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怯えと無力感が、再び虹丸を飲み込んだ。
(逃げよう)
虹丸の腰が浮き、背後へと退がろうとした、そのとき。
眼の前に十蔵が立った。
十蔵の手のひらが虹丸の右の頬を打った。
「逃げてどうする!?」
十蔵が怒鳴った。
背後の静香の方向を指す。
「あの女は日の本を斬ろうとしているんだぞ!」
十蔵の瞳が虹丸のそれを真っ直ぐに見た。
十蔵の双眸は緑には光らない。
虹丸を操るつもりはないようだった。
「奴を止められるのは、俺とお前だけだ!」
「十蔵さん…」
虹丸はまた、昔を思い出していた。
十蔵に教えを乞うた、幼き日々を。
「昔は俺もお前も、ただ頭領の命令を実行するだけだった!」
十蔵が吼えた。
「だが、今は違う! 俺とお前は自分で考えて、ここに居る! 自由だからな!」
十蔵は虹丸に言っていたが、その口調は、まるで自分に言い聞かせているようでもあった。
「どうする、虹丸! 逃げるか!? 俺といっしょに、あの女と戦うか!? 選べ!」
十蔵の檄に虹丸の震えが止まった。
やはり、十蔵の言葉は虹丸に闘志を取り戻させる。
元々は異常な状況で出逢い、不健全とも言える環境で生活を共にした二人ではあったが、決してそれだけの繋がりではなかった。
他の者には一切の感情を持たず非情に徹することが出来る十蔵が何故、虹丸と争うときだけは、何やら嫌な思いが心を重くするのか?
理不尽としか言えぬ忍びの修行の師である十蔵を殺せず、まるで家族のように位置づけ、慕ってしまう虹丸の気持ちとは何なのか?
それは二人の絆。
とても普通とは呼べぬが、ひとつの愛情の形であった。
絶望的状況。
圧倒的な狂気を持つ敵。




