第4話「一輪の答え」
——悪役令嬢。
エミールの手紙を読み終えて、私はしばらく自室の椅子に座ったまま動けなかった。
手紙は二通目だった。前の便で予告された「詳しい内容」が、今日届いた。
「姉上。
王都の社交の場で、姉上についてよくない噂が流れています。
『ハイデンライヒ侯爵家の嫁は、聖騎士である夫を堕落させようとしている悪女である』 『聖女様が夫を清廉に保っているからこそ、あの家は安泰なのだ』
そう囁かれています。僕が直接聞いたのは伯爵家の茶会でしたが、商人や使用人の間でも似た話が出回っているようです。
出所を辿りました。噂は神殿の信者から広まっています。信者から商人へ、商人から使用人へ、使用人から社交界へ。
父上にも報告しました。姉上、慎重に動いてほしい。
エミール」
悪役令嬢。
聖騎士を堕落させる悪女。
私が。
便箋を持つ指先が、微かに震えていた。
深く息を吸った。吐いた。もう一度。
前世の技術が、感情の波を客観的に捉えようとする。衝撃。怒り。困惑。そしてその奥に——納得。
この半年、社交行事への招待が減っていた。屋敷を訪れる客が減った。使用人の一部がよそよそしくなった。マルグリットが使用人を引き締めていたのは、噂が屋敷内に染み込むのを防いでいたからだ。
すべてが繋がった。
便箋を机に置き、目を閉じた。
感情を脇に置く。分析する。
噂の構造。「聖騎士を堕落させる悪女」と「聖女が清廉を保っている」。この二つの文は対になっている。私を貶めると同時に、聖女の存在価値を高めている。
誰が得をするか。
聖女イレーネ。
先日の茶会で彼女が告げた言葉を思い出す。「レオン様の任期が延長される可能性がございます」。
任期の延長。聖騎士の誓約が続けば、レオン様は聖女の護衛を続ける。聖女は「護衛が必要な存在」として神殿内での地位を維持できる。
逆に任期が終われば、聖女は護衛を失う。聖女としての必要性の証明が一つ減る。
そして私が「悪役令嬢」であるという噂が社交界に定着すれば、侯爵家の嫁としての立場が弱まる。離縁の口実を世間が用意してくれる。
離縁させれば、レオン様を聖騎士として繋ぎ止めやすくなる。
噂の出所は神殿の信者。イレーネが直接「悪役令嬢」という言葉を使ったとは限らない。「あの方が聖騎士のお側にいらっしゃることが、少し心配で」——そんなふうに含みを持たせて漏らせば、信者たちが勝手に尾ひれをつける。
聖女の口から悪意のある言葉は出ない。出る必要がない。種を蒔けば、噂は勝手に育つ。
完璧な構造だった。
ペンを取り、エミールへの返信を書いた。
「エミール。
詳しい報告をありがとう。噂の出所が神殿の信者であるという情報は、とても重要です。
もう少しだけ、出所の特定を続けてもらえますか。ただし無理はしないでください。あなたが噂を追っていることが知れたら、ヴァイスフェルト家にまで迷惑がかかります。
慎重に。
姉より」
封をして、机の端に置いた。明朝、マルグリットに馬車便への投函を頼もう。
夕食を終えて、自室に戻った。
燭台の灯りで手紙を読み返す。何度読んでも、文字は変わらない。
悪役令嬢。
前世の記憶がちらつく。日本で読んだ物語の中に、そんな言葉があった。ゲームや小説の中で、主人公の敵として配置される令嬢。断罪され、追放され、破滅する役割。
まさか自分がその名で呼ばれるとは思わなかった。
ふと、疑問が浮かんだ。
レオン様は、この噂を知っているだろうか。
聖騎士として神殿に出入りしていれば、耳に入る可能性はある。むしろ、知らないほうが不自然だ。
知っているとしたら。
知っていて——それでも庭に花を植え、茶碗を空にし、小さな花を一輪、置いてくれたのだろうか。
確かめたい。
けれど確かめることは、あの人に「あなたの妻は悪役令嬢と呼ばれている」と突きつけることと同じだ。
レオン様がどう受け止めるか。怒るのか。傷つくのか。それとも、とうに知っていて黙っていたのか。
どの答えも、今の均衡を揺るがす。
庭の花で築いた、言葉を使わない対話。それが壊れることが怖い。
夜が更けた。
眠れなかった。
燭台を持って、中庭に出た。屋敷の敷地内なら護衛は不要だ。秋の夜気が頬を撫でる。
月明かりの下で、薬草の花が白く浮かんでいた。カモミール。ラベンダー。レモンバーム。レオン様が二年半かけて植え替えた庭。
花壇の端にしゃがみ込んで、カモミールの花弁に指先で触れた。冷たい。夜露を含んでいる。
ふと、気配を感じた。
顔を上げた。
屋敷の二階。書斎の窓に、明かりが灯っている。
レオン様がいる。窓辺に立って、こちらを見下ろしている。
月明かりと燭台の灯りだけで、表情までは読めない。けれど、そこにいることは分かる。
私は立ち上がった。
目が合った。
暗がりの中で、視線だけが繋がっている。
レオン様が小さく頷いた。
先日、中庭で苗を植えていたときと同じ仕草。言葉のない、けれど確かな応答。
あの頷きの意味を、今度は迷わずに受け取れた。
知っている。
この人は知っている。噂のことも、イレーネのことも。知った上で、ここにいる。知った上で、庭に花を植え、茶碗を空にし、窓から私を見ている。
敵は外にいる。
この人は敵ではない。
胸の奥で、何かがほどけた。恐怖ではない。怒りでもない。
安堵だった。
同時に、別の感情が浮上した。まだ名前はつけない。つけるには早すぎる。けれど確かにそこにある。茶碗の温度のように。花壇の花のように。見えなくても、ある。
自室に戻り、窓辺に座った。
書斎の灯りはまだ消えていなかった。
レオン様は好意なのか、責任感なのか。その問いは、もう少し形を変え始めている。
好意であっても責任感であっても、この人は三年間、誓約の中で私を見ていた。触れられないから見ていた。言葉にできないから、花を植えた。
それを知ったとき——私も同じだと気づいた。
私もまた、触れられないから見ていた。茶碗のずれを。足音を。庭の変化を。
同じことをしていた。三年間、ずっと。
好意と呼ぶのが怖いのは、好意だと認めた瞬間に、触れられないことが本当に苦しくなるからだ。
だから今は、名前をつけない。
けれど、一つだけ決めた。
待っているだけでは何も変わらない。イレーネの茶会でそう思った。エミールの手紙でそう確信した。
噂の正体を突き止める。誓約の条文を確かめる。イレーネの主張に根拠があるのかないのか、自分の目で見る。
そのために何が必要かを、明日から考え始めよう。
机の上にエミールへの手紙がある。明朝、これを出す。返事が届くまでの間に、できることを探す。
窓の外では、書斎の灯りがようやく消えた。
レオン様が眠りについた。
おやすみなさい、とは言えない。声は届かないし、言ったところで聞こえない。
けれど心の中で、そう呟いた。
おやすみなさい、レオン様。
あなたの庭の花は、ちゃんと咲いています。




