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触れられない夫が三年間そっと置き続けたものに気づいたとき私は泣いた  作者: 月雅


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第4話「一輪の答え」

——悪役令嬢。


エミールの手紙を読み終えて、私はしばらく自室の椅子に座ったまま動けなかった。


手紙は二通目だった。前の便で予告された「詳しい内容」が、今日届いた。


「姉上。


王都の社交の場で、姉上についてよくない噂が流れています。


『ハイデンライヒ侯爵家の嫁は、聖騎士である夫を堕落させようとしている悪女である』 『聖女様が夫を清廉に保っているからこそ、あの家は安泰なのだ』


そう囁かれています。僕が直接聞いたのは伯爵家の茶会でしたが、商人や使用人の間でも似た話が出回っているようです。


出所を辿りました。噂は神殿の信者から広まっています。信者から商人へ、商人から使用人へ、使用人から社交界へ。


父上にも報告しました。姉上、慎重に動いてほしい。


エミール」


悪役令嬢。


聖騎士を堕落させる悪女。


私が。


便箋を持つ指先が、微かに震えていた。


深く息を吸った。吐いた。もう一度。


前世の技術が、感情の波を客観的に捉えようとする。衝撃。怒り。困惑。そしてその奥に——納得。


この半年、社交行事への招待が減っていた。屋敷を訪れる客が減った。使用人の一部がよそよそしくなった。マルグリットが使用人を引き締めていたのは、噂が屋敷内に染み込むのを防いでいたからだ。


すべてが繋がった。


便箋を机に置き、目を閉じた。


感情を脇に置く。分析する。


噂の構造。「聖騎士を堕落させる悪女」と「聖女が清廉を保っている」。この二つの文は対になっている。私を貶めると同時に、聖女の存在価値を高めている。


誰が得をするか。


聖女イレーネ。


先日の茶会で彼女が告げた言葉を思い出す。「レオン様の任期が延長される可能性がございます」。


任期の延長。聖騎士の誓約が続けば、レオン様は聖女の護衛を続ける。聖女は「護衛が必要な存在」として神殿内での地位を維持できる。


逆に任期が終われば、聖女は護衛を失う。聖女としての必要性の証明が一つ減る。


そして私が「悪役令嬢」であるという噂が社交界に定着すれば、侯爵家の嫁としての立場が弱まる。離縁の口実を世間が用意してくれる。


離縁させれば、レオン様を聖騎士として繋ぎ止めやすくなる。


噂の出所は神殿の信者。イレーネが直接「悪役令嬢」という言葉を使ったとは限らない。「あの方が聖騎士のお側にいらっしゃることが、少し心配で」——そんなふうに含みを持たせて漏らせば、信者たちが勝手に尾ひれをつける。


聖女の口から悪意のある言葉は出ない。出る必要がない。種を蒔けば、噂は勝手に育つ。


完璧な構造だった。


ペンを取り、エミールへの返信を書いた。


「エミール。


詳しい報告をありがとう。噂の出所が神殿の信者であるという情報は、とても重要です。


もう少しだけ、出所の特定を続けてもらえますか。ただし無理はしないでください。あなたが噂を追っていることが知れたら、ヴァイスフェルト家にまで迷惑がかかります。


慎重に。


姉より」


封をして、机の端に置いた。明朝、マルグリットに馬車便への投函を頼もう。


夕食を終えて、自室に戻った。


燭台の灯りで手紙を読み返す。何度読んでも、文字は変わらない。


悪役令嬢。


前世の記憶がちらつく。日本で読んだ物語の中に、そんな言葉があった。ゲームや小説の中で、主人公の敵として配置される令嬢。断罪され、追放され、破滅する役割。


まさか自分がその名で呼ばれるとは思わなかった。


ふと、疑問が浮かんだ。


レオン様は、この噂を知っているだろうか。


聖騎士として神殿に出入りしていれば、耳に入る可能性はある。むしろ、知らないほうが不自然だ。


知っているとしたら。


知っていて——それでも庭に花を植え、茶碗を空にし、小さな花を一輪、置いてくれたのだろうか。


確かめたい。


けれど確かめることは、あの人に「あなたの妻は悪役令嬢と呼ばれている」と突きつけることと同じだ。


レオン様がどう受け止めるか。怒るのか。傷つくのか。それとも、とうに知っていて黙っていたのか。


どの答えも、今の均衡を揺るがす。


庭の花で築いた、言葉を使わない対話。それが壊れることが怖い。


夜が更けた。


眠れなかった。


燭台を持って、中庭に出た。屋敷の敷地内なら護衛は不要だ。秋の夜気が頬を撫でる。


月明かりの下で、薬草の花が白く浮かんでいた。カモミール。ラベンダー。レモンバーム。レオン様が二年半かけて植え替えた庭。


花壇の端にしゃがみ込んで、カモミールの花弁に指先で触れた。冷たい。夜露を含んでいる。


ふと、気配を感じた。


顔を上げた。


屋敷の二階。書斎の窓に、明かりが灯っている。


レオン様がいる。窓辺に立って、こちらを見下ろしている。


月明かりと燭台の灯りだけで、表情までは読めない。けれど、そこにいることは分かる。


私は立ち上がった。


目が合った。


暗がりの中で、視線だけが繋がっている。


レオン様が小さく頷いた。


先日、中庭で苗を植えていたときと同じ仕草。言葉のない、けれど確かな応答。


あの頷きの意味を、今度は迷わずに受け取れた。


知っている。


この人は知っている。噂のことも、イレーネのことも。知った上で、ここにいる。知った上で、庭に花を植え、茶碗を空にし、窓から私を見ている。


敵は外にいる。


この人は敵ではない。


胸の奥で、何かがほどけた。恐怖ではない。怒りでもない。


安堵だった。


同時に、別の感情が浮上した。まだ名前はつけない。つけるには早すぎる。けれど確かにそこにある。茶碗の温度のように。花壇の花のように。見えなくても、ある。


自室に戻り、窓辺に座った。


書斎の灯りはまだ消えていなかった。


レオン様は好意なのか、責任感なのか。その問いは、もう少し形を変え始めている。


好意であっても責任感であっても、この人は三年間、誓約の中で私を見ていた。触れられないから見ていた。言葉にできないから、花を植えた。


それを知ったとき——私も同じだと気づいた。


私もまた、触れられないから見ていた。茶碗のずれを。足音を。庭の変化を。


同じことをしていた。三年間、ずっと。


好意と呼ぶのが怖いのは、好意だと認めた瞬間に、触れられないことが本当に苦しくなるからだ。


だから今は、名前をつけない。


けれど、一つだけ決めた。


待っているだけでは何も変わらない。イレーネの茶会でそう思った。エミールの手紙でそう確信した。


噂の正体を突き止める。誓約の条文を確かめる。イレーネの主張に根拠があるのかないのか、自分の目で見る。


そのために何が必要かを、明日から考え始めよう。


机の上にエミールへの手紙がある。明朝、これを出す。返事が届くまでの間に、できることを探す。


窓の外では、書斎の灯りがようやく消えた。


レオン様が眠りについた。


おやすみなさい、とは言えない。声は届かないし、言ったところで聞こえない。


けれど心の中で、そう呟いた。


おやすみなさい、レオン様。


あなたの庭の花は、ちゃんと咲いています。

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