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触れられない夫が三年間そっと置き続けたものに気づいたとき私は泣いた  作者: 月雅


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第2話「庭の秘密」

中庭の隅に、見覚えのない花が咲いていた。


初秋の朝の光を浴びて、薄紫の小さな花弁が風に揺れている。先週ここを通ったときには、確かになかった。


私は屋敷の敷地内であれば護衛なしで歩くことを許されている。中庭は日課の散歩の場所で、どこに何が植わっているかはだいたい把握していた。


だから、この花が最近になって植えられたものだと分かる。


しゃがみ込んで、花弁に触れずに観察した。葉の形、茎の太さ、花の付き方。薬草庫で見たことのある図譜を頭の中で繰った。


ヴァレリアナ。


和名は——前世の記憶では「纈草」と呼ばれていたはずだ。鎮静作用がある。不安を和らげ、眠りを助ける。


立ち上がって、中庭全体を見渡した。


花壇の配置が、少しずつ変わっている。以前は観賞用の薔薇が中心だったはずだが、この一年ほどで低木や草花の種類が入れ替わっていた。あまりに緩やかな変化だったから、日常の中で気づかなかった。


けれど今、改めて見れば分かる。


カモミール。ラベンダー。レモンバーム。ペパーミント。そしてヴァレリアナ。


すべて薬効のある植物だ。


台所に戻ると、マルグリットが昼食の仕込みをしていた。


「マルグリット、少し伺ってもよろしいですか」


「はい、奥様」


手を止めず、けれどこちらに耳を向けてくれている。この人はいつもそうだ。手を止めないことで「気軽にどうぞ」と伝えている。


「中庭の花壇のことなのですが」


「花壇でございますか」


「最近、植物の種類がずいぶん変わっていますね。薬効のあるものが増えている」


マルグリットの手が、ほんの一瞬だけ止まった。


すぐに動きを再開する。包丁が野菜を刻むリズムが、わずかに速くなった。


「旦那様が任期に就かれてから、時折庭に出ておられます」


「レオン様が?」


「はい。聖務のない日の早朝に、庭番のヨハンと一緒に。ヨハンに苗の手配をお願いされることもあると聞いております」


レオン様が、庭に。


聖騎士として神殿の任務に就きながら、わずかな休みの日に庭の手入れをしている。しかも観賞用ではなく、薬効のある植物を。


「いつ頃からでしょうか」


「奥様がお嫁入りされて、半年ほど経った頃からと記憶しております」


二年半。


二年半も前から、この庭は変わり始めていた。


自室に戻り、窓辺に座った。


先日レオン様が茶碗の横に置いてくれた花は、小瓶の中でまだ生きている。薄い青紫の花弁は少し端が丸まってきたけれど、水を替えているおかげで茎はしっかりしていた。


その花と、庭の花を見比べる。


あの花も庭から摘んだものだったのだろうか。花の形や色は中庭で見たどの株とも微妙に違っていたけれど、屋敷の裏庭にも何か植えてあるのかもしれない。


考えるべきことは、花の種類ではない。


なぜ、薬草なのか。


安眠。鎮静。消化促進。冷え性の改善。頭痛の緩和。


私の体調に、合わせている。


嫁いでから最初の冬に、冷えがひどくて眠れない夜が続いた。マルグリットに相談して、湯たんぽと温かい飲み物で凌いだ。レオン様には言っていない。言う機会がなかった。


けれどその翌春、庭にカモミールが植えられた。


一昨年の夏、家計簿の作業が立て込んで、肩と頭が痛むことが増えた。眉間を押さえる癖が出ていたのかもしれない。


その秋、庭にラベンダーが加わった。


偶然だと思っていた。あるいは庭番の趣味だと。


偶然ではなかった。


レオン様は見ていた。触れられない代わりに、言葉を交わせない代わりに、庭の花で私の体調に応えようとしていた。


指先が震える。窓辺の小瓶を見つめたまま、しばらく動けなかった。


問いたい、と思った。


「レオン様、あの庭の花は私のために?」


たった一言、聞けばいい。


けれど三年間の沈黙は、一本の糸のように張り詰めている。振動を与えれば、震えが端から端まで伝わってしまう。


レオン様がどう答えるか、想像できない。


「そうだ」と言ってくれるだろうか。言ってくれたとして、その先にどんな会話が待っているのだろう。


触れることのできない夫婦が、花の意味について語り合う。それは温かいことなのか、それとも残酷なことなのか。


——前世の自分なら、迷わず聞いた。


臨床心理士として、曖昧さを放置することの危うさを知っていたから。確認しないまま推測を重ねると、やがて推測が事実にすり替わる。


けれど今の私は、臨床心理士ではない。


ハイデンライヒ侯爵家の嫁であり、触れることを禁じられた聖騎士の妻だ。


問うことが正しいと分かっていても、問うた先の沈黙に耐える自信がない。


もし答えが返ってこなかったら。もし「深い意味はない」と言われたら。


二年半分の花が、ただの花に戻ってしまう。


それが怖い。


翌朝。


書斎の前に茶碗を置いた。


今日の茶には、庭のカモミールとレモンバームを使っている。乾燥させたものではなく、早朝に中庭で摘んだばかりの生の葉を使った。


月見草のときと同じだ。あのとき私は「悪くない」と言われた薬草を混ぜて、レオン様が味の変化に気づくかどうかを試した。


今日の茶は実験ではない。


返事だ。


あなたが庭に植えてくれた花を、私はちゃんと見ています。気づいています。茶碗を通して、花壇を通して、あなたが何をしてくれているのか。


言葉にはしない。問いもしない。


代わりに、あなたの花で淹れた茶を、あなたの書斎の前に置く。


それが今の私にできる、精一杯の返答だった。


夕方、自室の窓から中庭を眺めていた。


秋の日は短い。西日が花壇を斜めに照らして、カモミールの白い花弁が橙色に染まっている。


ふと、人影が見えた。


中庭の奥、花壇の端にしゃがみ込んでいる人物。


レオン様だった。


聖騎士の外套は脱いでいて、簡素な白い襯衣の袖を肘までまくっている。土に手をつけて、何かを植えている。傍らに小さな苗が並んでいた。


庭番のヨハンが少し離れた場所に控えていて、ときどき苗の向きについて短く助言している。レオン様は黙って頷き、丁寧に土を寄せている。


あの手は、剣を振るう手だ。


聖騎士団で最も強いと言われる剣士の手が、苗の根を傷つけないようにゆっくりと土を掘っている。


見てはいけないものを見ている気がした。


けれど目が離せない。


レオン様が立ち上がり、土のついた手を井戸水で洗った。ヨハンが手拭いを差し出し、レオン様が受け取って手を拭く。


そのとき、視線が上がった。


二階の窓。私がいる場所を、まっすぐに見た。


息が止まった。


逃げるべきだったかもしれない。窓から離れて、見ていなかったふりをすべきだったかもしれない。


けれど体が動かなかった。


レオン様は数秒の間、私を見ていた。


それから、視線を外さないまま、手拭いを畳んでヨハンに返した。そして植えたばかりの苗に一度だけ目をやり、再び私を見て——小さく、頷いた。


たったそれだけの動作。


言葉はない。表情もほとんど変わらない。


けれどあの頷きには、意味がある。


「見てくれていたか」


あるいは。


「見てほしかった」


どちらなのかは分からない。けれどどちらであっても、あの人は私を拒んでいない。


窓辺に座り直して、小瓶の花を見た。


薄い青紫の花弁は、もう先端が少ししおれ始めている。あと数日で枯れるだろう。


けれど庭には、新しい苗が植えられた。


この人は——愛情なのか、責任感なのか。


まだ答えは出ない。


それでも今日、ひとつだけ確信できたことがある。


レオン様は「見てほしい」と思っている。触れられない三年間、言葉を交わせない日々の中で、庭を通して何かを伝えようとしている。


私はそれを受け取った。庭の花で茶を淹れることで、受け取ったと伝えた。


言葉を使わない対話。


それが愛情かどうかは、まだ分からない。名前をつけるにはまだ早い。


けれど——悪くない。


この関係は、悪くない。


夜、自室の机に向かっていると、廊下を足音が通り過ぎた。


マルグリットの足音。いつもより少しだけ速い。


扉の前で止まり、軽く叩く音。


「奥様、失礼いたします」


「どうぞ」


マルグリットが入ってきた。いつもの落ち着いた顔だが、口元がわずかに引き締まっている。


「奥様、お客様です」


「こんな時間に?」


「神殿から、聖女様のお付きの侍女がお見えです。明日、聖女様がこちらをご訪問されたいとのお伝えでございます」


聖女イレーネの、訪問。


三ヶ月前の神殿公式行事以来、直接の接触はなかった。あのとき彼女は私に微笑んで、「お体に気をつけて」と言った。


その微笑みの裏に何があったか、今の私には推測がある。


「……承知しました。お茶の支度をお願いしてもよろしいですか、マルグリット」


「かしこまりました」


マルグリットが一礼して去った後、私はしばらく窓の外を見つめた。


庭の花は暗闇の中で見えない。


けれど、そこにあることは知っている。

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