第8話「査問の朝」
神殿の鐘が、冬の空気を割った。
低く、重い音だった。屋敷の窓越しにも響くその音を、私は正装の襟元を整えながら聞いた。
三週間前、レオン様が大神官に延長不同意を伝えた翌週、神殿から通達が届いた。予備調査の開始。書記官による記録と証言の収集。そしてきょう——正式な査問が行われる。
マルグリットが革の書類入れを差し出した。中には聖護誓約の写し、ハインリヒ様からの委任状、エミールの調査報告の控えが入っている。
「奥様、お忘れ物はございませんか」
「ありません。ありがとう、マルグリット」
「お気をつけて」
マルグリットの声が少しだけ硬い。普段の落ち着きに、今朝は緊張が混じっていた。
玄関を出ると、馬車が二台並んでいた。
護衛のルートヴィヒが一台目の扉を開けて待っている。二台目には、聖騎士の正装を纏ったレオン様がすでに乗り込んでいた。銀の胸当てが朝の光を鈍く反射している。
査問には、それぞれ別の入口から入る。侯爵家当主夫人の代理申立人と、聖騎士では、神殿内での立場が異なる。
レオン様と目が合った。
一瞬だけ。
レオン様は小さく顎を引いた。それだけだった。言葉はない。けれど、あの食卓の夜から変わった何かが、その一瞬の中にある。
私は書類入れを胸に抱き、ルートヴィヒの手を借りて馬車に乗り込んだ。
神殿の正門は、石造りの重い扉だった。
冬の朝の光が低い角度で差し込み、石畳に長い影を落としている。吐く息が白い。参拝者の姿はない。査問の日は一般の参拝を止めると、事前に通達があったらしい。
ルートヴィヒに導かれ、礼拝堂の脇の回廊を通り、奥の査問室へ向かった。
天窓から細い光が落ちる部屋だった。長机と椅子が整然と並び、壁際に書記が二名、羽根ペンを構えて座っている。
正面の高座に、大神官フェルディナントが立っていた。白い法衣に金糸の刺繍。杖は持っていない。両手を前に組み、室内を静かに見渡している。
その右手側に、レオン様が立っていた。
聖騎士の正装。銀の胸当て。表情は動かない。
私が入室したとき、視線がこちらへ向いた。
一瞬。
それだけで十分だった。
私は指定された席に着き、書類入れを机の上に置いた。
「では、始める」
フェルディナントの声が、石壁に反響した。感情のない、平らかな声だった。
最初に呼ばれたのは、書記官マティアスだった。
痩せた男だった。三十代半ばと聞いている。法衣の袖口が擦り切れている。入室してから一度も私の方を見なかった。
フェルディナントが口を開いた。
「書記官マティアス。聖護誓約の延長事例に関する記録の閲覧申請に対し、整理を理由に提出を遅延させた経緯を述べよ」
短い問いだった。感情がない。事実の確認だけを求めている。
マティアスは額に汗を浮かべていた。冬の査問室は冷えているのに、額だけが光っている。
「記録の整理が追いつかず……意図的な遅延ではございません」
声が上ずっていた。
フェルディナントは表情を変えなかった。
「では確認する。閲覧申請の翌日、聖女の侍女が書庫に出入りした記録が残っている。書庫の入退室は書記官の許可が必要である。許可を出したのは誰か」
沈黙。
マティアスの指先が震えた。法衣の裾を握っている。
フェルディナントは待った。急かさなかった。石のように動かず、ただ待っていた。
長い沈黙の後、マティアスは頭を下げた。
「……聖女様より、延長事例の記録を外部の者に見せぬようにと、口頭でご指示がございました」
書記が羽根ペンを走らせる音だけが、室内に響いた。
次に、イレーネが入室した。
白い法衣。金の髪飾り。背筋が伸びている。
微笑んでいた。あの茶会のときと同じ、穏やかで完璧な微笑み。
「聖女イレーネ。書記官マティアスへの指示の事実、および聖騎士レオン・ハイデンライヒの誓約延長に関する工作について、申し開きがあれば述べよ」
フェルディナントの声は先ほどと同じ温度だった。マティアスに対しても、イレーネに対しても、変わらない。
イレーネは一拍の間を置いた。それから口を開いた。
「大神官様。わたくしは聖女として、聖騎士様の聖務が滞りなく続くことを願っただけでございます。記録のことも、ご迷惑をおかけするつもりはございませんでした」
声は穏やかだった。柔らかく、慈愛に満ちた聖女の口調。完璧な礼節。完璧な姿勢。
私は黙って聞いていた。
前世で身につけた技術が、自動的に動いている。口角の上がるタイミング。瞬きの間隔。視線が一瞬だけ右下へ逸れる癖。あの茶会のときと同じだ。声の穏やかさと、目の奥の温度が合っていない。
けれど——今日はもう一つ、読み取れるものがあった。
微笑みの奥に、硬さがある。
追い詰められている人間の、最後の壁。
フェルディナントは頷きもしなかった。
「確認する。聖護誓約の延長には、大神官の発令と聖騎士本人の書面同意が必要である。聖騎士レオン・ハイデンライヒは延長への同意を拒否した。にもかかわらず、記録の閲覧を妨害し、延長が既定であるかのような発言を侯爵家当主夫人に行った理由を述べよ」
イレーネの微笑みが止まった。
唇の形はそのままだったが、目が笑わなくなった。
「……それは——」
「さらに、信者を通じて侯爵夫人を中傷する風説を流布した件についても、複数の証言がある」
フェルディナントは机の上の書類に視線を落とした。
「エミール・ヴァイスフェルトの調査報告書、および侯爵家当主ハインリヒ・ハイデンライヒの照会書。いずれも、風説の発信源が神殿信者の集会であること、集会の主催者が聖女の侍女であることを示している」
イレーネの手が、法衣の袖を握った。
微笑みは消えていた。
私はその横顔を見ていた。
聖女でなくなれば平民に戻る。幼い頃に見出されて神殿に引き取られ、努力で聖女の座を掴んだ人。その座を失うことへの恐怖が、この人を動かしていた。
それを知ったからといって、許せるわけではない。噂のせいで失ったものがある。社交の場から遠ざけられた時間がある。使用人たちのよそよそしい目があった。
けれど——この人にも恐怖があった。
それだけは、見えてしまった。
フェルディナントが高座から立ち上がった。
「裁定を述べる」
室内が静まった。書記のペンも止まった。
「書記官マティアス。記録管理の職務を怠り、外部からの不正な指示に従い閲覧を妨害した責により、書記官の職を解く。地方神殿への配置とする」
マティアスは頭を下げたまま動かなかった。
「聖女イレーネ。聖護誓約の延長に関する虚偽の示唆、書記官への閲覧妨害指示、および侯爵家当主夫人への名誉を損なう風説の流布。これらは聖女の品位と職責に反する行為と認める。聖女位を即時剥奪する」
イレーネの肩が揺れた。
「退去については、任期満了日まで猶予を与える。それまでの間、神殿内の別房に移ること。任期満了日をもって神殿を退去し、以後の立ち入りを禁ずる」
イレーネの唇が動いた。何かを言おうとした。
声は出なかった。
フェルディナントは最後に、室内の全員に向けて言った。
「侯爵家当主夫人アネット・ハイデンライヒに対する風説は、事実に基づかない中傷であると神殿として公式に認定する。この旨の文書を王宮書記局にも送付する」
私は息を吐いた。長く、静かに。
勝利感はなかった。
制度が正しく動いた。証拠があり、手続きがあり、裁定が下った。それだけのことだ。
けれど、三年の間に積もったものが少しだけ軽くなった気がした。冤罪という名の重石が、一つ外れた感覚。
隣の席——いや、右手側の聖騎士の立ち位置から、小さな声が聞こえた。
「……ありがとう」
レオン様だった。
誰に向けた言葉かは分からない。大神官に対してか。制度そのものに対してか。あるいは——私に。
小さすぎて、他の誰にも聞こえなかっただろう。
けれど私には聞こえた。
査問室を出ると、回廊は静かだった。
冬の光が天窓から床に落ちている。白い四角が石の廊下に並んでいる。
レオン様が数歩先を歩いていた。聖騎士の正装のまま、銀の胸当てが光を受けている。
足が止まった。
振り向いた。
表情は変わらない。いつもの、感情の読みにくい顔。
けれどその右手が、わずかに動いた。
体の横で、指が開いた。私の方へ伸びかけた。
途中で、止まった。
指が握られ、手が下ろされた。
任期は、まだ終わっていない。あと数日。
「……もう少しだけ」
レオン様の声は静かだった。
私は頷いた。声が出なかった。書類入れを胸に抱き直した。
回廊の窓の外に空が見えた。冬の灰色の空。けれどその端の方に、雲が薄くなっている場所があった。
もう少しだけ。
あの手が止まらずに済む日まで、もう少しだけ。




