第2話「庭の秘密」
中庭の隅に、見覚えのない花が咲いていた。
初秋の朝の光を浴びて、薄紫の小さな花弁が風に揺れている。先週ここを通ったときには、確かになかった。
私は屋敷の敷地内であれば護衛なしで歩くことを許されている。中庭は日課の散歩の場所で、どこに何が植わっているかはだいたい把握していた。
だから、この花が最近になって植えられたものだと分かる。
しゃがみ込んで、花弁に触れずに観察した。葉の形、茎の太さ、花の付き方。薬草庫で見たことのある図譜を頭の中で繰った。
ヴァレリアナ。
和名は——前世の記憶では「纈草」と呼ばれていたはずだ。鎮静作用がある。不安を和らげ、眠りを助ける。
立ち上がって、中庭全体を見渡した。
花壇の配置が、少しずつ変わっている。以前は観賞用の薔薇が中心だったはずだが、この一年ほどで低木や草花の種類が入れ替わっていた。あまりに緩やかな変化だったから、日常の中で気づかなかった。
けれど今、改めて見れば分かる。
カモミール。ラベンダー。レモンバーム。ペパーミント。そしてヴァレリアナ。
すべて薬効のある植物だ。
台所に戻ると、マルグリットが昼食の仕込みをしていた。
「マルグリット、少し伺ってもよろしいですか」
「はい、奥様」
手を止めず、けれどこちらに耳を向けてくれている。この人はいつもそうだ。手を止めないことで「気軽にどうぞ」と伝えている。
「中庭の花壇のことなのですが」
「花壇でございますか」
「最近、植物の種類がずいぶん変わっていますね。薬効のあるものが増えている」
マルグリットの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
すぐに動きを再開する。包丁が野菜を刻むリズムが、わずかに速くなった。
「旦那様が任期に就かれてから、時折庭に出ておられます」
「レオン様が?」
「はい。聖務のない日の早朝に、庭番のヨハンと一緒に。ヨハンに苗の手配をお願いされることもあると聞いております」
レオン様が、庭に。
聖騎士として神殿の任務に就きながら、わずかな休みの日に庭の手入れをしている。しかも観賞用ではなく、薬効のある植物を。
「いつ頃からでしょうか」
「奥様がお嫁入りされて、半年ほど経った頃からと記憶しております」
二年半。
二年半も前から、この庭は変わり始めていた。
自室に戻り、窓辺に座った。
先日レオン様が茶碗の横に置いてくれた花は、小瓶の中でまだ生きている。薄い青紫の花弁は少し端が丸まってきたけれど、水を替えているおかげで茎はしっかりしていた。
その花と、庭の花を見比べる。
あの花も庭から摘んだものだったのだろうか。花の形や色は中庭で見たどの株とも微妙に違っていたけれど、屋敷の裏庭にも何か植えてあるのかもしれない。
考えるべきことは、花の種類ではない。
なぜ、薬草なのか。
安眠。鎮静。消化促進。冷え性の改善。頭痛の緩和。
私の体調に、合わせている。
嫁いでから最初の冬に、冷えがひどくて眠れない夜が続いた。マルグリットに相談して、湯たんぽと温かい飲み物で凌いだ。レオン様には言っていない。言う機会がなかった。
けれどその翌春、庭にカモミールが植えられた。
一昨年の夏、家計簿の作業が立て込んで、肩と頭が痛むことが増えた。眉間を押さえる癖が出ていたのかもしれない。
その秋、庭にラベンダーが加わった。
偶然だと思っていた。あるいは庭番の趣味だと。
偶然ではなかった。
レオン様は見ていた。触れられない代わりに、言葉を交わせない代わりに、庭の花で私の体調に応えようとしていた。
指先が震える。窓辺の小瓶を見つめたまま、しばらく動けなかった。
問いたい、と思った。
「レオン様、あの庭の花は私のために?」
たった一言、聞けばいい。
けれど三年間の沈黙は、一本の糸のように張り詰めている。振動を与えれば、震えが端から端まで伝わってしまう。
レオン様がどう答えるか、想像できない。
「そうだ」と言ってくれるだろうか。言ってくれたとして、その先にどんな会話が待っているのだろう。
触れることのできない夫婦が、花の意味について語り合う。それは温かいことなのか、それとも残酷なことなのか。
——前世の自分なら、迷わず聞いた。
臨床心理士として、曖昧さを放置することの危うさを知っていたから。確認しないまま推測を重ねると、やがて推測が事実にすり替わる。
けれど今の私は、臨床心理士ではない。
ハイデンライヒ侯爵家の嫁であり、触れることを禁じられた聖騎士の妻だ。
問うことが正しいと分かっていても、問うた先の沈黙に耐える自信がない。
もし答えが返ってこなかったら。もし「深い意味はない」と言われたら。
二年半分の花が、ただの花に戻ってしまう。
それが怖い。
翌朝。
書斎の前に茶碗を置いた。
今日の茶には、庭のカモミールとレモンバームを使っている。乾燥させたものではなく、早朝に中庭で摘んだばかりの生の葉を使った。
月見草のときと同じだ。あのとき私は「悪くない」と言われた薬草を混ぜて、レオン様が味の変化に気づくかどうかを試した。
今日の茶は実験ではない。
返事だ。
あなたが庭に植えてくれた花を、私はちゃんと見ています。気づいています。茶碗を通して、花壇を通して、あなたが何をしてくれているのか。
言葉にはしない。問いもしない。
代わりに、あなたの花で淹れた茶を、あなたの書斎の前に置く。
それが今の私にできる、精一杯の返答だった。
夕方、自室の窓から中庭を眺めていた。
秋の日は短い。西日が花壇を斜めに照らして、カモミールの白い花弁が橙色に染まっている。
ふと、人影が見えた。
中庭の奥、花壇の端にしゃがみ込んでいる人物。
レオン様だった。
聖騎士の外套は脱いでいて、簡素な白い襯衣の袖を肘までまくっている。土に手をつけて、何かを植えている。傍らに小さな苗が並んでいた。
庭番のヨハンが少し離れた場所に控えていて、ときどき苗の向きについて短く助言している。レオン様は黙って頷き、丁寧に土を寄せている。
あの手は、剣を振るう手だ。
聖騎士団で最も強いと言われる剣士の手が、苗の根を傷つけないようにゆっくりと土を掘っている。
見てはいけないものを見ている気がした。
けれど目が離せない。
レオン様が立ち上がり、土のついた手を井戸水で洗った。ヨハンが手拭いを差し出し、レオン様が受け取って手を拭く。
そのとき、視線が上がった。
二階の窓。私がいる場所を、まっすぐに見た。
息が止まった。
逃げるべきだったかもしれない。窓から離れて、見ていなかったふりをすべきだったかもしれない。
けれど体が動かなかった。
レオン様は数秒の間、私を見ていた。
それから、視線を外さないまま、手拭いを畳んでヨハンに返した。そして植えたばかりの苗に一度だけ目をやり、再び私を見て——小さく、頷いた。
たったそれだけの動作。
言葉はない。表情もほとんど変わらない。
けれどあの頷きには、意味がある。
「見てくれていたか」
あるいは。
「見てほしかった」
どちらなのかは分からない。けれどどちらであっても、あの人は私を拒んでいない。
窓辺に座り直して、小瓶の花を見た。
薄い青紫の花弁は、もう先端が少ししおれ始めている。あと数日で枯れるだろう。
けれど庭には、新しい苗が植えられた。
この人は——愛情なのか、責任感なのか。
まだ答えは出ない。
それでも今日、ひとつだけ確信できたことがある。
レオン様は「見てほしい」と思っている。触れられない三年間、言葉を交わせない日々の中で、庭を通して何かを伝えようとしている。
私はそれを受け取った。庭の花で茶を淹れることで、受け取ったと伝えた。
言葉を使わない対話。
それが愛情かどうかは、まだ分からない。名前をつけるにはまだ早い。
けれど——悪くない。
この関係は、悪くない。
夜、自室の机に向かっていると、廊下を足音が通り過ぎた。
マルグリットの足音。いつもより少しだけ速い。
扉の前で止まり、軽く叩く音。
「奥様、失礼いたします」
「どうぞ」
マルグリットが入ってきた。いつもの落ち着いた顔だが、口元がわずかに引き締まっている。
「奥様、お客様です」
「こんな時間に?」
「神殿から、聖女様のお付きの侍女がお見えです。明日、聖女様がこちらをご訪問されたいとのお伝えでございます」
聖女イレーネの、訪問。
三ヶ月前の神殿公式行事以来、直接の接触はなかった。あのとき彼女は私に微笑んで、「お体に気をつけて」と言った。
その微笑みの裏に何があったか、今の私には推測がある。
「……承知しました。お茶の支度をお願いしてもよろしいですか、マルグリット」
「かしこまりました」
マルグリットが一礼して去った後、私はしばらく窓の外を見つめた。
庭の花は暗闇の中で見えない。
けれど、そこにあることは知っている。




