な関係を続けるのは、どちらにとってもよくない。
しかし、丁度いい語彙が見つからなかった。
その後、アイオロス号は移動した。
フロージアに船首に立ってもらい、エーテルがなるべく薄い部分を選んで進むようにした。焦土もそれに倣ったのだが、エーテルの濃淡は皮膚感覚でしか解らないので、事前に感じ取ることは出来ない。しかし、フロージアは目視で濃淡が認識出来るので、的確に進行方向を指示していた。
けれど、エーテルの濃淡は雪原の凹凸とは無関係なので、目の前に氷塊があれば焦土が溶かし、クレバスが口を開けていればフロージアが氷で塞ぎ、傾斜がきつくて斜面を登るパワーが足りなければブリガンドの風の力で船体を押し、進み続けた。
そして、エーテルが最も濃い箇所であり、ニンゲンの発生源と思しき場所に到着したが、その頃には一昼夜が過ぎていた。普段、移動中はスティーブンソンに運転を預けているので、焦土達は身を休めることが出来るのだが、今回は働き詰めだったので、到着した達成感よりも働かずに済む安堵の方が先に立った。
アイオロス号を氷山の影に隠した後、焦土はスティーブンソン謹製の耐エーテルマスクを被り、外に出た。構造としては、焦土もよく知るガスマスクに似ているのだが、フィルターに当たる部分がエーテルアキュムレーターになっていて、呼吸と同時に吸い込んだエーテルを液状化して溜めておくことが出来る。そのエーテルアキュムレーターの弁が破損して中身がマスクの中に流れたら一発で死ぬのでは、と思わないでもなかったが、スティーブンソンに作ってもらった手前、文句は言えなかった。
氷山の先には、ぽっかりと大穴が開いていた。並々とした水が溜まっているように見えるが、その実は液体エーテルである。水と同様に無色透明で臭気もないが、フロージアでさえも顔を歪めたので、余程の濃度なのだろう。
その液体エーテルがどぷんと波打つと、白くぬるりとした頭部が突き出し、あの鳴き声を発する。るろぉおおおおおおぉぉぉおおん、くぉおおおぉぉぉぉおおおおおん、と高らかに咆哮してから、ニンゲンはずりずりと這い出してくる。液体エーテルから出てきた当初は、よたよたと進むのが精一杯だったが、ぶよぶよとした肉体に付着したエーテルが蒸発すると、雪原に力強く指を喰い込ませ、足のない下半身をくねらせ、一気に速度を上げた。
雪原を駆け抜けていく者もいれば、海に身を投じる者もいれば、這いずるだけでは飽き足らずに空高く跳躍する者もいる。ニンゲンが生まれてくる間隔は意外と短く、大きなニンゲンが出現しても、小一時間もすればまた別の個体が出現する。明らかに生物が繁殖する速度ではないし、兵器を量産する速度よりも早いのだから、やはり人間はまともな生き物ではないのだ。
「で、どうする?」
焦土はマスク越しに、氷の魔女を窺う。さすがのフロージアも、今回に限ってはマスクを付けていた。
「あの穴に溜まった液体エーテルを全て爆発させてしまえば、一瞬で片付くのではないかしら」
フロージアの発言に、スティーブンソンは首を横に振る。
「フロージアよ、それでは我が輩達も蒸発してしまうのだが」
「それどころか、この辺一帯の氷床も溶けて大勢死ぬぞ。少しは物事を考えたらどうだ」
ブリガンドに呆れられ、フロージアはむっとする。
「失礼ね。ここに来るまでに疲れたから、早く済ませたいだけなのだわ」
「それは解らんでもないが」
焦土は、マスクの下で口角を歪める。
「ううむ。うむうむ。少し待て。……うむ」
スティーブンソンはかちんと赤い単眼にシャッターを下ろし、瞬きさせてから、三人を見据えた。
「我が輩にいい考えが浮かんだのであるが」
「えっ」
「ええ……」
「嫌な予感がするんだが」
フロージア、焦土、ブリガンドの順番に微妙な反応を示すと、スティーブンソンは煙突に似た頭部から白い蒸気を噴く。
「まだ本題にも入っていないのに、その言い草は何だね。失礼にも程があるではないか。だが、ここでうだうだと文句を連ねて時間を浪費すれば、それだけ君達がエーテルに毒されてしまうので、今回は割愛させてもらおう。して、本題なのだが、我が輩が思うにニンゲンの発生源は液体エーテルの内部にあると思うのだ。その正体と突き止めると同時に破壊してしまえば、色々と手っ取り早いと思うのだ。して、液体エーテルの中に突入する方法についてであるが」
「え……」
それは絶対に死んでしまう。焦土は青ざめるが、スティーブンソンは続けた。
「まず、ブリガンドの力で風を巻き起こし、周囲のエーテル濃度を下げて空気と入れ替える。その上でフロージアの力で氷の薄膜を張ってもらい、氷のシャボン玉のようなものを作ってアイオロス号を保護する。そして液体エーテルの中にアイオロス号ごとドボンと飛び込み、内部の空気を冷やして徐々に降下していく。目的を果たしたら、今度は焦土の炎で内部の空気を暖めて上昇し、脱出する、という手筈なのであるが」
「いや、いやいやいやいや! 無理! 不可能!」
焦土が激しく首を横に振ると、ブリガンドも呻く。
「条件が完璧に整わなければ、絶対に成功しない作戦だ」
だが、しかし。
「面白そうだわ!」
フロージアだけは乗り気だった。尻尾をぶんぶんと大きく振りながら、手のひらサイズの氷のシャボン玉を作ってみせた。
「要するに、これの大きいモノを作ってしまえばいいのね!」
「うむうむ、さすがは我らが魔女! 話が早いのである!」
スティーブンソンはフロージアの手を取り、上下に振る。
「うふふ、楽しくなってきたわ。ニンゲン狩りはこうでなくっちゃ!」
フロージアは軽やかなステップで飛び跳ね、くるりと回った。この状況ではしゃげるのか、有り得ないだろ、と焦土は思ったが、迂闊なことを言うとフロージアの士気を削いでしまうので、ぐっと押し殺した。出来ることがあるとすれば、スティーブンソンの無謀を絵に描いたような作戦が成功するように祈ると共に、自らの力を信じることだけである。
うっかり死んでも、悔いのようにしたい。
ニンゲンは次々に生まれ、育ち、巣立っていく。
その間隔が途切れた頃合いに、アイオロス号は最大速度で突き進んだ。エーテルの濃度が高すぎるので、長居をすると配管に過負荷が掛かるからだ。焦土の能力も併用して蒸気機関の火力を増させ、速度を上げ、件の穴に迫る。
「ここまで来たら、腹を括るしかないな」
デッキに立ったブリガンドは嘆息してから、エーテルを含んで重たい翼を広げ、力一杯空気に叩き付けた。局地的な突風を巻き起こし、更に巻き起こして渦巻かせながら、別の風を起こして上空からエーテル濃度の薄い空気を引き寄せる。雪の粒が風の流れを縁取り、新鮮な冷気を含ませてくれたおかげで、焦土にも空気の流れが目視出来るようになった。筒状の空気が徐々に丸められ、球体と化す。
「今だ!」
ブリガンドの叫びと同時に、フロージアが杖の弁を開く。
「解っていてよ!」
彼女の杖から解き放たれた蒸気交じりのエーテルが噴出し、風の流れに従って球状に広がっていく。それと同時に氷が生じていき、氷の薄膜が渦を巻きながら形成されていき────アイオロス号を綺麗に包み込んだ。その際に内部のエーテルをある程度消費したのか、息苦しさが弱まったので、焦土はマスクを外した。美しく透き通った、氷の繭だ。
「おお、やれば出来るもんだな」
「でっしょー? 私を誰だと思っていて?」
得意げなフロージアに、スティーブンソンは言った。
「して、ここから穴の中まで移動させるわけであるが……」
「転がせばいいんでしょ?」
そう言ってフロージアは氷の繭の外を見、氷を作って氷の繭を押し出そうとしたので、スティーブンソンは彼女を止めた。
「それでは勢いが付き過ぎてしまうし、液体エーテルに落下した途端に氷の繭が割れてしまうかもしれないのである。ゆっくり、少しずつ進めるべきなのであるぞ」
「えぇー、じれったいわ」
「フロージアよ、ここで君がしくじれば彼が死んでしまうぞ」
スティーブンソンが焦土を指したので、焦土が肩を竦めてみせると、フロージアは渋りながらもスティーブンソンの意見を受け入れた。焦土は気まぐれな魔女の御機嫌取りの道具にされつつあるが、この場合、フロージアが頼りなのだから仕方ない。
大きな物体を少しずつ動かすには、小さく転がるものを下に挟んで移動させるという方法がある。つまり、コロである。遠い昔には、城塞や水路を作るための石材を運ぶために使った手段だそうで、その際には丸太を使用していた。なので、フロージアには氷の繭の下に氷の円柱を作らせてから、アイオロス号を使って繭の重心を移動させ、少しずつ前進させていった。
時間は掛かったが、その甲斐あって液体エーテルの穴に到達することが出来た。危惧していたニンゲンの出現もなく、無事に氷の繭は液体エーテルへと身を投じた。
僅かな浮遊感の後、氷の繭は海よりも粘性の高い液体に没していった。スティーブンソンの言った通り、氷の繭の内部の空気を冷やしていくと、徐々に沈み始めた。温度差による空気の収縮を利用しているのだが、当然ながら寒い。寒いったら寒い。
アイオロス号を含んだ氷の繭は、音もなく液体エーテルの中を降下していくが、これでは目的の場所に到達する前に低体温に陥りそうだ。低温を保つために、焦土は力を引っ込めているので、久し振りに寒さをまともに感じ取ってしまい、背を丸めてしまう。ブリガンドもまた、分厚い羽毛を纏っていても強烈な寒さには敵わず、羽毛をふっくらと膨らませて丸くなっていた。
「だらしないわねぇ」
冷気を発している当人だけは、しれっとしていた。事も無げなフロージアを横目に、焦土は二の腕をさする。
「無茶言うなよ……。ていうか、今、マイナス何度だ?」
「温度計は見ない方が身のためであるぞ」
低温で蒸気圧が下がったスティーブンソンが、弱々しく呟いたが、その声色もぼやけていた。発声器官の圧力が上がらないからだ。
「これでも手加減しているんだから」
フロージアは尻尾を振り回しつつ言い返したが、氷の繭の外に白い影が過ぎると、さすがに表情を強張らせた。この状態でニンゲンに襲撃されたら、氷の繭など一瞬で砕け散ってしまう。フロージアが抗戦して勝ったとしても、穴の外に脱するまでの間に、他の三人はエーテル中毒で果ててしまう。
となれば、ニンゲンの気を逸らすしかない。焦土は固唾を呑んでフロージアを見守っていると、フロージアはぴんと指を弾いた。ねっとりとした動作で巡っていた白い影は、何かに頭部を小突かれたらしく、穴の出口を仰ぎ見ると、好奇心に駆られて浮き上がっていった。ニンゲンの姿が穴の外に消えると、フロージアは尻尾をゆったりと振った。
「ニンゲンは動きが鈍いし、ぶよぶよしているから打撃系の攻撃は通用しないのだけれど、ちょっとした刺激を与えると、そっちに興味を惹かれるのよね。それは、どのニンゲンでも同じなのだわ」
フロージアは杖を抱き寄せ、ふと遠い目をした。今、何を考えているのか、知りたいような気がした。だが、エーテルの共振で知るべきではないな、と焦土は思い直した。どうせ彼女を知るなら、彼女自身の口から知りたいからだ。
降下し続けた後、緩やかだが確かな衝撃が訪れた。氷の繭が砕けるほどではなかったが、少しでも薄くなるとそこから液体エーテルが浸水してくるので、フロージアは氷の薄膜を重ねて強度を足した。それから、焦土が少しずつ内部の気温を上げ、皆が動ける程度の温度にさせてやった。
「ん」
氷の繭の下、アイオロス号の底に何かがある。焦土が目を凝らすと、フロージアはアイオロス号の底が触れている部分の氷をつるりと撫でて透明度を上げた。
「何かしら、これ」
氷の底に埋もれていたのは、卵型の物体だった。
「NOAHの筐体みたいだ」
焦土は身を乗り出したが、近付き過ぎると氷が溶けるので自重した。あのゲーム機に似ているが、それよりも大きい上に破損していて、内蔵された機械が露出している。赤と緑の光点が瞬き、規則正しく点滅している。
「……動いている!」
焦土が驚くと、ブリガンドもまた動揺する。
「旧世界の機械が生きているなんて、そんな」
「うっひょお、おっほお、ふへははははははははは!」
スティーブンソンは誰よりも興奮し、がしゅがしゅと意味もなく蒸気を噴き出した。
「やはり、やはりあれは幻覚でも空想でも妄想でもなかったのだ! 我が輩が所有している旧世界の機械は、百年前までは時折動いていたのだ! ガラスの板は光を放ち、文字と映像を見せてくれた! だがしかし、ゴフェル大公はそれを我が輩の誤作動だと言って取り合ってもくれなかった! 超新星爆発のガンマ線バーストで、全ての機械は朽ち果てたのだと言うばかりだった! だが、ほれ、ほれ見てみろ! 生きている機械が、そこにあるではないか!」
「落ち着きなさい」
フロージアはスティーブンソンを軽く凍らせてから、卵型の機械を見下ろした。
「でも、これってどんなことをする機械なの?」
「俺も初めて見る機械だ。だけど、恐らくは」
焦土は卵型の機械から伸びるパイプを見つけ、それを辿っていくと、折れ曲がったパイプの先端から白い肉塊がぶにゅりと吐き出された。殻を持たない卵のような肉塊は、ふるふると脈打ちながら浮上していくにつれ、体積を増していく。
「ニンゲンを作るための機械なんて、趣味が悪いわ」
フロージアが不愉快げに尻尾を振ると、ブリガンドは考え込む。
「いや……そうではないな。そうだな、うん、うむ。人間だった頃の俺は、積層都市の補強工事の他にもいくつか仕事をしていた。その中に移民船の搬入作業もあったんだが、その積み荷に似たようなものがあった」
「で、どこに搬入したんだ?」
焦土が問うと、ブリガンドは躊躇った後に答えた。
「バイオプラントだ。移住先の惑星の環境に適応した、次世代の人間や家畜を量産するための機械だ」
「イミンセンってことは、これも箱舟のものなの?」
フロージアの眼差しは、戸惑いに揺れていた。
「それじゃ、私達はこの卵から出てきたということなの?」
「その可能性は高い」
「……だったら、この卵は壊すべきではないのかしら」
「確実に壊すべきだ。壊さなければ、ニンゲンが生まれ続ける。あれを野放しにしておいても、いいことはない」
焦土が言い切ると、フロージアは少しの間の後、焦土と目を合わせた。
「そうね」
短い言葉には、決意と共に一抹の寂寥が含まれていた。もしかしたら、ニンゲン以外の種族が生まれるかもしれない。そして、その種族は氷の世界に素晴らしいものをもたらしてくれるかもしれない。そんな可能性もまた、旧世界の遺物には宿っているからだ。けれど、ニンゲンは何も与えはしない。過剰なエーテルと正体不明の金属板を寄越すが、それだけだ。そう、それだけなのだ。
魔女が放った氷の刃が、化け物を産む卵を砕いた。
氷の繭が浮上すると、穴の周囲は濃い霧に覆われていた。
その粒子が何で出来ているのかは、考えるまでもない。卵型の機械を壊した影響なのか、急激にエーテルが気化し始めたのだ。液体エーテルがアイオロス号まで浸水する危険性は減っても、ガス状のエーテルに触れ続けてはやはりダメージを負うので、穴から脱した後は急げるだけ急いで離脱した。
エーテルの霧から脱し、穴から遠ざかると、ようやくアイオロス号は落ち着きを取り戻した。焦土とブリガンドはマスクから解放されたので、エーテルアキュムレーターに溜まった液体エーテルを保存容器に移した。スティーブンソンもまた本来の蒸気圧に戻ったが、先程の興奮の余韻が抜けないらしく、奇声じみた笑い声を上げていた。そして、今回の最大の功労者である氷の魔女は、疲れ果てて寝入ってしまった。
「寝ている分にはいいんだがなぁ」
ブリガンドは暖炉の前で体を丸めるフロージアを一瞥し、リビングを後にした。配管の修理やら何やらで忙しくなるからだ。
「ご苦労様」
焦土がフロージアの頬に左手で触れると、フロージアは目を覆う瞬膜は開けないまでも、焦土の左手に頬を摺り寄せてきた。無意識の行動なのだろうが、思わずぎくりとする。これ以上触れたら、余計なことを考えてしまうので、焦土もまたリビングを後にした。いつのまにか日没を迎えていたが、太陽は雪原の地平線に入り切らずに赤らんだ光を零していた。
また、淡い夜が訪れる。