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スノーボール・アースの長すぎる午後  作者: あるてみす


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1/16

銀の花は斯くも儚く

 ────終末は、意外とあっさりと訪れた。

 地球の地軸がほんの少しだけ傾いたことが原因で、地球の環境が激変した。具体的に言えば、太陽の光が当たる角度がほんの少しだけ変わっただけで、地球全体の温度が急激に低下し始めたのだ。つまり、現生人類にとっては初めての氷河期の到来だった。

 古来より、地球は何度となく氷河期に見舞われていた。良く知られているのは、新生代の新第三紀から第四紀にかけての第四期氷河時代、古生代の石炭紀とペルム紀にかけてのカルー氷河時代、オルドビス紀とシルル紀にかけてのアンデス=サハラ氷河時代、原生代のクライオジェニアン氷河時代、新古生代のシデリアンとリィアキアンにかけてのヒューロニアン氷河時代、中始代と新始生代にかけてのポンゴラ氷河時代である。

 ミランコビッチ・サイクルと呼ばれる、公転軌道の離心率の周期的変化、自転軸の傾きの周期的変化、自転軸の歳差運動という三つの要因によって、日照量が変化する周期である。

 いずれも知的生命体が芽吹く前の出来事で、この氷河期時代を経てカンブリア爆発が発生したために生物が飛躍的に進化した。だから、氷河期が訪れること自体は悲劇でもなんでもなく、地球の長いサイクルの中では珍しくもなんともないことだ。

 だが、それは地球規模での話である。人類にとっては致命的な打撃となり、温暖な気候の土地が寒冷化した影響で食糧の生産量が世界的に低下していき、それに伴う内戦や紛争が何度となく発生した。海流も総じて温度が下がったため、漁獲量も大幅に下がり、暖流で生きる種類の魚は次々に姿を消した。動物も同様で、氷河期が始まった数年の間に、数万種類もの動植物や昆虫が絶滅した。

 そして、それは人間にとっても例外ではない。



 高校はがらんとしていた。

 こんな時に律儀に登校するのは自分だけだろうなぁ、と思いつつ、火野翔斗(ひのしょうと)は昇降口に入った。白い息を吐きながら、コートの肩に積もった雪を払う。ずらりと並んだ靴箱は空っぽで、名札も剥がされている。そこに印されていた生徒の名前を思い出そうとしたが、結局思い出せなかった。

 上履きに履き替えて底冷えのする廊下を歩き、念のために職員室を覗くが、人間の教師は出勤していなかった。その代わり、人型多脚ロボットの教師が勤務していたので、彼女に話しかけてホログラフィーの出席簿にマルを付けてもらった。

「火野君、皆勤賞ですね」

 ロボット教師が朗らかな声色で褒めてきたので、翔斗は肩を竦める。

「他にやることもないので」

「では、本日の授業内容ですが……」

「昨日の続きでいいじゃないですか」

「いえ、そうはいきません。今日は、火野君の他にも生徒が登校していますので」

「こんな時に?」

 翔斗が面食らうと、ロボット教師は立体映像の出席簿を掲げる。

「はい。火野君と同じく、二年A組の生徒の氷川銀花(ひかわぎんか)さんです」

「ひかわ……?」

 そんな奴、いたっけ。翔斗は思い出そうとしたが、やっぱり思い出せなかった。というか、高校に入学した当初から生徒の数は少なかったし、きちんと登校してくる生徒も限られていた。おまけに、地球統一政府があの計画を発表したものだから、登校しようにも出来なくなった生徒も多い。

「んじゃ、授業の内容はその氷川と相談して決めますか」

 翔斗の提案に、ロボット教師は頷いた。生徒に冷たい印象を与えないように、とのことで、ロボット教師は女性的でまろやかなフォルムに作られている。外装は優しいクリーム色で、表情を出すモニターが搭載された卵型の頭部にふくよかな胸元、末広がりのスカートのような下半身、その下に隠されている十六基の足が隠されている。

「では、授業の準備をしてきますね」

 そう言って、ロボット教師は一礼してから職員室を後にした。翔斗はそれを見送ってから、教室に向かった。誰とも擦れ違わずに階段を上り、絶え間ない吹雪に叩かれる窓を横目に廊下を進み、二年A組のドアを開けた。

「おはよう」

 ぎこちなく挨拶してきたのは、制服姿の女子生徒だった。厚手のダッフルコートを脱ぎかけていて、その下にはブレザーとブラウスとチェックのプリーツスカートを履いていたが、さすがに素足ではない。極めて耐寒性の高いスパッツを履いていて、ブラウスの下もハイネックの耐寒服を着込んでいた。翔斗も似たようなものだが。

「えと……氷川、さん?」

 翔斗が躊躇いがちに名を呼ぶと、女子生徒は頷いて笑みを返した。長い黒髪が肩に掛かり、色白な頬は寒さでほんのりと赤らんでいて、愛らしい面差しの少女だった。その笑みに、翔斗は内心で動揺する。生身の女の子ってやっぱり可愛い、と痛感したからだ。

「火野君と私、何度か会ったことはあるよ」

 氷川銀花は髪を掻き上げ、耳に掛ける。その際、手首に巻かれたリストバンドが覗いた。鮮やかな赤は、Aクラスの上級市民である証だった。対する翔斗のリストバンドは青で、Cクラスの中級市民の下層である。それを知ると、翔斗は嬉しい気持ちが萎んでいく。

 氷河期が訪れたことで地球全体が食糧危機に陥り、人類の総人口が七十億人から五億人に減少してしまった。そこで考案されたのが、遺伝子の優劣によって生まれながらにして人間を選別する方法だった。人類存続に不可欠な高度な知性の持ち主や、五体満足の子供を多く産める個体を一人でも多く残すためである。それによって階級制度も作られ、S級からE級までに階級が分けられた。無論、そんなものが良い結果をもたらすはずもなく、階級を付けられた人間同士が争って、ただでさえ少ない人口が更に減ってしまった。

「なんで学校に来たのさ」

 翔斗は通学カバンを下ろし、手近な席に座る。どうせ他の生徒は登校してこないのだから、どこに座ってもいい。

「なんとなく」

 銀花は翔斗の隣に座り、通学カバンを開けた。教科書のデータが入ったタブレットと、ノート用のタブレットを取り出して並べる。

「A級市民は、外宇宙に出る移民船団に乗るんじゃないのか?」

 翔斗が妬ましさを隠さずにぼやくと、銀花は机に目を落とす。先代の生徒の落書きが残っていた。

「ああいうの、好きじゃなくて」

「好きとか嫌いとか、そういう問題か? 形はどうあれ、生き延びらるんだからいいじゃないか。それに比べて俺はどうだ。C級市民は第一級労働と第二級学習は許されているけど、その先はない。移民船団が乗る宇宙船の部品を作れても、乗ることは出来ない」

「だから、そういうのが」

「上から目線にも程がある」

「あー、そう言うと思った」

 銀花がむっとしたので、翔斗は睨み返す。

「そりゃそうだろ? 自分が生きる場所を選り好み出来る時点で贅沢なのであって、傲慢なんだよ」

「C級市民にしては意外と学があるね」

「授業が終わればやることがないし、移民船団建造計画で人間がごっそりいなくなって店が閉店しまくって娯楽もクソもないから、本を読むしかなかったんだよ! 御陰様でな!」

「ああ、解るよ。私もやることがなくて、ずっとそうしてきた。初潮を迎えてからは定期的に卵子を摘出して冷凍保存させられるようになって、手術の前後は身動きが取れないから、色んなサーバーのアーカイブにアクセスして電子書籍を手当たり次第に読んだなぁ。あの手術ね、すっごく痛いんだよ。排卵日の直前に排卵誘発剤を飲まされて、アソコの内側に針を突っ込まれて、卵巣から子宮に行こうとしている卵子を吸引するの。麻酔が効いているうちはいいけど、その麻酔が切れた後が特に痛いの。卵子はなくても生理は来るし、アソコの内側が刺されたところがズキズキするし。眠れないぐらいに痛いんだ」

 銀花は下腹部を押さえ、眉を下げる。

「男の子だったら、ぴゅっと出して終わりなんだろうけどね」

「……そんなに痛いのか?」

 翔斗が案じると、銀花は深く頷く。

「痛い。おまけにその後に生理痛も来るから、痛くて痛くて死にたくなるぐらい。私は卵子がきちんと出来る体だから、まだマシな方だよ。他の子なんて、卵子を作るための注射を何度も打たれていたんだけど、それがまた物凄く痛いの。おまけに、薬で卵子を無理矢理作るもんだから、卵巣がぱんぱんに腫れて、お腹が膨れちゃった子もいた。この御時世じゃ、女の子の仕事なんてそれしかないからね。だから、A級市民もいいものじゃないよ」

「大変だな……」

 その痛みを想像し、翔斗は思わず腹を押さえた。

「でね、私から採取された卵子は冷凍保存されて、移民船団の宇宙船に乗せられることになっているの。だから、私は行かなくてもいいかなぁって」

「それとこれとは別の問題だろ」

 翔斗はタブレットを並べ、教科書のデータを開いた。先日の宿題も提出し、採点結果も返ってきたのだが、結果は芳しくなかった。せめてもの気晴らしになれば、と最も成績が良かった世界史のテストの採点結果を眺めていると、銀花が覗き込んできた。

「こんなに大勢の人が死んだけど、その人達はどこに行ったんだろうね?」

「氷の下じゃないのか?」

「人間の体って燃やせるから、燃料にしたって可能性は?」

「燃えるには燃えるけど、湿っぽいから燃料にはならないだろ。食糧にするには向いていないし」

「おいしくないもんねぇ。合成食糧の中に《懐かしの味》って銘打たれた合成肉があって、それは人間の味を模しているんだけど、あんまりだったなぁ。筋っぽくて硬いし、生臭いし」

「合成肉とはいえ、そんなもんを喰ったのかよ」

「出されたものは食べないと」

「そりゃ……まあな……」

 翔斗は複雑な心境に駆られたが、銀花の返事は道理である。出されたものは綺麗に食べなければ、命が繋げないからだ。たとえ、それがどんな味をしていて、何が原料であろうとも、だ。

「で、氷川さんは何の授業を選んだんだ?」

「国語、数学、物理」

「手堅いなぁ」

「地理と歴史と天文学は火野君の希望? おお、大学レベルまで巣進んでいるとは立派だなぁ」

「そうだよ。地理も歴史も天文学も、地球に人間がいなくなると、誰も使わなくなる学問だろ? そう思うと、なんか惜しくなっちまって」

「ねー、勿体ないよねぇ。何千年も掛けて積み重ねてきたのにね」

 銀花が同意してくれたので、翔斗は無性に嬉しくなったが、顔には出さないように努力した。手前勝手な哀愁を共感してもらえる相手がいるとは、思ってもみなかったからだ。

 それから、ロボット教師による授業が始まった。国語、数学、物理、地理、歴史、天文学、と丁寧に教えてくれた。これまでは翔斗が一人きりで授業を受けていたので、自宅学習の延長のような感覚だったのだが、隣に誰かいると心構えが変わる。増して、それが女子ともなれば尚更だった。

 いつになく集中した。



 昼休み、午後の授業、放課後。

 下校時刻になったが、翔斗はすぐに帰る気にはならなかった。だが、あまり長居するとC級市民労働所での仕事に遅れてしまうし、迂闊にサボると配給される食糧が減ってしまう。けれど、氷川銀花と離れてしまうのが惜しかった。久々に会えた生徒であり、滅多に接することが出来ない女性だからだ。

 最初の時こそ、翔斗は敵対心のようなものを抱いていた。A級市民は限られた富や食糧を掠め取っていく悪漢だと考えていたのだが、A級市民にはA級市民なりの苦痛があると知ったからだ。底冷えする工場での単純労働は精神的に苦痛だが、彼女の苦痛は心身を脅かすものだからだ。同情するのは筋違いかもしれないが、共感するものはある。だから、もう少しだけ彼女と接していたかった。

 けれど、引き留めることは出来ない。A級市民に不用意に触れでもしたら、リストバンドから信号が発信されて統一政府に通告されてしまうからだ。そうなったら、翔斗は犯罪者になってしまう。高校に通うことで辛うじて日常を繋ぎ止めているのだから、安易な気持ちで積み重ねてきた日々を失いたくない。だが、しかし。

「あのさ、氷川さん」

 翔斗がおずおずと声を掛けると、銀花が顔を上げる。

「なあに?」

「……いや、なんでもない」

 急に恥ずかしくなり、翔斗が背を向けると、銀花は翔斗の前に回り込んできた。髪が靡き、ふわりと甘い香りが漂う。

「火野君。言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ」

「いや、言わない方がいい。あんまりにも下らないから」

「だったら、尚更言わなきゃ。ね? ね?」

 銀花は好奇心に目を輝かせながら、かかとを浮かせて翔斗に顔を寄せてくる。暖房のおかげで頬の血色が良くなったことも相まって、彼女は一層愛らしさを増していた。翔斗はどぎまぎしながら、細切れに言葉を発した。

「あの……良かったら、途中まで、一緒に帰らないか、と……」

「一緒? 一緒って、どこまで?」

 銀花は小首を傾げ、にいっと口角を上げる。薄い唇の間から、歯並びの良い前歯が零れる。

「俺んちの居住区と氷川さんの居住区は、途中まで方向が一緒だから、その……地下鉄の乗り継ぎの辺りまでは」

 翔斗は必死に言葉を絞り出すと、銀花は指折り数えた。

「んーと、私のA級上層居住区は第七階層で、火野君んちは?」

「C級中層居住区だから、第五階層」

「じゃ、地下鉄の九番路線と十七番階層連結路線だね」

「本当にいいのか? 俺なんかと一緒に?」

「自分から誘っておいて、それはないんじゃないの?」

 銀花はくすくす笑うと、悪戯っぽい眼差しで翔斗を見上げる。

「せっかくだから、その途中で寄り道しない?」

「どこにだよ」

「お店。お買い物したい」

「つっても、どの店もすっからかんだろ。物資の在庫も、ほとんどは移民船団に持っていかれちまったし」

「でも、残っているものはあるよ。電子書籍のチップとか」

「うげ、また本かよ。せめてゲームとかさぁ」

「だったら、そっちも寄ろうか」

「けど、俺は金がねぇよ」

「私が奢る……のは、火野君のプライドが許さないか」

「当たり前だ」

「だったら、こうしようか。割り勘ってことで」

「妥協点だな」

「それじゃ、後で昇降口でね」

 銀花は通学カバンに勉強道具を入れると、コートを片手に教室を後にした。彼女の頼りない後ろ姿を見送ってから、翔斗は今更ながら緊張と動揺が押し寄せてきた。

「これって、アレだよな?」

 放課後デート。

「だよな、そうだよな、うん! デートなんてのは、漫画でしか見たことないけど!」

 相手は初対面も同然で、恋人でもなんでもないのだが、これはデート以外の何者でもない。だとすれば、C級労働所の仕事なんてサボってしまうに限る。あとで配給金が減らされようが、食糧が削られようが、大した問題ではない。どうせ家族は一人も生き残っていないのだし、大切にするべきは今の自分だ。

 ふと、震動が起きた。遥か彼方から伝わってきた轟音が大気が揺さぶり、二重窓の外側に貼り付いた雪が剥がれ落ちていく。教室に散らばる机ががたがたと鳴り、天井の明かりが点滅する。見通しの効かない吹雪の先に、ぽつっと光の点が灯った。

「宇宙船だ」

 その光を見つめ、翔斗は譫言のように呟いた。高校のある第二階層は、第三階層にある宇宙船のカタパルトから発射される様子を見ることが出来る。第一階層は既に分厚い雪と氷に覆われているので、発射するためにはそれを溶かす必要があるのだが、恒星間航行をも可能な宇宙船にとっては、そんなものは些細な問題に過ぎない。

 推進装置の炎による光の点が一瞬途切れ、それを上回る光に塗り潰された。地球のマグマから得たエネルギーを用いた、超高温の光線を放ったからだ。瞬時に氷と雪が溶かされて大穴が開き、それに応じた量の霧と水が発生して流れ込んでくる。その水は居住区を潤し、人々を生かしてくれるので、一滴も無駄にはならない。

「昇降口でね、か」

 銀花の言葉を繰り返してから、翔斗は歩き出した。

「っと、そうだな。せめてもの気休めに」

 翔斗は教室を出たところで、リストバンドのバッテリーを抜いた。こうしておけば、全人類を観測して管理している量子コンピューターの監視下からは、束の間は逃れられるはずだ。そんなことをしても、数十分後には翔斗の生体電流から採取した電流で再起動するとは知っているのだが、氷川銀花との時間を心から楽しみたかったからだ。

 昇降口に向かう足取りは軽く、身も心も暖かかった。



 ────その、はずだったのに。

 頭上には、澄み切った青空が広がっていた。翔斗は仰向けになって寝転がっていたが、妙にすかすかしていた。青空自体を見るのが久し振りだから、ということもあるが、それにしては空虚だ。具体的に言えば、肌が軽い。それはつまり。

「うおあっ!?」

 服を着ていない。

「なっ、なんでだ?」

 翔斗は困惑しながら身を起こしたが、右腕の根元が激しく痛んだ。と、同時に体内から熱いものが込み上がり、右腕の根元から零れ落ちる。

「あ……あぁ……?」

 肌を伝い、硬い雪原に散らばったのは、赤く濃い血液ではなく────炎の塊だった。

「なんで、そんなのが俺の中から」

 ずっくんずっくんと骨身に響く激痛を味わいながら、翔斗は目を動かした。雪原、雪原、雪原。目が痛むほど目を凝らしても、ひたすら雪原しか見えない。もしかして、この下には居住区の積層都市があるのかもしれないが、だとしたら、なぜ外に出てしまったのだ。いや、それよりも氷川銀花との放課後デートはどうなったのだ。

「う……」

 右腕の根元を恐々と左手で塞ぐと、指の間からは炎の舌がちろちろと零れ出てきた。確かに熱く、肌を暖めてくるのだが、決して火傷はしなかった。己の分泌物だから、なのだろうか。

「あら、起きるのが早いのね」

 不意に背後から声が聞こえ、翔斗はぎょっとして振り返ると、そこにはトカゲが二本足で直立していた。更に言えば、ワンピースのような服を着ていて、濃緑の髪を三つ編みに結っていて、首には金属製の頑丈なリングと錠前が付いていた。そして、その手には不思議な物体が握られていた。細長い筒の先に球状の釜が付いていて、釜の先端に空いた穴からは蒸気が噴き出している。

「お前は何なんだ?」

 翔斗はびくつきながら問うと、トカゲ娘は太く長い尻尾をゆらりと振った。身長は翔斗よりも一回りは小さく、赤い眼球には瞼は付いていないが、首の傾げ方には妙な色気がある。

「魔女よ」

 トカゲ娘が蒸気釜の付いた筒を振り下ろすと、白い蒸気が振りまかれ、瞬時に空中で凝結し────無数の氷の槍が出来た。

「ほうら、味わいなさい! 目を覚ましてあげるわ!」

 トカゲ娘の声と同時に、氷の槍が一斉に降り注いできた。

「うえっ」

 翔斗は逃げようとするが、足腰が立たなかった。空を埋め尽くすほどの氷の槍の穂先は、真っ直ぐに翔斗に狙いを定めている。重力とは異なる力を受けた透明の凶器は、成す術のない少年目掛けて雨霰と降り注ぐ。せめてもの慰めになれば、と翔斗は左腕で頭を覆う。

 氷の槍が脳天に突き刺さる。腕にも肩にも胸にも腹にも足にも、冷たく硬いものが肌を裂いて肉を貫いた。────かのような衝撃を受けたが、貫通していなかった。それどころか、触れた瞬間に蒸発していった。

「……は?」

 蒸気で視界が奪われる中、翔斗は混乱する。もしかして、と左手で雪原に触れてみると、白く締まった雪がじゅわっと泡立って沸騰し、蒸発していった。手のひらの大きさだった穴が徐々に広がり、翔斗の足の下にまで及んだので、慌てて手を引っ込める。

「だったら、こうすりゃいいのか?」

 翔斗はぐっと足に力を込めて立ち上がり、トカゲ娘と対峙する。トカゲ娘は例の筒をぐるぐると振り回していたが、蒸気釜の穴を翔斗に突き付ける。

「どうする気なのぉ?」

「こうするしかないだろっ!」

 翔斗は意を決し、駆け出した。途端に足元が盛り上がり、めきめきと氷が生えてくる。が、翔斗が蹴り飛ばすと一瞬で砕け散り、蒸発する。続いて氷の槍が再び降り注ぎ、背中を痛め付けてきたが、これもやはり蒸発する。更に氷の壁も築かれ、雪の大波も押し寄せてきたが、痛みを堪えて突っ走るしかない。

 相手が何なのか、そもそも自分がどんな状態なのかも解らないが、訳の解らないうちにやられてしまうのは嫌だ。その一心で、トカゲ娘が生み出す氷や雪を次から次へと打ち破り、進み続ける。熱い、熱い、皮膚も内臓も骨も神経も脳も魂も燃えている。

 ───もしかすると、これは都合のいい夢なのかもしれない。氷河期によって閉塞した世界に生きてきたから、昇降口で待つ氷川銀花に会うまでの間に、物語を頭の中に描いているのかもしれない。だとしたら、なんて素晴らしい夢だろうか。

「っだぁ!」

 最後の氷壁を左の拳で殴り飛ばし、豪快に砕く。がらがらと崩れ落ちていく氷の塊を振り払ってから、その奥で待ち構えていたトカゲ娘を見据える。その視線すら熱を持っているのか、雪原に一本の線が走り、湯気が立った。

「規定値以上ね、これは。……どうしたもんかしら」

 トカゲ娘は尻尾の先を曲げ、首を捻る。

「とりあえず、説明してくれないか。これが俺の都合のいい夢か、そうじゃないかは、それを聞いてから判断する」

 翔斗が蒸気と共に言葉を吐き出すと、トカゲ娘は悠長な足取りで近付いてきた。また氷を降らせるのか、と翔斗が身構えると、トカゲ娘は翔斗の額に蒸気釜をこつんと当てた。

「あなた、名前は?」

「俺は────」

 火野翔斗、と答えようとしたのに喉が動かなかった。いや、違う。それ以前の問題だ。記憶の中のいる自分は確かに火野翔斗なのに、この肉体は違うと脳が叫んでいる。炎を出す能力にしてもそうだが、身長も違うし、体付きもがっしりしている。だったら、俺は誰だ。何者だ。ひどく混乱したが、現状に相応しい単語を絞り出した。

「……焦土(しょうど)

「焦土。ショード。うん、悪くないわね。覚えたわ」

 トカゲ娘は蒸気釜を下げると、くるりと身を翻す。その拍子に三つ編みが靡き、尻尾と同じ形で動く。

「私の名はフロージア・フリージア・フロスティ・グレイシャー・コールドストーン。本物の魔女よ」

「どれが名前なんだ?」

 焦土が聞き返すと、トカゲ娘は尻尾の先で雪を叩く。

「全部よ」

「名字、というかファミリーネームはコールドストーンなのか?」

「だから、全部よ。好きなので呼べばいいわ」

「じゃあ、一番最初のやつで。……フロージア、俺は一体何なんだ? どうして右腕がないんだ? それ以前に、ここはどこなんだ? 君はそれを知っているのか? だとしたら、教えてくれないか?」

 焦土が問い掛けると、トカゲの魔女はちょっと目を逸らす。

「そうねぇ。ここで話してもいいけど、さすがに服を着ていない男と真面目な話をする気分にはなれないわね」

「俺もそう思うが、この熱で着られる服なんてないだろ?」

 せめてもの慰めに、と焦土は左手で股間を覆うが、その手のひらからも羞恥心から炎が零れていた。

「あなたを手に入れたのは私よ。つまり、私の所有物。よろしくて?」

「よろしく、って……そんなの同意出来るわけがないだろ」

「それがあなたの疑問に答えるための対価。そう言ったら、どうお思いかしら?」

「う……」

 焦土は言葉に詰まる。たかだか質問に、そこまでの価値があるのか。いや、だが、この状況では四の五の言っていられない。辺り一面の雪原は距離感が掴めないので、何十キロ歩いても、他の人間に巡り合えない可能性が高い。となれば、多少なりとも危険を冒しても、目の前のトカゲの魔女に頼るべきだろう。

「解った」

 焦土が弱々しく応じると、フロージアはにんまりする。

「賢いわね。それじゃ、付いていらっしゃい。場所を変えるわ」

 そう言って、フロージアは歩き出した。程なくして彼女は蒸気釜の筒に跨り、飛んでいってしまった。なるほど、ホウキの代わりに蒸気釜を使っているわけだ。但し、釜から噴き出しているのは蒸気ではなく、細かな氷の粒、ダイヤモンドダストだった。

 あっという間にフロージアは飛び去っていき、焦土はそれを追いかけるべく駆け出した。だが、普通に走っていては到底追いつけない。なので、足の裏と脛に意識を向け、駆け出してから跳躍する。すると、一気に五メートル近くを飛べた。炎の出力の調整は今一つだが、能力の扱い方が少しだけ掴めたかもしれない。

 魔女の行き先には霧が立ち込めていたが、雪原を吹き抜けてきた風が霧を拭い去った。その奥には、無数の煙突とパイプが張り巡らされた物体がそびえていた。巨大な蒸気船のようだが、それにしては異様な形相だった。しゅうしゅうと蒸気を吐き出している鉄の塊に、フロージアは吸い込まれていった。

 がしょん、と彼女が入った通路のドアが閉まったが、それでも追うしかない。いつまでたっても、全裸でうろつくわけにはいかない。その上、無性に腹が減ってきた。恐らく、この能力は極めて燃費が悪いのだ。複数の意味で目眩を覚えながらも、焦土は進んだ。

 素足の裏では雪が解け、一瞬で蒸発していた。

挿絵(By みてみん)

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