第9話「任期の終わり」
今日で、三年が終わる。
目を開けたとき、最初に思ったのはそれだった。寝台の天蓋が薄暗い中に浮かんでいる。早春の朝はまだ暗い。窓の外に、鳥の声はまだない。
聖護誓約の任期満了日。聖女の任命日から数えて、ちょうど三年。今日をもって、誓約は自動的に解除される。
寝台から降りて、水差しの水で顔を洗った。冷たい。冬の名残がまだ水に残っている。
着替えを済ませ、鏡の前に立った。いつもの日常着。特別な装いではない。けれど手が少しだけ震えていた。
書斎の前に茶碗を置きに行く。三年間、毎朝続けてきた日課。今日もそれは変わらない。
廊下を歩いた。足元が冷える。書斎の扉の前に着いて、茶碗をいつもの位置に置いた。
湯気が細く立ち上っている。
今日の茶葉は、庭の月見草を混ぜたもの。レオン様が「悪くない」と言った、あの茶。
朝食の支度をしているとき、マルグリットが食堂に入ってきた。
「奥様、旦那様は早朝に神殿へ向かわれました。任期満了の手続きのためだそうです」
「そうですか」
手続き。神殿で正式に任期の満了を届け出て、聖護誓約の解除を記録に残す。それが終われば、レオン様は聖騎士ではなくなる。
「お帰りは昼過ぎになるとのことです」
「分かりました」
マルグリットは食器を並べながら、ふと手を止めた。
「奥様」
「はい」
「長うございましたね」
それだけ言って、マルグリットは台所へ戻っていった。
長かった。三年は長かった。
私は食卓に一人で座り、温かいスープを口に運んだ。明日からは、ここに二人で座る朝が来る。昼も。夜も。
向かい側の椅子を見た。あの椅子が置かれてから、まだ一月ほどしか経っていない。それなのに、もうずっと前からあったように見える。
昼を過ぎた頃、窓の外に馬車の音が聞こえた。
続いて、玄関の扉が開く音。廊下を歩く靴音。聖騎士の正装の硬い足音ではなかった。もっと軽い、革靴の音。
私は居間の椅子から立ち上がった。
廊下の向こうから、レオン様が歩いてきた。
銀の胸当てはなかった。聖騎士の正装ではなく、簡素な外套と革靴。腰に剣も佩いていない。
聖騎士の鎧を脱いだ、ただのレオン・ハイデンライヒがそこにいた。
「おかえりなさいませ」
「……ああ」
短い返事。いつもと同じ。
けれど、足が止まった。
廊下の真ん中で、レオン様が立ち止まった。私との間に、数歩の距離がある。
「手続きは、終わりました」
「……終わった」
声が低かった。いつもの短い断定ではなく、噛みしめるような響き。
「任期は、満了した」
その言葉が廊下の空気を変えた。
三年間。千日以上。その間ずっと、この人の手は私に届かなかった。茶碗をテーブルに置き、花を庭に植え、皿をテーブルの上で滑らせて——すべて、触れないための工夫だった。
それが、今日で終わった。
レオン様が一歩、前に出た。
右手が上がった。あの回廊で止まった手。あの食卓で握り込まれた手。何度も伸びかけて、何度も引き戻された手。
今日は、止まらなかった。
指先が私の手に触れた。
温かかった。
指の腹が、私の手の甲に触れている。そっと、壊れ物に触れるように。けれど確かに、そこにある。
三年分の体温が、指先から流れ込んでくるような錯覚があった。
レオン様の口が開いた。閉じた。また開いた。あの食卓の夜と同じだ。言葉を探している。この人は、いつも言葉を探すのに時間がかかる。
「……俺は、三年間——」
声が途切れた。
「お前の淹れた茶の温度を、毎朝——」
また途切れた。
言い切れない。感情が言葉より先に溢れている。目が赤い。この人の目が赤くなるのを、私は初めて見た。
「知っています」
私の声も震えていた。
「全部、見ていましたから」
茶碗のずれ方で、飲んでいることを知った。庭の花で、私の体調を気にかけていることを知った。食卓の椅子で、一緒にいたいと思っていることを知った。伸ばしかけて止めた手で、触れたいと思っていることを知った。
触れられなかったから、見ていた。見ていたから、分かった。
レオン様の手が、私の手を握った。
指が絡んだ。強く。三年分の力が込められているように。けれど痛くはなかった。
レオン様がもう一歩近づいた。握った手を引き寄せて、額を合わせた。
額と額が触れている。近い。息がかかるほど近い。三年間、この距離にいたのに、こんなに近くなったのは初めてだった。
目の前に、レオン様の目がある。赤くなった目の縁。睫毛に光るもの。
泣いている。
この人が泣いている。
私の目からも、涙が落ちた。いつ溢れたのか分からない。気づいたら頬を伝っていた。
言葉はなかった。二人とも何も言えなかった。三年分の沈黙が、触れた額と握った手を通じて溶けていくのを、ただ感じていた。
どのくらいそうしていたか、分からない。
廊下の向こうで、小さな物音がした。
マルグリットだった。水差しを持ったまま、廊下の角に立っていた。こちらを見て、すぐに目を逸らした。
けれど私には見えた。マルグリットの頬を涙が伝っていた。
水差しを棚に静かに置いて、マルグリットは台所の方へ去っていった。足音を立てないように。
レオン様が額を離した。
手はまだ握ったままだった。離さなかった。
「……すまなかった」
「何がですか」
「三年、何も言えなかった」
「言わなくても、伝わっていました」
レオン様が首を振った。小さく、けれどはっきりと。
「それでも、言うべきだった。言葉が足りないことを言い訳にしていた」
私は握られた手に、もう片方の手を添えた。
「これから言ってください。少しずつで構いません」
レオン様の指に、わずかに力が入った。
頷いた。
夕刻。
食堂の窓から、外を見た。
神殿の方角に、一台の馬車が門を出ていくのが遠くに見えた。簡素な馬車だった。聖女の紋章はついていない。
イレーネが神殿を去った。
任期満了日。裁定通りの退去。聖女位を剥奪された平民が、神殿を出ていく。
私はしばらくその馬車を見ていた。
恨みはなかった。許したわけでもなかった。ただ、あの人にも恐怖があったことを知っている。聖女でなくなることへの恐怖。それが間違った行動を選ばせた。
馬車は通りの角を曲がり、見えなくなった。
「アネット」
背後から声がした。振り向くと、レオン様が食堂の入口に立っていた。
「食事にしよう」
「はい」
向かい合って座った。マルグリットが運んできた料理は、温かいシチューとパン、サラダ。それから、庭のハーブを使った香草焼き。いつもの献立だった。
レオン様が香草焼きを切り分けて、皿に取った。
その皿を——テーブルの上を滑らせるのではなく——手で持ち上げて、私の前に差し出した。
手渡し。
初めての、直接の手渡し。
私は両手でその皿を受け取った。指と指が触れた。
レオン様の口の端が、かすかに動いた。笑った、と言っていい表情だった。
「……ありがとうございます」
「ああ」
静かな食卓だった。会話は少ない。けれど沈黙の質が、また変わっていた。
触れられる沈黙。手を伸ばせば届く沈黙。
三年かけて辿り着いた、この距離。
食事を終えて、レオン様が立ち上がった。
「おやすみ」
「おやすみなさいませ」
レオン様が食堂を出ていく。その背中を見送った。
足音が廊下を遠ざかる。
けれど今夜は、その足音が寂しくなかった。
明日の朝、この人は「おはよう」と言うだろう。私は「おはようございます」と返すだろう。
それだけのことが、三年かかった。
窓の外に、早春の夜空が広がっていた。星が出ている。冬の星座が西に傾き、春の星がまだ低い東の空に見え始めている。
季節が変わる。
私たちも、変わった。




