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第13話その4(最終話)

 二葉は、小雪の舞う森林の間を彷徨っていた。

 方向など、全くわからない。

 足元は、人の踏んだ気配さえない雑草だらけの土。

 上を見れば、空を覆わんばかりの杉、杉、杉。

 毛布にくるんだ赤ん坊をしっかりと抱えて、二葉の足はただただ、前へと歩みを進めた。

 研究員達の会話に乗せられ、二葉は赤ん坊を病院へ連れて行こうと必死だった。

 それぞれの検体から離れられないという研究員達に代わって、瀕死の赤ん坊を医者に診せに行くという役目を、二葉自ら買って出たのだ。

 それが、研究員達の仕掛けた罠とも知らずに。

 研究員達は二葉にお金を渡し、「通りに出ればタクシーをひろえるから。」と言って送り出した。だが、わざと人目につかないように建てられた樹海の中の研究所から、一人の少女が歩いて車道までたどり着けるわけがない。歩けば歩くほど、樹海の奥深くへ迷い込むだけだ。

 ただでさえ朝晩は冷え込むというのに、小雪まで舞えば、結果は早く出る。

 赤ん坊は間もなく死に、そして二葉も帰らぬ人になる。

 研究員達の所長に対する言い分は、「赤ん坊の危機を感じ取った二葉が、研究員達が目を放した隙に赤ん坊を連れて研究所を勝手に抜け出した。」というものだ。

 固いセキュリティーをどうやって潜り抜けたのか、という問いに対する答えは見つけられない。だが、それでも決行せねばならないほど、研究員達は切羽つまっていた。とにかく、自分達の息のかかる場所で、赤ん坊を死なせることだけは避けたかった。責任を転嫁できるものに、すべて被せてしまいたかった。

 そして二葉は、研究員達の思惑通りに樹海を彷徨っているのだ。

 やがて日は暮れ、小さな懐中電灯で足元を照らして進むしかなくなった。

 歩いても、歩いても、車の音さえ聞こえない。

(私は、道を間違えてしまったんだ。でも、引き返そうにも方向がわからない。もう、どっちへ行けばいいか、全然わからない・・!)

 小さな氷の塊のような雪が、真っ黒な夜の中で白く光って見える。

 火のように熱かった赤ん坊の身体から、いつの間にか体温を感じなくなっている。

 二葉はふと、赤ん坊の顔を見た。

 毛布から覘く顔を、懐中電灯で照らしてみる。

(・・・?)

 眠っているのか、何なのか、よくわからない。

 だが次の瞬間、電流が走ったかのような恐怖が二葉の全身を駆け巡った。

 二葉の息が、止まる。

 慌てて赤ん坊の腕を取った。

 脈は?

 わからない。

 赤ん坊の鼻や口に手をあててみる。

 頬を赤ん坊の口元に近づけてみる。

 

 息を、していない。


 二葉は声にならない悲鳴をもらした。

 腕が、手が、ひとりでに震えだしている。

 だが、二葉は一縷の望みを捨てなかった。赤ん坊を再びしっかりと胸に抱きしめる。

(ただ寒いから、だから息をしていないように見えるだけかもしれない。温かくなれば、また呼吸をするかもしれない!)

 二葉は、赤ん坊をしっかりと抱いて走り出した。

 懐中電灯で木にぶつからないようにということだけ気をつけて、とにかく走り続けた。

 駄目だ。

 絶対に、死んじゃ駄目だ!

 方向なんて、やっぱりわからない。

 時間も、わからない。

 これからどうすればいいのか、わからない。

 答えが欲しい。

 数学の問題集のように、解説付きの、明解で唯一無二の解答が欲しい!

 風が強くなってきた。

 靴下を身につけていないふくらはぎが、棒のように固まっている。

 外気がこんなに冷たいのに、抱えている赤ん坊の体温は全く感じられない。

 泣きたい気持ちをグッとおさえて、二葉は今一度前を睨みつけた。

 小雪が、行く手で渦を巻いている。

 その渦の中心に向かって、二葉は最後の力を振り絞り進み続けた。

 

 どれくらい、時間が経っただろうか。

 小さくて固い雪が舞う漆黒の空。夜中であることに、かわりはないと思う。

 吸い込んだ空気が肺をつきさすような寒さの中、二葉は一筋の光を見た。

 意思が朦朧としているため、幻ではないかと疑う。

 だが、今度は光がまっすぐに二葉の顔を照らしてきた。

 眩しさに目をひそめると、女の声がした。

「二葉!二葉でしょう?」

 疲れた瞼を何とか見開く。

 と、そこに見えたのはコート姿の美鈴だった。

 美鈴は、呆然としている二葉の抱えている赤ん坊に手をのばした。だが、すぐにその指を縮め、拳を握った。

「すみません・・・、すみません・・・!」

 二葉は、無意識のうちに美鈴に謝っていた。

 美鈴は赤ん坊の毛布をはがし、その身体を再び二葉に抱かせた。

 二葉は、赤ん坊の身体が冷たく、固いことに驚いた。

 あんなに柔らかかったのに。

 あんなに、温かかったのに。

 こんなことが、あるのか。

 美鈴は、静かに言った。

「二葉。よく覚えておきなさい。これが、死体というものよ。」

「死体・・?」

「そうよ。」

「駄目なんですか?手当てしても、もう、駄目なんですか?」

「無理よ。わかるでしょう?こんなに冷たくなっている。もう、どうしようもないわ。」

 そういえば、生きているときは、もっと軽かった気がする。

 今は、重くて、カチカチで、冷たくて、「生きているもの」の気配は微塵もない。

 石のようだ。

 無機質な、・・・「もの」だ。

 その初めての感触に、二葉は恐ろしくて赤ん坊を美鈴に返そうとした。だが、美鈴がそれを許さなかった。

「しっかり受け止めなさい!これが死だということを!」

「私が、殺したんですね・・・。私が、病院へ連れて行けなかったから・・・。」

 美鈴は、唇を噛み締めていた。

 二葉のピアスの盗聴器から研究員達とのやりとりを聞いていた。研究員達の企みはすぐに見破れたし、こういう結果になることも予想していた。だから、二葉を責めることはできない。

 しかしこの赤ん坊は、二葉が優三の忘れ形見としてこの上なく大事にしていた以上に、美鈴にとっては潤一の忘れ形見であり、最後の心の拠り所だった。

 本当は、二葉を責めたい。

 殴って気が治まるのなら、そうしたい。

 だが、今回ばかりはそれができない。

 元を正せば、臓器の取引現場を押さえられるようなヘマをした自分の失態が原因なのだ。

 赤ん坊を手に、肩を大きく震わせて泣き崩れる二葉を眺めながら、美鈴も「泣きたい。」と思った。

 だが、二葉に涙なんか見せられない。

 二葉が道具で、美鈴が所有者だということを徹底させるためには、ここで同等の立場で涙することは許されない。美鈴の自尊心も、それを許さない。

 美鈴は奥歯を噛み締め、宙を見上げて耐えた。

 優三が繰り返し流産しながら、死と引き換えに産み落とした赤ん坊だった。やせ細った身体で、それでも全力を尽くした優三の最期の言葉。

 ― 私が研究所の道具だから、協力するわけじゃないのよ。道具の使命なんて、私にはどうでもいいことだもの。私はただ、この世に存在した意義が欲しいだけ。あんな男の妻になっただけの人生なんて御免だから ―

 妊娠して出産するまで、優三の意思による協力がなければ、絶対に成立しない研究だった。胎児に気を遣って大事に育てたり、出産に耐える体力・気力は優三の意思に頼るしかない。

ただの道具には、望めないし、できないことだった。

(優三の最期の意地だったのね。『道具』の意思に頼らねば成立しない研究があるということを私達に知らしめて、そして私達の『道具』から抜け出した。意思を持った『人間』として、死んでいった・・・。)

 思い切り顎を上げて仰いだ宙の一点から、雪が放射状に降り注ぐ。

 瞳を閉じると、瞼の上に舞い降りた雪が解けて、頬を伝い落ちていった。

 二葉もいつか、優三と同じように意志を持って動き出すだろう。

 研究所の作り出したセシリアという呪縛を解き払って、事を起こすかもしれない。

 だが、それは出来る限り先のことにしなければならない。まだ当分は研究所の道具として思い通りに動いてもらわねばならない。二葉は相当の投資をした研究所の大事な財産なのだから、それなりの働きはしてもらわないと採算に合わない。研究所の発展も滞ってしまう。

 だから、美鈴は二葉との間に徹底した主従関係を貫こうと必死なのだ。

 それは、美鈴にしかできない。

 時折でも、二葉を娘として見てしまう兄では、甘さが出てしまう。二葉に道具であることを知らしめておくことこそは、自分の使命であると美鈴は確信している。

 やがて美鈴は、二葉の肩を抱いて、立ち上がらせた。

「さあ、帰るわよ。」

 うつむいたままの二葉から少し離れ、美鈴は歩き出した。

 何があろうと、自分達が帰る場所は一つしかない。

 そして、進むべき道も一つしかない。

 兄がどのようにして今回の不始末を処理してくれたか、美鈴は知らない。

 いつも、そうだった。

 美鈴の表に立って泥を被ってくれたのは、兄だった。

 だから、兄が研究を続ける限り、絶対についていく。

 それは、運命ではない。

 美鈴の選んだ、「道」なのだ。

 そんなことを心に刻みつけながら、美鈴はただ一本の道を、二葉と共に歩き続けた。

 今までと同じように。

 ただ、ひたすらに。

 この道が間違いでないと、信じて。

 この闇夜はいつか明けると、信じて。



 遠野遺伝子工学研究所。

 住所を持たないこの秘密の建物で作り出された少女は、親友を冷たい眠りから覚ますために、再び校門をくぐることになる。

 桜の季節。

 金木犀の季節。

 そして、寒椿の季節。

 少女は、花びらが風に舞い散るのを待って任務を終える。

 遠野二葉。

 この名がネット上で密やかに囁かれるようになった頃・・・

 

 冬の陽光に照らされて、校門前のレンガ畳に一つの影が落ちた。

 その影には、紅蓮の小さな光が宿っていた。

 研究所の人工児の証である紅蓮のピアス・・・

 それは、次の生贄を狙う運命を背負った少女の影。


 そしてまた、次の罪が始まる。


 この物語は、別掲載「紅蓮の影」(ジャンルは学園)をもって完結します。読みきり作品として掲載済みです。物語の結末を、ぜひ見届けてください。長編ながら、ここまでお付き合い頂き本当にありがとうございました。

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