奪われぬもの
擦り傷、切り傷、打撲に出血。
鳥人の群れに襲われて負った傷の量は、十や二十では収まらなかった。真新しかった義手も傷だらけになったが、造りが頑丈なので動作にも機能にも問題はなかった。だが、焦土当人はそうもいかない。傷を塞ぐためなのか、傷口から炎が出てくる。
自分の意思で発した炎に関しては、どういうわけだか熱さも痛みも感じない。酸素を燃焼させて作った炎ではなく、エーテルで作ったものなので、エーテルを変質させた当人に対しては影響を及ぼさないようになっているのかもしれない。だが、焦土の意思とは無関係に発した炎はそうではない。傷口は火傷するし、何よりも────。
「熱い……」
焦土はデッキにうずくまりながら、ぼたぼたと汗を垂らしていた。周囲の気温は氷点下なのに、焦土だけは真夏の如しだった。
「いや、まあ、本物の夏なんか知らないけどさ……」
遠い昔、氷河期が訪れる前の地球には気候変動があり、一年周期で寒気と暖気が入れ替わっていたそうだ。中でも特に気温と湿度が高い時期が、夏と呼ばれていたらしい。そういえば、小学生の頃に博物館に行った時、氷河期以前の気候を再現した部屋に入ったことがある。春は優しく、夏は鮮烈で、秋は乾いていて、冬は積層都市の外気よりもぬるかった。
「なんで水が出るの?」
フロージアは焦土を覗き込み、首を傾げる。
「汗だよ。涙の延長みたいな体液だ」
「何の意味があるの?」
「ええと……そうだな、水分を皮膚で蒸発させることで体温を調節するんだ」
「よく解らないわ」
「そりゃそうだろ。トカゲは汗を掻く必要がないからな」
焦土はひどい喉の渇きに襲われたので、雪を溶かした水を詰めたボトルを取り、呷った。が、喉に流しこんだ傍から湯に変わる。
「なんで火が出るのかしら」
フロージアが焦土の傷口を観察する。
「俺が知りたい」
焦土は傷口を手で塞ぐも、炎は消えなかった。それどころか、指の間からちろちろと炎の舌が零れ出す。
「私はケガをしても、普通に血が出るだけなのに」
「なんだ、氷で塞がったりはしないのか? さっきは俺の傷を氷で塞いでくれたってのに?」
「あれは応急処置よ。ケガをした時はとりあえず氷で塞いで、エーテルと血の流出を止めるから。他の魔女がどうしているかは知らないけどね」
「血よりもエーテルの方が優先順位が高いのか」
「そりゃあね。血は食べて寝れば元に戻るけど、エーテルを充填するのは無理だもの。私達が普段消費しているのは、大気に含まれている外側のエーテル。内側のエーテルは、最初から量が決まっているのよ。で、その量が多ければ多いほど、エーテルを操る力も高いというわけ。そして、その力と量が際立っている者を指す言葉が魔女なのよ」
得意げなフロージアに、焦土は疑問をぶつけた。
「男の場合はなんて呼ぶんだ?」
「え」
「ほら、俺は男だろ。で、この有様だろ?」
焦土がぱちんと指を弾いて炎の球を作ると、フロージアは腕を組んだ。
「う、うーん……」
「え? もしかして、魔女しか呼び方がないのか?」
「赤道国家だと、ゴフェル大公がエーテルの量の多さに応じて爵位を与えていたんだけど、それ以外の野良はなんて呼ぶのかしら。そういえば、考えたこともなかったわ」
「野良って」
ひどい言い草である。焦土が頬を引きつらせると、フロージアは唸る。
「困ったわね。あなたの立ち位置に似合う呼び方が解らないわ」
「魔法使いとか、魔術師とかは?」
「なんだか違う気がするわ」
「まあ、そうだな。魔人ってのも変だな」
「困ったわねぇ」
フロージアがため息を零したので、焦土も首を捻る。
「参ったなぁ」
しばらく考え込んでも、それっぽい呼び名は思い付かなかった。だが、これで腑に落ちたこともある。焦土があのまま赤道国家に連行されていた場合、“焼却騎士”との爵位が与えられる予定だったのは、体内のエーテル量に応じたものだったのだと。
「……ん」
焦土は考え込み、指折り数える。大公が最上位ということは、その下に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、騎士と続くわけだ。となれば、あの“略奪伯爵”は上から三番目に位置する。
「リンタオロンって、そんなに強いのか?」
「うへっ」
フロージアは声を潰し、後退った。その拍子にばきばきと氷が迫り出して二人の間に壁を作ったが、すぐに溶けてしまう。浅い水溜りが蒸発してから、フロージアは目を泳がせる。
「なんで、あいつのことを」
「いや、この前のアレでな」
焦土が苦笑すると、フロージアは膝を抱えた。尻尾がびしばしとデッキの床を叩き、不機嫌さを現している。
「強いと言えば強いかもしれないけど、私は嫌いよ」
「性格が悪いのか?」
「ねちっこくて嫌味ったらしくてしつこくて、私を上手く使うどころか持て余してスティーブンソンのところに丸投げしたのよ? そんな奴の性格がいいわけがないじゃない!」
「でも、ディノサウロイドなんだろ?」
「だからって、私の好みとは懸け離れているのよ」
「トカゲ同士なのになぁ」
「種族が! 違うの!」
フロージアは尻尾を振り下ろし、ばあんっ、と鉄板を叩きのめした。
「私は羽毛恐竜とイグアナの合成で、あいつは純正のヴェロキラプトル!」
「合成? ……あ、そうか。フロージアは歯がないもんな。恐竜は草食でも肉食でも歯があるのに。というか、うん? 合成?」
焦土がぎょっとすると、フロージアはきょとんとする。
「何よ、その反応は。私達みたいな生き物が進化して出来上がったとでも思っていたの? 馬鹿ねぇ、物を知らないのねぇ」
「一万年も時間があれば動物が人型に進化するのに充分かと思ったんだが、違うのか?」
「違うに決まっているじゃないの。それに、生物が進化するのには一万年じゃ短すぎる、ってスティーブンソンが言っていたわ。何千万年、何億年も時間が掛かるんですって。だから、私達は箱舟から出てきたの」
「へ」
「だから、箱舟から出てきたの。そこの箱舟には誰もいなかったみたいだけどね。一千年前から、ずっとそうなっているの。ゴフェル大公も例外じゃないし、スティーブンソンだってそうよ。だから、焦土もきっとそうなのよ」
「……それって、つまり」
焦土が言葉に詰まると、炎が弱まって煙が漂った。新天地を求めて宇宙へと旅立ったはずの移民船のいくつかは、地球に墜落したか、発進出来ずに氷の下に埋もれてしまったのか。だとすれば、最後の人類の苦労は全て無駄だったということになる。希望を抱いて移民船に乗り込んだ人々も死に、長い旅路を耐えるために積み込まれた物資も使われずじまいだ。なんて空しいんだろうか。
────だとすれば、人間もやはり箱舟から出てきたのだろうか。コールドスリープで一万年もの年月を越えた人々は、新天地に到着したと喜び勇んで外へ出たはいいが、変わり果てた地球を目の当たりにして絶望したに違いない。そして、人類に代わって文明を築きつつある獣人達に複雑な感情を抱いた末に敵対するようになったのだろう。
一度は人間達と会うべきか。だが、しかし。焦土は逡巡した末に、汗ではなく炎が滲み出す左手を見つめ、握り締めて炎を消した。今はまだ、その時ではない。だから、人間達と会うべきタイミングが来るまで待とう。
焦ったところで意味はない。
遅い朝食を摂る頃合いに、異変が起きた。
アイオロス号の上空に、複数の影が巡り始めた。黒く大きな翼を広げた鳥人達で、昨日、焦土を襲った盗賊団に間違いなかった。すぐに襲撃してくるかと思いきや、こちらの様子を窺っているらしく、ぐるぐると弧を描きながらアイオロス号を取り囲んでいる。
デッキに出てきたスティーブンソンは赤い単眼にレンズを重ね、鳥人達を見上げていたが、唸る代わりに蒸気を噴出した。
「表立って攻撃を仕掛けてくれれば、我が輩も手の打ちようがあるというものだが、様子見されているだけではなぁ」
「こっちから仕掛けちゃダメなの?」
フロージアが不満げに尻尾を振ったので、スティーブンソンは首を横に振る。
「無駄な戦闘は避けるべきだ。フロージアよ、我が輩達は赤道国家から別離しているのだぞ? かつての我らは潤沢に物資を与えられていたが、それは爵位と魔女の地位があってこその話であって、我らは反逆罪で裁かれてもなんらおかしくはない。シリウスとミスティが我らに手を下さなかったのは、ゴフェル大公から何らかの命令が下されていたからであろうな。そうでなければ、今頃は死体と化して雪に沈められているか、四肢を潰されて連行されていたところであろう。それは焦土とて例外ではないぞ」
「俺は完全な被害者だぞ」
焦土がむっとすると、スティーブンソンは若き魔女を諫めた。
「というわけであるからして、我が輩達からは何も仕掛けない。いいね、フロージア? 解ってくれたかね?」
「それはもっともではあるけれど……」
フロージアは不満そうだったが、上空を指した。
「こういう場合はどうするの?」
「どうって……」
スティーブンソンはフロージアの視線の先を辿り、蒸気を盛大に噴出した。鳥人達が弓に矢をつがえ、鋭い切っ先を三人に向けていたからだ。弓矢は移民船から取り出したであろう金属やカーボンで出来ていて、それだけであればアイオロス号には傷は付かないだろうが、エーテルを込めて撃たれれば話は別だ。
「ええと、その、どうするべきであるかな」
スティーブンソンが答えあぐねていると、一羽の鳥人が翼を畳み、滑らかに降下してきた。その姿を見、焦土は肝を潰す。
「ブリガンド!?」
昨日、散々焦土を痛め付けた張本人だ。武装した鳥人は三人の頭上をぐるりと巡ってから、デッキの手すりを足で掴む。足の爪は鋭く、ぎちりと鉄に食い込む。兜に眼帯を付け、厳つい鎧で胸を覆い、脛当ても付けている。身軽さが売りの鳥には武装は重荷でしかないのでは、と焦土はちらりと思ったが、彼なりに盗賊団の首領に相応しい格好を追い求めた結果なのかもしれない。
「我が輩達にケンカを売りに来たのかね? それとも、我が輩達が箱舟から得た物資を奪いに来たのかね? 後者であれば、それ相応の対価を払ってもらえれば、仕事として請け負うのだがね」
スティーブンソンが一歩前に出ると、“盗賊首領”ブリガンドは右目を上げる。猛禽類ではないのに、その眼差しは力強い。
「いや、そのどちらでもないな。蒸気男爵」
「では、何だね? 昨日はうちの焦土を散々可愛がってくれたようだが、我が輩達に報復をする機会を与えてくれるというのかね?」
スティーブンソンがフロージアを一瞥すると、ブリガンドは肩を竦める。翼と腕が一体化しているので、その拍子に羽根が揺れる。
「まさか。そこの氷の魔女と戦っても、勝ち目があると思うか? 俺は曲がりなりにも賊の頭目だ、勝てない戦いを仕掛けるわけがないだろう? だが、我が部族の誉れ高き魔女、テンペスタを喰われたからには、黙っていられるわけがない」
「何よ、そんなこと」
フロージアがつんと顔を背けると、ブリガンドは上空を仰ぐ。盗賊団の部下達がぎゃあぎゃあと喚き散らし、矢を放ちたがっている。
「テンペスタは我らの誇りだった。幼い頃から、その力を振るって俺達の仕事を手助けしてくれた。そんなテンペスタに魔女の死角があると知り、赤道国家に召し上げられた時は、それはそれは喜ばしかったものだ。テンペスタの働きが良ければ、行く行くは我らも赤道国家の民になれるのではないかと思いもした。だが、そのテンペスタが死んだと剛腕子爵から知らされたのだ」
「あのクマめ」
フロージアが舌打ちすると、スティーブンソンがまた諫める。
「御行儀がよろしくないのでやめなさい」
「仇討ちってわけか」
焦土が肩を竦めると、ブリガンドはばさりと両翼を広げる。
「賊にも矜持はある。テンペスタの弔い合戦ではあるが、勝った者には欲しいものをくれてやる! だが、お前達が負けた場合は、欲しいものを奪わせてもらおう!」
「上等じゃないの」
フロージアが胸を張ると、スティーブンソンが慌てる。
「安請け合いしちゃダメなのだよ、もう」
「で、誰がその戦いをするんだよ。やっぱりフロージアか?」
焦土が訝ると、ブリガンドは真っ直ぐに焦土を指す。
「お前だ。炎の男よ。俺の戦いの相手となれ。そして、俺がお前が欲しい」
「へ」
焦土が目を丸めると、フロージアが焦土の腕を掴む。
「嫌よ! 焦土は私の所有物なんだから!」
「ほーら、言わんこっちゃないのだ」
スティーブンソンが呆れる。
「お前を得れば、我らの村には大きな利益となる。暮らしも随分と楽になるし、盗賊稼業も捗る。お前達が弔い合戦の対価に何を得たいのかは、これから決めるといい。一時間は待ってやる」
ブリガンドはそう言い残し、ばさりと羽ばたいて飛び立っていった。冗談じゃないわよっ、とフロージアは怒鳴り、焦土にしがみついてきた。そのせいで氷が生まれて足元が凍り付いたが、焦土の熱ですぐさま溶けてしまう。
「……どうすんだ、これ」
焦土は唖然としながら、スティーブンソンと目を合わせる。
「モテるのも考え物であるな」
いやはや、とスティーブンソンが両手を上向けたので、焦土は心底げんなりした。他人事である。もうちょっと深刻に考えてほしいものだが、手の打ちようがないのも事実である。
ブリガンドの言うことはもっともだ。同族の仇討ちをしたいと思うのも、その報いとして報酬を得たいと思うのも、この世界では当たり前の価値観だ。赤道国家の外側の世界では、欲しいものは奪い取るしかないからだ。だが、しかし、焦土自身が報酬にされるとは思ってもみなかった。
そこで、ふと気付く。勝負の勝敗を決めるのは何だ。スポーツではないので、明確な勝敗のルールはない。生か死が、イコールで勝敗になるのでは。だとすれば、ブリガンドは焦土を殺すつもりなのか。背筋に嫌なものが這い上がってきたが、焦土は拳を固めた。
戦うしかないのか。
一時間後。
アイオロス号から程近い場所で、鳥人達が円陣を組んでいた。焦土はその中心に立たされ、ブリガンドと向かい合っていた。フロージアとスティーブンソンはアイオロス号で待機している、というか、焦土に近付くなとブリガンドから厳命されたのである。つまり、援軍は望めない。
昨日の傷も癒え切らないまま、焦土は背筋を伸ばした。これまで、まともな戦闘なんてしたこともない。エーテルに慣れるために能力を乱発したり、シリウスとミスティから逃れるためにエーテルアキュムレーターを使って爆発的な火力を得たことはあったが、誰かに力を向けたことはない。テンペスタの乗ったグライダーを攻撃したのもフロージアだったし、ニンゲンと戦ったのもフロージアだ。
出来れば、誰とも戦いたくない。恐怖と同等の嫌悪感に襲われながらも、焦土はエーテルに意識を注ぎ、熱量を上げていく。自分が傷付くのは嫌だが、他人を傷付けるのはもっと嫌だ。それはただの綺麗事だと解っているし、この世界ではそんな世迷言は通用しないと知っている。────けれど。
鳥人が一声鳴き、戦いの始まりを告げる。迷いを振り切れないまま、焦土は駆け出した。雪を蹴散らし、踏み締めた雪を水に変えながら、ブリガンドに迫っていく。ブリガンドはそれを避けようともせずに突っ立っていたが、焦土が拳と共に炎の塊を打ち出した瞬間、突風が吹き抜けた。
「んぐっ」
猛烈な風は焦土の炎を煽り、渦巻かせ、足場を揺らがす。
「素人だな!」
ブリガンドの翼が風を殴り、焦土を完全に浮き上がらせた。直後、鳩尾を蹴り上げられ、渦巻く風の中に放り込まれる。もしかして、この力は、と頭の片隅で考えることが出来たのは一瞬だった。浅い竜巻をブリガンドの翼が切り裂くと同時に、強烈な回し蹴りが飛んできた。がりぃっ、と足の爪が頭皮を削っていく。
「ぎぇあっ!」
髪が散らばり、血が飛ぶ。焦土は浅い竜巻から放り出され、雪原に転げ落ちる。背中から硬い雪に突っ込み、頭皮の傷と痛みに呻いていると、頭上に影が被さった。それに気付くよりも早く、ブリガンドは急降下し、矢のように焦土の腹に突き刺さる。
「げぅっ」
痛すぎて、声らしい声は出ない。焦土は体をくの字に折り曲げながら炎を発し、溶けた雪に没した。げほげほと咳き込んでいると、頭部を足で掴まれる。
「話にならんな」
げひゃげひゃげひゃっ、と鳥人達が高らかに笑い合う。当たり前だろ、俺は賊でも魔女でもないんだ、と焦土は言い返したくも、ブリガンドの足が頭蓋骨を締め付けてくる。これを離させなければ、頭蓋骨が割られて脳が潰される。確実に命の危機だ。
「壊し過ぎると使いづらくなる。エーテルが消えぬ程度に腹を裂いて、臓物を二三千切ってやろう。なあに、魔女に等しい力を持つ者は、そう簡単には死にはせんよ」
ブリガンドのもう一方の足が、焦土の胸に載せられる。彼の体重が掛かり、肋骨が悲鳴を上げる。心臓どころか、その下の脊椎までもが潰れそうだ。それを堪えるために炎を出そうとするが、脳の血流が鈍っているのか、上手く集中出来なかった。そのせいか、脳裏に過去の記憶が過ぎる。ああ、これが走馬灯か、と焦土が古い言葉までもを思い出していると、ブリガンドの足が僅かに緩んだ。
「────っ、うぁ」
その隙を見逃さず、焦土はエーテルを燃焼させる。一瞬、炎が渦巻いて壁を成すと、ブリガンドはすかさず身を引く。
「お前、は」
怯んだ。焦土は身を起こし、その隙を見逃すまいと攻撃に転じようとするも、ブリガンドは攻勢を緩めはしなかった。滑らかに影が翻り、焦土の側頭部がブリガンドの足に薙ぎ払われる。首と頭部に猛烈な打撃が及び、焦土は呆気なく吹っ飛ばされた。
ケンカもしたこともないのに、勝てるわけがない。
全身が痛い。
焦土は重たい瞼をこじ開け、息を吸うが、空気が粘ついたように重たくて上手く吸えなかった。口の中には血の味が広がり、裂けた頭皮が鋭く痛んでいるが、出血は止まっていた。ぼんやりと濁った視界に映るのは、冴えた青空でも雪原でもアイオロス号の中でもない、見たこともないものだった。鉄骨を組み合わせ、獣の皮を張ったであろうテントの屋根だった。
「……う」
焦土が呻きを零すと、声が掛けられた。
「まだ動くな。エーテルが足りていない」
テントの外側から聞こえてきたのは、ブリガンドの声だった。焦土がぎょっとして身を起こそうとするが、貧血のように目眩が起き、ぐらりと視界が捻じれた。とてもじゃないが平衡感覚を保てず、焦土は再び横たわるしかなかった。
「あんたは、俺を細切れにするんじゃなかったのか?」
「そのつもりだったとも。だが、事情が変わった。だから、この俺がわざわざお前を連れ帰って、こうしてエーテルテントに入れているんじゃないか。じっとしていろ、傷の治りが早くなる」
「酸素テントみたいなものか」
焦土はゆっくりと深呼吸する。喉の奥に血が溜まっていたので、それを吐き出してから、柔らかなものに背を沈める。アイオロス号では鉄板の上に寝ていたので、寝心地が良すぎて眠くなりそうだ。獣の体毛だろうか、だとしたら燃えてしまうんじゃないか、と危惧したが、ふかふかとしたものは焦土の熱を帯びても炎を発しなかった。
「ん……」
一体なんだろう、と背中の下からクッションを取り出してみたが、薄い羽が付いた筒状の物体が出てきた。ビニールのような半透明の素材で出来ていて、全長は四〇センチ程度だ。中身が空っぽなのか、弾力がある。まじまじと眺めていると、筒状の物体はぴちぴちと跳ね回ったので、焦土は心底驚いた。
「うわぁっ、なんだこれ!?」
「スカイフィッシュを知らんのか。そいつらはエーテルを体内に貯め込んでおくから、何かと便利なんだよ」
テントの外から、ブリガンドが呆れた様子で呟いた。
「となれば、お前は余程エーテルの薄い土地から来たということになるな。赤道国家もいよいよ人材不足が深刻になってきたか」
ブリガンドはテントの裾をめくり上げ、水を入れた器を寄越してきた。焦土は少し迷ったが、澄んだ水を口にして喉を潤した。徐々にエーテルが効いてきたが、出血と痛みは収まっていないので、何か食べても胃が受け付けないだろう。
だが、ブリガンドの真意が読めない。初めて会った時には明確な殺意を持って襲い掛かり、二度目の襲撃では鹵獲しに掛かってきた。そして、ブリガンドにあっさり負けて身柄を奪われたはいいが、拷問も受けず、拘束もされずに治療を受けている。焦土がテンペスタの仇だと言い張るのなら、焦土が昏倒した段階で生きたまま解体した方が、部下達に示しも付くだろうに。盗賊なのだから善人ではないだろうが、単純な悪人でもないのだろう。
「テンペスタの最期を教えてくれ」
ブリガンドの語気は平坦だったが、複雑な感情が滲んでいた。焦土はしばらく迷ったが、あの夜の出来事を述べた。
「数日前の夜中、俺達が乗る船の近くに、赤道国家のグライダーが通り掛かった。それをフロージアが襲撃して、グライダーが墜落した。フロージアはテンペスタの心臓を喰い、俺達は積み荷を奪った」
「それだけか」
「それだけだ」
焦土が言い切ると、ブリガンドはしばらく考え込んだのか押し黙った。長い沈黙の最中に聞こえてきたのは、鳥人達の生活音だった。盗賊団とはいえ、その実態は鳥人達の集落なのだろう。オス達の声には、女子供の声も混じっている。焦土と同じ言葉を使ってはいるが、訛りがきついので聞き取れない単語も多かった。
ひりつくような緊張感が張り詰めていて、焦土は息を吸うのも憚られた。少しでもブリガンドの機嫌を損ねれば、今度こそ焦土は殺されてしまう。焦土の命を助けたのは、盗賊首領のほんの気まぐれに過ぎないだろう。だから、二度はない。
「テンペスタの肉と骨はどうした」
「フロージアが雪に埋めた」
「そうか」
ブリガンドは短く答え、翼を窄めたのか、彼の影絵が縮んだ。
「テンペスタは俺の妹だった。俺と同じく盗賊稼業に勤しんでいたんだが、男に嫁ぐ頃合いで赤道国家の貴族に見初められ、魔女として召し上げられた。その時に、俺はテンペスタは死んだものだと腹を括った。二度と出会うまいと覚悟を決めたつもりでいたんだが……テンペスタの名を出されただけで、この有様だ。情けない」
「だったら、昨日の襲撃と今日の戦いは」
「何の意味もない。俺の憂さ晴らしに過ぎない。ああ、それなのにだ、俺は部下共を動かしてしまった。完全に見誤った」
「それは、つまり」
焦土が臆すると、ブリガンドは浅く笑う。
「部下共に見限られる時が来た、ということだ。それでなくても、俺は長らく首領の座に就き過ぎた。なあに、よくあることだ。俺も父親を首領の座から引き摺り落とし、片目と引き換えにこの座に就いたのだから、次の者が俺を引き摺り落としに来るのが道理だ」
「それでいいのかよ、あんたは」
「不思議なもので、お前と拳を交えたことで諦めが付いた」
「なんだそりゃ」
「────俺は夢を見るんだ。旧時代の夢だ」
ブリガンドの声色が、不意に柔らかくなる。
「物心つく前から、ずっと同じ夢を見続けていたんだ。箱舟が身近にある暮らしをしていたから、心のどこかで旧世界に憧れを抱いていたが故の妄想だとばかり思っていた。だが、お前と戦ってエーテルが共振し、記憶を覗いたら、俺の夢と全く同じ光景が見えた。俺の妄想ではなかったのだと知ることが出来た。だから、気は済んだ」
「そんなことで?」
焦土が面食らうと、ブリガンドは弱く笑う。
「些細なことほど、心の奥底に引っ掛かるものだ。他の連中には言えないが、初対面のお前であれば言える。俺は、その夢に囚われていた。夢の中の俺は盗賊でもなければ鳥人でもなく、全く別の人生を歩んでいた。その俺こそが本物の俺で、盗賊の俺は本当の俺でなかったとしたら、夢と現実が逆転する日が来るのではないか、と想像に耽ることも多かった。しかし、そんなことはなかった。俺はやはり盗賊首領でしかなかったんだ」
エーテルの粒子が波打ち、焦土の内側にブリガンドの心情が響いてしまう。ああ、知りたくない。知る必要もないことばかりだ。だが、体の傷が開いているから、それを妨げることも出来ない。スカイフィッシュ達は柔らかく膨らんだ体をぷるぷると震わせ、ブリガンドの心の揺らぎを増幅して焦土に流しこんでくる。
意識の奥底にこびついた妄想の如き記憶が、テンペスタが魔女となって旅立った時に抱いた強烈な羨望によって浮き上がってきたところに、焦土の記憶を見てしまった。盗賊首領としての立場も経験も誇りも、憧れの前にはあまりにも脆弱だった。
焦土には、その気持ちは解ってしまう。分厚い雪と氷に閉ざされ、死の匂いが蔓延した積層都市で、心を保つには物語の世界に逃避するしかなかったからだ。もしも、その物語に近付けるとしたら。同じ物語を知る者と出会ってしまったら────。
心臓が疼き、焦土は息を詰めた。ダメだ、こいつを誘ってどうする。アイオロス号に乗るのは、俺とフロージアとスティーブンソンだけで充分じゃないか。だが、ここでブリガンドを見捨てたら、過ちを犯して死に急ぐ男に背を向けたら、自分の中の何かが崩れ去ってしまうような気がする。
「……あ」
あのさ、と焦土は幕越しに声を掛けようとしたところで、盛大に床が揺れた。その拍子にスカイフィッシュ達がぴちぴちと跳ね回り、互いにぶつかり合っては中身のエーテルを噴出していた。
「連中か? いや、それにしては早いな」
ブリガンドが幕の向こう側で立ち上がるが、やけに静まり返っていた。先程まで聞こえていた鳥人達の話し声も聞こえなくなり、物音一つしない。焦土は恐る恐る幕を上げ、エーテルテントの外に出ると、視界が白く濁っていた。
「霧の魔女だ」
「あ、ああっ」
部屋の外に飛び出したブリガンドは、倒れ伏した仲間達に駆け寄る。焦土も痛む体を引き摺って外に出ると、小屋が連なる集落で鳥人達が昏倒していた。焦土は息を吸い込んでみるが、エーテルの薄さは感じない。それどころか、エーテルが濃密すぎて、吸い込みすぎると目眩がしそうだ。つまり、エーテル酔いを起こさせたのか。
「ふっふふーん」
鼻歌が聞こえると同時にエーテルが渦を巻き、平べったい袋がぐるぐると巡っていたが、突然膨らんで形を成した。修道女のそれに似た服を着た、ガスマスクにラバスーツの女が出来上がる。その女は小屋の屋根に舞い降りると、片手を掲げる。すると、どこからともなく巨大なハンマーが飛んできた。
「よい、っしょとぉ!」
“霧の魔女”ミスティはハンマーを掴むと、無造作に担ぐ。
「おおっと、これは好都合じゃーん! 焼却騎士と盗賊首領が一緒にいるなんて、ミスティは幸運だなぁ!」
「何しに来やがった!」
焦土が怒鳴ると、ミスティは小首を傾げる。
「何ってそりゃ、失敗を取り戻しに来たんだよぉー。ミスティとシリウスは焼却騎士の奪取をせよとゴフェル大公から直々に命じられたのに、それが出来なかったんだもん。だから、しばらく泳がせていたんだけど、そしたら盗賊団まで出てきたから、都合がいいなぁーって」
「喋り過ぎだ、ミスティ」
霧を振り払いながら現れたのは、巨漢のホッキョクグマだった。
「ならば、これ以上の説明も必要あるまい」
焦土が身構える間もなく、シリウスは力強く踏み込み、巨体を弾き飛ばして距離を詰めてきた。剛腕子爵の名の通りだった。恐らく、彼はエーテルを身体強化にだけ用いている。それ故に、凄まじい怪力とそれに応じた身体能力を得たのだ。
最初の拳は避け切れなかった。ごぎりぃっ、と特大の拳が焦土の下腹部にめり込み、内臓を歪ませて脊椎を軋ませる。目を見開いて舌を突き出し、飲んだばかりの水を吐き戻す。
「盗賊如きに興味はないが、邪魔をされては困るのでな」
シリウスの鮮やかな膝蹴りが、ブリガンドの腹を抉る。彼もまた背中を折り曲げて吹き飛ばされ、勢い余ってエーテルテントに突っ込んだ。混乱したスカイフィッシュ達がふわふわと漂う中、シリウスは大股に小屋に入る。
「盗賊団を討伐した暁には、あの箱舟は私の領地とする」
「……う」
焦土は気絶しかけながらも、辛うじて意識を保っていた。が、背中を重たいもので圧迫されて悶絶する。それは、ミスティのハンマーだった。
「子爵の邪魔をしちゃダメだよぉ」
「箱舟から生まれし者達は、赤道国家に貢献すべきだ。赤道大公の統治があればこそ、我らはこの星の主となれる。だというのに、お前達は外で勝手なことをしている。学もなければ文化もなく、言葉を使うだけの獣に過ぎん。……だが、私は違う」
シリウスは無造作にブリガンドの頭を掴み、持ち上げる。
「エーテルを通じ、お前達の会話を聞いた。盗賊首領よ、お前もまた旧世界を知る者であったか。だが、それは赤道大公にだけ許されたことであり重大な罪だ。焼却騎士よ、お前もまた罪深い」
「へ」
焦土が面食らうと、シリウスはハンマーに押さえ付けられている焦土を一瞥する。
「それすらも知らぬか。ならば、身をもって教えてやろう」
「いえーい、やっちゃえ!」
ミスティがぴょんと飛び跳ね、ハンマーを外す。そして、円筒形の鉄塊を空中で高々と掲げながら、軸に内蔵されたエーテルアキュムレーターの弁を開けに掛かる。シリウスはブリガンドを投げ捨てると、マントを翻してグローブを露わにすると、両手首に付けた金属製のリストバンドの弁を開ける。小型のエーテルアキュムレーターだった。
あ、これは死ぬ。二人に狙いを定められ、焦土は肝が冷えた。蒸気と共にエーテルが噴出する音が鳴り響き、空気が熱し、危機感を覚えたスカイフィッシュの群れが逃げていく。ミスティが軽やかに振りかぶり、シリウスが駆け出す。焦土は硬直したが、ブリガンドと目が合い────心臓が脈打った。
「うるっせぇえええええっ!」
着火、燃焼、爆発。一瞬で二人の狙いから脱した焦土は、ブリガンドの前に滑り込み、彼を背にして義手を構える。爆炎が過ぎ去ると、攻撃が空振りに終わったシリウスとミスティが焦土を見据えていた。その眼差しの冷たさに臆したのは束の間だった。
「赤道大公ってのは、人の記憶に文句を付けられるほど偉いのかよ? 何様だ、神様のつもりか? 生憎だが、俺は俺だ! 焦土である以前に一万年前の人間だ、たぶんブリガンドもだ! そんなん、個人の自由じゃねぇかぁっ!」
エーテルが蔓延しているというのなら、それを全て燃やしてしまえばいい。訳が解らなくなるほどの憤りに任せ、焦土は炎の塊を放ち、炸裂させた。シリウスとミスティが身を引くよりも早く、炎は膨れ上がる。空を焦がさんばかりに立ち上った火柱に雪が巻き上げられ、スカイフィッシュの群れも巻き込まれていったが、不思議と一匹も燃えた様子はなかった。轟々と燃え盛る炎を睨んでいたが、焦土は左手を拭ってからブリガンドに手を差し出す。
「行くぞ」
どこへ、とは彼は聞かなかった。エーテルを全て燃やしてしまえば、彼の部下達はエーテル中毒に陥らずに済むと解っていたからだろう。ブリガンドは焦土の肩を借り、翼を広げずに歩き出した。炎が荒れ狂う集落を脱し、移民船を目指して歩き続けると、雪原の彼方からアイオロス号がやってきた。
蒸気によってキャタピラを力強く回転させながら走行する船からは、氷の魔女が身を乗り出していた。焦土が片手を上げると、フロージアは何かを叫んだが、アイオロス号の走行音に掻き消されて聞こえなかったのが残念だった。
「正直、俺はあんたに対してどう接すればいいか解らない。というか、スノーモービルをぶっ壊された恨みは絶対に忘れないからな。余程のことがない限り、許しはしないからな。言いがかりを付けられて襲われて、ケガが治っていないのにまたやられて、さっき無茶をしたせいで義手がガタガタになっちまった。けどな、文句をぶちまけてケンカをするのは、俺もあんたも休んでからだ」
「……ああ」
ブリガンドが弱々しく応じたので、焦土は気合を入れ直した。今、自分を突き動かしているのは、安易な同情やちゃちな正義感ではない。シリウスとミスティへの苛立ちであり、赤道大公ゴフェルの理不尽さに対する怒りであり、不甲斐ない自分への悔しさからだった。出来ることなら、一万年前の自分に言ってやりたい。
ケンカの作法ぐらい覚えておきやがれ、と。