第6話「記録の嘘」
聖護誓約が制定されたのは、百二十年前のことだった。
神殿の面会室で、私は大神官フェルディナント殿の向かいに座っていた。
二週間前に申請した記録閲覧が、ようやく今日実現した。委任状を提出してから面会日が確定するまでに数日、さらに神殿側が記録を準備する期間として一週間以上を要した。
面会室は簡素だった。石壁に小さな窓がひとつ。木の机と椅子が二脚。壁に神殿の紋章が刻まれている。護衛のルートヴィヒは廊下で待機している。
「ハイデンライヒ侯爵家当主の委任状、確かに拝見した」
フェルディナント殿は白い髭を蓄えた老人だった。背筋がまっすぐで、声に力がある。穏やかだが、軽い言葉は一切使わない。
「権利侵害照会に基づく閲覧申請であるな。聖護誓約の原文、および過去の延長事例に関する記録を所望と」
「はい、大神官様。お手数をおかけいたします」
私は背筋を伸ばし、両手を膝の上に揃えたまま答えた。
フェルディナント殿が机の脇に控えていた書記官に目をやった。
「マティアス。記録を」
書記官マティアスは三十代半ばほどの男性だった。眼鏡をかけ、薄い茶色の髪を後ろに撫でつけている。大神官の言葉を受けて一礼したが、すぐには動かなかった。
「大神官様、記録室の整理がまだ完了しておりません。聖護誓約の関連文書は古い棚に収められておりまして、もう数日お時間をいただければ——」
「数日?」
フェルディナント殿の声に、わずかな硬さが混じった。
「申請から二週間が経っている。整理は十分にできたはずであろう」
「は、はい。しかし記録の量が多く——」
「では、誓約の原文のみを先に用意せよ。延長事例の記録は追って閲覧できるよう手配する」
マティアスは一瞬だけ口を開きかけたが、大神官の視線を受けて黙り、深く頭を下げた。
「かしこまりました」
足早に面会室を出ていった。
マティアスが戻るまでの間、フェルディナント殿は黙って座っていた。
私も黙っていた。
沈黙は居心地が悪いものではなかった。フェルディナント殿は私を急かさなかったし、世間話で間を埋めようともしなかった。
数分後、マティアスが羊皮紙の巻物を一本、恭しく運んできた。
「聖護誓約の原文でございます」
フェルディナント殿が受け取り、机の上でゆっくりと広げた。
「閲覧を許可する。書き写しも認める」
「ありがとうございます、大神官様」
私は机に向かい、原文を読み始めた。
古い言い回しが多かったが、構造は明確だった。
神殿規則第七条「聖護誓約」。
前文。聖女の護衛に就く聖騎士は、聖務への献身を示すため、以下の誓約を負う。
第一項。任期中、配偶者への意図的な身体的接触を禁ずる。
第二項。任期は聖女の任命日より起算し、三年をもって満了とする。満了日をもって誓約は自動的に解除される。
第三項。任期の延長は、大神官の発令と聖騎士本人の書面同意をもってのみ行うことができる。聖女は延長を要請する権利を有するが、決定権は大神官に帰属する。
第四項。誓約違反が認められた場合、爵位推薦の取消、神殿からの追放、その他大神官が定める処分を科す。
以上。
読み終えて、息をゆっくり吐いた。
「延長」に関する条文は第三項のみ。大神官の発令と聖騎士本人の書面同意。この二つが揃わない限り、延長は成立しない。
聖女の要請権はある。けれど決定権はない。
イレーネが茶会で告げた「延長される可能性がございます」は、制度的には「聖女が要請するかもしれない」という意味にすぎない。大神官が発令しなければ、可能性はゼロだ。
そして、レオン様が書面同意しなければ——。
持参した便箋にペンを走らせ、原文の要点を書き写した。フェルディナント殿は口を挟まず、静かに見ていた。
書き写しを終えて、ペンを置いた。
「大神官様。一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「何であろう」
「過去の延長事例の記録について、本日の閲覧が叶わなかった理由をお聞かせいただけますか」
フェルディナント殿は一瞬だけ目を細めた。
「マティアスが申した通り、記録の整理に時間がかかっている、というのが報告であった」
「左様でございますか」
それ以上は踏み込まなかった。
けれど不自然さは残っている。二週間の準備期間があって、原文一本は出せても延長事例の記録が出せない。記録室の整理が遅れているだけなら、原文の準備にも同じ時間がかかるはずだ。
原文はすぐに出てきた。延長事例の記録だけが遅延している。
何かが止めている。
あるいは——誰かが止めている。
フェルディナント殿は公正な人物に見えた。声に力があり、規則に基づいて判断する。マティアスへの指示も明確だった。
大神官自身が閲覧を妨害しているとは思えない。
であれば、マティアスが独断で遅延させているのか。あるいは、マティアスに遅延を指示した人物がいるのか。
今はまだ、推測の域を出ない。
「本日はこれで十分でございます。お時間をいただき、ありがとうございました」
私は立ち上がり、深く一礼した。
フェルディナント殿も立ち上がった。
「侯爵夫人殿。延長事例の記録については、整い次第知らせよう」
「ありがとうございます、大神官様」
面会室を出て、廊下でルートヴィヒと合流した。神殿の回廊を歩きながら、書き写した便箋を胸元に押さえた。
回廊の向こうに、白い聖衣の裾が一瞬だけ見えた気がした。けれど振り返ったときには、誰もいなかった。
馬車の中で、便箋を広げた。
延長規定は存在しない——正確には、延長は大神官の裁量と本人同意の二重要件であり、聖女の一存では成立しない。
イレーネの「延長される可能性がございます」は、制度上の根拠が薄い。
この事実を、レオン様に伝えなければ。
屋敷に着いたとき、日はすでに傾いていた。初冬の日は短い。
正装のまま廊下を歩いていると、書斎の前にさしかかった。
扉は閉まっている。レオン様は帰宅しているはずだ。聖務は夕刻前に終わる。
私は扉の前で立ち止まった。
いつもなら茶碗を置いて去る場所。けれど今日は、伝えるべきことがある。
「レオン様」
声をかけた。三年間で、この扉の向こうに声をかけるのは初めてだった。
数秒の沈黙。
扉が、内側から開いた。
レオン様が立っていた。聖騎士の外套は脱いでいて、白い襯衣姿だった。髪がわずかに乱れている。書き物をしていたのだろう、右手の指先にインクの跡がある。
私を見て、微かに目を見開いた。
「聖護誓約の原文を読みました」
声が落ち着いていることに、自分でも驚いた。
「延長規定は存在しません。延長には大神官様の発令と、レオン様ご本人の書面同意が必要です。聖女様の要請権はありますが、決定権はありません」
レオン様は黙って聞いていた。
表情が動いた。ほんのわずかに。眉の角度が変わり、口元の力が抜けた。
安堵、だと思った。
あるいは——それ以上の何か。自分一人で抱えていた鎖の重さを、誰かが初めて見てくれた、という表情。
レオン様は何も言わなかった。
けれど、頷いた。深く。いつもの小さな頷きではなく、はっきりと。
私も頷いた。
「失礼いたします」
一礼して、背を向けた。
廊下を数歩進んだところで、背後から声が聞こえた。
「……アネット」
振り返った。
レオン様は扉の枠に手をかけたまま、こちらを見ていた。
何かを言いかけて、やめた。口が閉じ、視線がわずかに逸れ、そしてまた戻った。
結局、言葉にはならなかった。
けれど、名前を呼んでくれた。
「レオン様」ではなく「アネット」。敬称なしの、ただの名前。
私は微笑んだ。
「おやすみなさいませ」
レオン様が小さく頷いて、扉を閉めた。
自室に戻り、正装を解いた。
便箋を机の上に広げ、書き写した原文をもう一度読んだ。
制度を知ったことで、初めて対等な位置に立てた。イレーネの言葉に振り回されるだけの立場から、事実に基づいて判断できる位置へ。
けれど、まだ終わりではない。
延長事例の記録が出てこなかった。あの不自然な遅延の裏には、まだ見えていない層がある。
そしてもう一つ。
今日、レオン様は私の名前を呼んだ。
「アネット」。
茶碗でも花でも頷きでもなく、声で。
胸の奥が温かい。名前をつけるのが怖いと思っていた感情が、少しずつ輪郭を持ち始めている。
けれど今は、感情よりも先にやるべきことがある。
明日の朝、茶碗を置きに行こう。いつもと同じように。
いつもと同じ——けれど、少しだけ違う朝になる気がした。
マルグリットが夕食の支度を伝えに来た。
「奥様、食堂のご準備ができております」
「ありがとう、マルグリット」
食堂に向かう廊下の途中、ふと足を止めた。
食堂のテーブルに、椅子が二脚並んでいた。
一脚はいつもの私の席。もう一脚は——向かい側に。
マルグリットが私の視線に気づいた。
「旦那様がお帰りの際に、椅子をもう一脚、とおっしゃいまして」
レオン様が、食堂に椅子を足した。
三年間、別々に食事をしてきた。レオン様は書斎で、私は食堂で。それが日課だった。
その日課を、変えようとしている。
まだ食卓に座っているわけではない。椅子が置かれただけだ。
けれどそれは——始まりだった。




