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触れられない夫が三年間そっと置き続けたものに気づいたとき私は泣いた  作者: 月雅


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第3話「聖女の微笑」

「お久しぶりでございます、アネット様」


客間の扉を開けた瞬間、その声が耳に届いた。


聖女イレーネは、すでに長椅子に腰を下ろしていた。白と金の聖衣をまとい、薄い微笑みを浮かべている。傍らに侍女が一人、壁際に控えていた。


私は軽く裾を持ち上げて一礼した。


「聖女様、ようこそお越しくださいました。お忙しいところ恐れ入ります」


「いいえ、少しお時間をいただければと思いまして」


イレーネは立ち上がらなかった。私が入室しても座ったまま微笑んでいる。


三ヶ月前の神殿公式行事で顔を合わせたときも、この人はこうだった。柔らかい微笑み。丁寧な言葉遣い。けれど立ち上がらない。


侯爵家の嫁である私に対して、聖女が立ち上がる義務はない。神殿の中では公爵級の待遇を受ける身だ。けれどここはハイデンライヒ侯爵家の客間であり、彼女は訪問者だ。


慣習として、訪問者は主人を迎えて立つ。


立たないことを選んでいる。意図的に。


小さなことだ。指摘するほどのことではない。けれど前世の技術が、この種の非言語的な力関係の主張を見逃さない。


マルグリットが茶と菓子を運んできた。


「お茶をどうぞ、聖女様」


銀の盆を低く差し出し、一礼する。マルグリットの所作は完璧だった。聖女に対する慣習的な敬意を過不足なく示しながら、余分な卑屈さは一切ない。


イレーネが茶碗を受け取った。指先が白い。祝福術の使い手特有の、血色の薄い肌。


「ありがとうございます。……まあ、よい香りですこと」


一口含んで、目を細めた。


「アネット様がお淹れになったのかしら」


「いえ、マルグリットが」


「そう。お上手ですわね」


マルグリットに視線を向けたが、すぐに私に戻した。使用人への関心は一瞬で終わる。


マルグリットが一礼して客間を出た。扉が閉まる音を聞いてから、イレーネが茶碗を受け皿に戻した。陶器の触れ合う音が、静かな客間に小さく響いた。


「実は、レオン様のことで少しお話がございまして」


来た。


私は茶碗を両手で包んだまま、微笑みを崩さなかった。


「レオン様の聖務が大変お忙しいことは、アネット様もご存じかと思います」


「ええ、存じております」


「聖騎士のお務めは、本当に過酷ですわ。身も心も捧げてくださって……わたくし、いつも感謝しているのです」


イレーネの声は穏やかだった。慈愛に満ちた聖女の口調。言葉の一つひとつが丁寧に選ばれている。


私は彼女の顔を観察していた。


前世で培った技術が、自動的に起動する。


口角の動き。眉の高さ。瞬きの頻度。視線が逸れるタイミング。


「感謝している」と口にしたとき、イレーネの口角はわずかに左に偏って上がった。本物の感謝であれば、口角は対称に動く。左右非対称の微笑みは——感情を作っている。


嘘とまでは言い切れない。レオン様の働きに対する感謝自体は、ある程度本物かもしれない。


けれど全体が「演技」だ。


聖女としての役割を完璧に演じている。一つひとつの言葉が計算されていて、隙がない。


「それでですね」


イレーネが茶碗をもう一度持ち上げ、口をつけずに受け皿に戻した。持ち上げて戻す。間を作るための所作だった。


「レオン様の任期が、延長される可能性がございますの」


「延長、でございますか」


「ええ。聖務の必要性から……大神官様もご検討くださっているようで。奥様にもご理解いただければと思いまして」


私の胸の中で、何かが冷たく引き締まった。


表面上は相談の体裁をとっている。けれどこの言い方は相談ではない。通告だ。「決まりかけていることを、あなたに知らせに来た」という構図を作ろうとしている。


大神官様もご検討くださっている。


本当だろうか。


聖護誓約の延長には大神官の発令と聖騎士本人の書面同意が必要だと、嫁入りの際に義父から渡された書類の中に記載があった。聖女には要請権があるのみで、決定権はない。


つまり、イレーネがここに来て「延長される可能性がある」と告げること自体には、制度上の効力がない。


けれどこの場で「延長は聖女様の権限ではないのでは」と指摘すれば、彼女は微笑んで否定するだろう。そしてその否定を、私は覆すだけの具体的な根拠をまだ持っていない。


嫁入り時の書類の記憶だけでは、確証にならない。


イレーネが続けた。


「レオン様も、きっとご理解くださると思いますの。聖務への献身は、騎士としてのお誇りでしょうから」


その一言で、彼女の意図がより鮮明になった。


レオン様は理解するはず。つまり、理解しないのは奥様のほうだ——という含みを、穏やかな笑みの下に忍ばせている。


視線を読む。


イレーネの目は私の顔をまっすぐに見ていた。瞳孔がわずかに開いている。興味と観察。この人もまた、私の反応を見ている。


聖女と侯爵家の嫁が、茶碗を挟んで互いを観察し合っている。


「ご配慮いただきありがとうございます、聖女様」


私は微笑んだ。


精一杯、穏やかに。何の感情も漏らさないように。


「レオン様の聖務については、私どもも大切に考えております。大神官様のご判断であれば、もちろん拝聴いたします」


イレーネの瞬きが一回、遅れた。


ほんの一拍。想定した反応とわずかにずれた、という微細な驚き。


彼女は私が動揺するか、不安を見せるか、あるいは反発するかを期待していた。そのどれでもない反応が返ってきたことに、ほんの一瞬だけ戸惑った。


けれどすぐに微笑みを戻した。


「まあ、ありがとうございます。ご理解いただけて安心しましたわ」


茶碗を持ち上げ、今度は実際に一口飲んだ。のどが動く。


「それでは、あまり長居してもご迷惑ですわね。今日はこれで失礼いたします」


イレーネが立ち上がった。聖衣の裾が床を擦る音。侍女が壁際から進み出て、外套を差し出す。


私も立ち上がり、客間の出口まで同行した。


「本日はわざわざありがとうございました、聖女様。お気をつけてお戻りくださいませ」


「ええ。アネット様も、お体に気をつけて」


三ヶ月前と同じ言葉。同じ微笑み。


その微笑みの裏に何があるのか、今の私には三ヶ月前よりも明確に見えていた。


客間に一人残り、窓の外を眺めた。


イレーネの馬車が門を出ていくのが見えた。白い幌が秋の陽に光っている。


「延長の決定権は、聖女にはない」


声に出して確認した。自分の記憶を信じるために。


嫁入り時の書類。義父が渡してくれた、婚姻に関連する制度の概要書。あの中に確かに聖護誓約の項目があった。任期は三年、延長には大神官の発令と本人の同意が必要——。


ただし、手元にその書類はない。記憶だけだ。


正確な条文を確認する必要がある。誓約の原文を。延長に関する規定を。イレーネの主張が制度的に正当なのか、それとも根拠のない圧力なのか。


確認するには、神殿の記録を見なければならない。侯爵家の書庫にはそこまで詳しい資料は置いていない。


書斎に向かった。レオン様はまだ神殿から戻っていない。書棚を確認したが、やはり神殿規則に関する書物は見当たらなかった。


自室に戻ると、机の上に手紙が置かれていた。


マルグリットが預かってくれたのだろう。封蝋にヴァイスフェルト侯爵家の紋章。弟のエミールからだ。


封を切った。


「姉上。


お元気でいらっしゃいますか。僕は先日、王都に出る用がありました。その折、社交の場で姉上の噂を耳にしました。詳しくはまだ書けませんが、気になることがあります。


次の便で詳しくお伝えします。どうかお気をつけて。


エミール」


短い手紙だった。


エミールの筆跡は少し右に傾いている。急いで書いたときの癖だ。


「姉上の噂」。


内容は書かれていない。けれどエミールが「気になること」と書くからには、良い噂ではないのだろう。


イレーネの訪問と、エミールの手紙。


同じ秋の午後に、二つの不穏な影が重なった。


窓辺の小瓶を見た。レオン様がくれた花は、もう枯れていた。花弁は落ち、茎だけが水の中で細く立っている。


けれど庭には、新しい花が咲いている。


レオン様が植えてくれた、薬草の花。あの花は枯れない。季節が巡れば、また咲く。


情報が足りない。


イレーネの意図も、噂の正体も、誓約の正確な条文も。足りないものだらけだ。


けれど一つだけ、はっきりしていることがある。


待っているだけでは何も変わらない。


知らなければならない。調べなければならない。この手で。


机の引き出しから便箋を取り出し、ペンを取った。エミールへの返信を書く。「次の便を待っています。どんな些細なことでも教えてください」と。


書き終えて封をしながら、ふと思った。


イレーネは微笑んでいた。あの柔らかな聖女の笑顔の裏で、何を計算しているのだろう。


前世の知識が、一つの言葉を思い出させた。


マイクロエクスプレッション。微表情。人間が感情を隠そうとするとき、意志に反して顔の筋肉がわずかに動く現象。


イレーネの微笑みは完璧に近かった。けれど完璧すぎた。本物の感情は、もう少し不揃いだ。


彼女は何かを恐れている。


何を恐れているのかは、まだ分からない。


けれど、恐れている人間は——動く。自分を守るために、必ず。


次の手紙を待とう。そしてその間に、神殿の規則について調べる方法を探そう。


茶碗ひとつでは、この状況は変えられない。

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