第10話 呼び名が変わるということ
僕らはひたすら色々なアトラクションを巡って、甘いひとときを過ごしていた。
そうしているうちに、気がつけば時刻が十三時を回っていた。
流石にお昼ご飯を食べないでいると二人して病院送りになりそうだったので、彼女にこう訊ねることにした。
「……なにも食わないで平気なのか?」
「それ、もうそろそろ言おうと思っていたわ……あはは」
「このアトラクションに乗り終わったら、ちょっと遅めなお昼を食べよう」
「そうしましょ」
空腹の状態で上下するアトラクションに乗るとなると、やっぱり身体が警告してきて多少の吐き気をもよおす。だが、それをピンピンしている彼女に言って雰囲気を台無しにもできないので、僕はとにかく水という水を飲んで凌ぐ。
『……希奈さん、やっぱりフィジカルあるよな』
「ねぇ、響」
アトラクションから少し離れたところで、彼女がこう訊ねてきた。
「相変わらずその呼び方には慣れないけど……なんだ、どうした?」
「響は骨付きチキンを豪快にかぶりつく女子を見てどう思う?」
「どうって……いや、どうにも思わないけど」
「冷めちゃったりしない?」
「あぁ、それはないな。大体ナイフとフォークで食べるものでもないし」
「そう、それなら安心したわ」
彼女がこの話題を出すと言うことはもちろんそういうことで、僕らは骨付きチキンの店に並ぶと、彼女は今日一番の笑顔を露わにした。
「そんなに鶏肉が好きなのか?」
「ううん、この骨付きチキン限定よ」
そうしてチキンにチキンライスまで買って、鶏づくしのお昼ご飯が揃った。「いただきます」を言うと、彼女は目を煌めかせてチキンを頬張る。そして大胆に食らいついたあとは、おもむろに頬っぺたを落とし「うまうま」と言ってきた。
その様子を見ていた僕は、なんだかときめきに近いものを抱いていた。きっと彼女が美味しそうに飯を食べる姿が、目に映えたのだろう。
「いいな。それ」
「うん? 自分の分があるでしょ?」
「食べ方だよ。すごく幸せそうだなって」
「実際に私は幸せよ。こうして好きな人と毎日のように食卓を囲めているんだから」
「……ここも食卓なのか」
「えぇ、もちろんよ!」
だが、僕にはちょっとした懸念があった。それは彼女が無理をしているのではないかという疑惑で、ここまで彼女は笑顔を切らすことをしていない。まるでそれは僕が彼女をレンタルしているかのように……。
彼女は僕を不幸にしないと言った。たしかに彼女の瞳には生気が宿っている。
しかし、これが僕に幸福を呼び寄せるための演技なら、それは僕の望んでいるものとはかけ離れていた。
それなので少しためらったものの、僕は彼女にこう告げることにした。
「……無理して笑顔作んなくってもいいんだからな?」
「急にどうしたのよ……」
この困惑の色が、今日、彼女の笑顔を奪った初めての表情だった。
「朝からずっと笑顔でいてくれているのは嬉しいんだけど、なんか……希奈さんが疲れを隠しているように見えちゃって」
「そう? 私はいつもこんな顔よ?」
「そうだとしても、疲れていたら疲れているって雰囲気だしていいんだからな……?」
「そうね。本当に疲れたときにそうするわ」
「……我慢しなくたっていいのにさ」
「ありがとう。でも、私は大丈夫だから」
彼女が大丈夫だと言うので、僕がこれ以上この話題に言及することはなかった。
そのあとは五つほどアトラクションをこなしていき、僕は待ち列に何時間も並んでいたことで脚がパンパンになってしまう。だが、彼女が疲れた様子を見せない以上、彼氏の僕がため息つくわけにもいかないので、ここはどうにか踏ん張っておいた。
そうして一七時を過ぎ、僕らは園外に出た。園内だと食事代が高くて仕方ないので、一昨日の電話で「外の少し安いところで食べよう」と話し合っていた。
駅の方に歩みを進めていると、僕は疲労感とデート終わりの寂しさが募り、抜け殻のようになってしまう。彼女はそんな僕の醜態を見たのか、一緒になってこんなことを言いだす。
「はぁー、疲れたわね。うーん、っと」
そう言って背伸びをする彼女の風貌は、それでもやっぱり整っていた。
「ちょっと白々しいな」
「実際に疲れたんだからいいでしょ! それに、この疲れって楽しかったことの裏返しだから、隠す必要なんてないのよ」
「……まぁ、それもそうだな」
彼女は疲れていると言い張る割には、朝よりも気持ちのいい笑顔で僕のほうを見ている。きっと僕はいつまでもこの次元に達することは無いのだろう。
そんな彼女の尊顔を見て、僕は不意にこんなことを想像してしまった。
「疲れの裏返しが楽しい……それなら、今こんなに朗らかな彼女の裏返しって……」
僕は少し肝を冷やした。彼女の本性というものに僕はまだ一触もできていない。それに触れた瞬間、僕は一体どうなってしまうのだろうか。身体中が身震いする。
「……なぁ、希奈さん」
「なに?」
「僕に隠しごとしていないか……?」
「な、なにもないわよ。隠しごとしてもいつかはバレるんだから」
「そうか……。それならなんでもないんだ。ごめん」
「そっちも隠しごとはご法度ね」
「あぁ、もちろん」
冷静に考えて彼女に直接訊ねても、返事がもらえるわけないのだ。僕は単に自分の価値を下げただけだった。
晩御飯を済まして駅前に向かい、僕はまたセンチメンタルになる。だが、駅前は喧騒に包まれている様子で、あまりのノイズに僕のセンチも雲散してしまった。
「募金お願いします!」
「募金お願いします!!」
駅の改札に近くて邪魔くさい所で、何人かの若者が募金活動をしていた。ある法案の改正を目指す活動で、僕もこれには賛成だった。
だが、そこにはあからさま過ぎる違和感があって、法案改正という割に署名もなければアンケートすらとっていない。活動資金という名の詐欺に近かった。
勘の働いた僕はここを素通りして、さっさと帰路につこうとする。しかし、彼女の行動は予想だにしないものだった。
彼女は僕に「ちょっとそこで待っていて」と言い、僕が止める隙も与えず、募金箱のあるほうへと駆け出していった。
財布を取り出すと、数えもせずに砂利銭を投じて、「あ、ありがとうございます」という感謝の言葉を受ける。
彼女は誇らしげに僕のそばにつく。まるで一仕事終えたリーマンのようだ。
だが僕の顔に笑顔はなかった。そして、彼女が騙されたと思った僕は、あの募金活動をじっと見つめ、平生を失ってしまう。
そして、彼女に行動を否定するような言葉を浴びせてしまった。
「……次からああいう募金はするなよ」
「え、な、なんでよ?」
「あの人たち、法案改正を目指しているのに金だけ集めて、署名活動とか一切していなかっただろ?」
僕の正論に彼女も対抗する。
「ネットでやっているんじゃないの?」
「でも、それだって本当にやっているかどうか知らないだろ? 第一、デジタルなんていくらでも不正ができる。だから、この時代でもまだ紙のほうが信頼性が高いんだよ」
彼女は少し黙ったのち、不貞腐れたような言い方でこう告げる。
「……別に募金するなんて人の好き好きじゃないかしら」
「あぁ、そうだよ。だからこそ怖いんだ」
「なんか、信用されていないみたい。さっきのもそう。私ってなにがダメなんだろ……」
「そんなことはない。僕は希奈を信用した上で言っているんだ」
「じゃあ……どうして?」
「……ただ、希奈の優しさが踏みにじられたくないだけなんだよ。僕は希奈の性格が大好きだ。だけど、いいように悪用されやすい性質もある。だから、ちょっとだけ日々の生活で注意してもらいたい……そう、言いたかったんだけど、ごめん……」
彼女は僕の弁明に応じてくれなかった。きっと最初から応じる気なんてなかったようで、今はただその場に佇み、ひたすら俯いては地面とにらめっこをしている。
『あぁ、これ、絶対に嫌われるようなこと言ったな……。これで僕が勇気振り絞って告白したのもみんなパーか……』
そうして僕は彼女にダメ元で謝罪しようとする。僕にはまだ彼女を諦める気持ちなんて芽生えていなかった。
するとなぜか一瞬で僕の胸元が温まり、ワケもわからず見下ろすと、そこには顔を埋める彼女の姿があった。
「ど、どうしちゃったんだよいきなり⁉」
「……なんでもないわよ」
「こ、ここ、い、一応公共の場なんだぞ」
「関係ないわ。慣れて」
温かかった胸元に、やがて湿っぽさも加わってくる。出会って二週間、付き合って僅かに一週間。そんな僕が彼女の感情を読み取れるはずもなかった。
周囲の人間はこちらを覗いて、みな甘い表情をして去っていく。明らかに異様な光景だった。しかし二週間の鍛錬の甲斐もあってか、僕はその視線の集中砲火に堪えられていた。
三十秒が過ぎると、彼女は面を上げて潤んだ瞳を見せつけてくる。たまに流れる一滴の涙に、僕は困惑の色を隠せない。しかし、この涙ももちろん理由があってのもので、彼女は不思議そうにこう問うてくる。
「あれ、自覚ないのかしら?」
「自覚って、なにを自覚するんだよ……」
「私をこんな顔にさせた理由よ……。まぁ、それでもいいわ。私だけが大好きな人の変化に気づけたってことになるもの」
「言っている意味がよく……」
すると僕は頭にへばりついた違和感に気づく。そしてその正体が分かるなり、僕は彼女の涙に少しだけ寄り添うことができるのだった。
『あぁ、そういえば、さっきから希奈さんのこと、“希奈”って呼んでいたな……』
ただ、きっとこの呼び捨てだけが、胸元に飛び込んできた全ての理由ではない。
彼女のこれは嬉し泣き、つまりは感涙だった。泣けるだけの理由は絶対にどこかにあって、たぶん僕にはそれを隠している。
僕は信用されているはずだった。そうでなければ、おそらく僕から幸せを受け取ろうとはしない。だからこそ、僕はこの違和感に翻弄され続けていた。
『……隠しごとはいつかバレるんじゃなかったのかよ』
結局、僕はなに一つ推論もでないまま、また改札機に切符を挿入するのだった。




